住職のひとりごと

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◎仏教というライフスタイル2◎ [平成8年(96)3月記]

2019年12月10日 07時38分02秒 | ナマステ・ブッダより
◎仏教というライフスタイル2◎ [平成8年(96)3月記]



前回はお釈迦様が初めて説法されたときの話をいたしました。お釈迦様がそのとき語られた<4つの聖なる真実>のうち初めの3つについて、簡単に説明してみました。

一つ目は<この世を見よ>ということで、私たち一人一人があらゆることに批判的によく物事を見ていくことの必要性を説いています。特に自分の行いや心の中の現実をよく観察して下さい。それは決して楽しいこと喜ばしいことばかりではないということ。

つまり自分の思い通りばかりにはいかず、悩み多いこの現実の姿を見つめ受け入れていく必要性を説かれました。しかし、それを受け入れることはそう簡単なことではありません。なぜならそうした現実を受け入れ難くしている心があるからです。

そこで<なぜ悩むのか>ということについて、お釈迦様は、快いこと、楽しいことばかりに心を向かわせる心の癖、それは欲の心であり、欲によって生き、欲に翻弄されている自分に、世の中に気づき、その欲を滅していく必要があると説かれました。

そして本当の<幸せとは何か>、それはそうした欲を始めとした心の汚れに右往左往している今の自分を知り、心の汚れを滅していきつつ、混乱のない、心静かな安らぎの生活こそが求めるべきものなのだということなのです。

<4.『どう生きるか』>
たとえば新しく会社に就職したり、希望の学校に入学できたとしても、日を追うごとに現実とのギャップに、こんなはずではなかったと思う人は多いはずです。頑張って夢にまで見ていたところへ入ったとたんに幻滅を味わい興ざめしてしまうこともよくあります。

こうした時に不満を会社や学校など自分以外のもののせいにすることなく、自分の問題として冷静に捉えていく必要があります。いったん嫌になると嫌な面ばかりが目につき、一面的に見て判断を下しがちになります。

しかし様々な角度からもう一度眺めてみることによって自分の置かれた状況をよく知り、そして満たされない思いの原因が自分の勝手な思い込みにあること、現実とは自分の思い通りではなく、そう立派なものでもきれいなものでもない、しかしこの社会にあって全く価値のない物などあるはずはなく、そのことに自分が気づけなかったのだと知る必要があります。

回りのものに美しい上等なものばかり、自分に都合の良いことばかりを求めているから憤り不満が募るのだと知り、それはまったく身勝手な自分の欲のせいだったのだと自分の心を見つめていく必要があります。

さらに回りのすべてのお蔭で自分が今あることも知らねばなりません。そして自分が抱いてきたイメージを捨てて現実の中で自分を見つめ、何を自分は学ぶべきなのかと洞察することをせずに、会社や学校をいくら取り替えてもその人の悩みは繰り返すばかりではないでしょうか。

私たちはこうした問題について、人のことではその通り考えが甘いんだよ、と簡単に 言ってしまえるものです。しかし自分の今抱えている問題や悩みについては盲目となり、実はその根は、この例と大して変わらないのだということになかなか気づかないものです。

自分という思いに対する執着が心の目を 曇らせているのです。冷静に自分の心を知ること、このことこそ最も大切なことであり、仏教の命題でもあります。自分の様々な心の動きや、無意識の行為の中に深層で働く心を見ていくと、普段気づかない弱い自分、愚かな、醜い自分をも知ることができます。名誉なことやほめられることがあっても、自分を知る人は常に謙虚な気持ちでいられます。

そうして段々と自分の心が分かってくると、人の気持ちも分かり、誰のことも怒ったり非難したりなどできなくなります。また、自分だけよければいいという思いもなくなり、やさしい気持ちがもてるのです。

神戸の震災の折り、罹災証明をもらうために何時間も列をなして並んだ人達が文句ひとつ言われなかったというのも、それはその当時の皆さんが一番つらい大変な気持ちを身に沁みて分かっておられたからではなかったでしょうか。

そこで次に、こうして自分の心を知り、本来の幸福を得るための方法論としてお釈迦様が教えて下さった生き方、<8つの偏らない生き方>について述べてみようと思います。

<偏らないとは>
偏らない生き方を述べる前に、偏った生き方とはどんなものなのでしょうか。お釈迦様の時代には、心の修行をする人は誰もが断食や呼吸を止めたりといった苦行に励んでいました。また一方では快楽に耽り、贅を尽くした生活に日々を費やす人たちもいました。その両極端の生き方をお釈迦様は批判され、自然にあるがままに生きつつ心を清らかにしていく道を説かれました。

そして中道といわれるこの生き方は今の時代にこそ、必要な教えでもあります。少し前に誰もが関心を持ったあのインドの行者が見せるように超能力を得んがために極端な節制をしたり、薬物の力を借りたり、特別な儀式が必要だと思ったり、またお金を積めば何か得られると考えてしまったり。そのような極端なやり方にこそ何かあると思ってしまいがちです。しかしこうした超能力や霊能を得られたとしても心の平安を得ることはできません。

また一方では、地球環境が日々破壊されつつあることを知りながら、物や電気、水道、ガスなどを使い放題使う生活をして、何の反省もしない人々。こうした自らの首を絞めつつあることに気づかない愚かな生活を送っている人は、結構まだ多いのではないでしょうか。いずれも極端な生活です。こうした両極端な生活を離れ、今いる生活環境の中で未来にわたり責任のある生き方を心がける必要があります。

物が豊富にある生活が幸せである、豊かであるという考えは、誤りであるとはだれもが知っていますが、小さな子供がかわいいからとなんでも言われた物を買い与えることも本人のためにはならないことです。心のふれあいを物の垣根がじゃまをするからです。

しかし分かっていても、ついこうしたことを私たちはしがちです。また、かわいいから叱らない、暴力はいけないから叩かない、ではかわいい子供は世の中でどう生きていいのか分からなくなってしまうのではないでしょうか。

絶対にこうすべきなのだとか、理想ばかりを追い求めてもその期待通りには結果は現れません。マニュアルがあれば安心、権威ある人の言葉は鵜呑みにするという人もあるようですが、マニュアルも人が作った物であり、書かれていないことも多く、たとえその通りの事例があったとしても、そのときの自分にとってそのままうまくいくとは限りません。

放任主義や管理主義といった極端に走らず、先入観や固定観念、いわゆる常識習慣に左右されずに、その場その時々に自ら最善の方法を行うことが偏らないということなのです。

それではこの8つの偏らない生き方の各論に入っていこうと思いますが、その8つとは次のような内容です。

<8つの偏らない生き方>(八正道)

1.偏らない見方(正見) 生きるとは
2.偏らない思惟 (正思) 大切なものとは
3.偏らない発言(正語) 他との関係
4.偏らない行為(正業) 行いの意味
5.偏らない生活(正命) 生活姿勢
6.偏らない努力(正精進) 善と悪
7.偏らない気付き(正念) 自分を知る 
8.偏らない集中(正定) 心の安定
 
<1.偏らない見方(正見)-生きるとは>  
自分のことを恵まれた、この世でこんなに幸せ者はいないなどと思える人はあまりいないと思います。おおかたの人は何で私はこんなところにいるんだろう、なぜこんなことをしているのだという不満を心の奥で持ってはいないでしょうか。

この先どうなるのかと不安になり占いに頼ったり、何かあると神様に手を合わせたり。今の境遇を親のせいにしたりと。しかし確かに生まれたばかりで何も分からない赤ちゃんが両親の元で育てられ自立するまでの間、多くは親に依存して過ごす訳ですから、その責任は両親にもあるとも言えます。

が、その後、高校大学に入るころには自分で自分のことに責任をもてる年頃と言えるのですが、その頃になっても何から何まで親や人のせいにする人も多いと聞きます。成熟する年齢が昔に比べかなりずれこんできているのではないでしょうか。30歳を過ぎ、結婚してまで親にこずかいをせびる大きな子供も多いということです。

ところで誰かが大いに怒り、頭から湯気を出す程にどなりちらしたとします。その後 で、その怒っていた人がその場から出ていったとしても、その人の怒りの心、その激しい心の磁力のようなものがその場に残っているということがよくあります。

それと同じ様 に、私たちは体の寿命を終えても、心は消えて無くなることなく、その死ぬ瞬間の心におうじて、次の世に生まれ出てくることになります。たいがいの人は何かやり残したことを持って死ぬのですから、何度も何度もこうして生死を繰り返してきて、これからも続いていくのです。

そして、その度毎に、その人の抱えたこの世への執着に適したお母さんのお腹に宿り、生まれ出てくるのです。ですから、その両親に育てられているというのも実は私たち自身の前世を含めたこれまでの行いのせいなのだということなのです。

つまり、いくら不満を抱いて人のせいにしてみてもそれはすべて身から出た錆。やはり自業自得なのです。

しかし、ただ単にお金持ちの家や社会的に地位権威のある家に生まれたとしても、だからといってその人の過去の行いが良かったからと簡単に決めることはできません。この世でその場を与えられ何かを学ばせてもらうために生まれてきたというに過ぎないからです。

お金があり、地位がある家のほうが逆に誓約、義務、緊張が多く大変なのではないでしょうか。丁度アジアの国々から今の日本の人たちを見ているような物なのです。ですから、今の自分で、これでいいんだ、満足に何もできない、何も知らない、思い通りでない自分を受け入れ、だからこそこれからを大切に自分に責任を持って歩まねばならないのです。

数年前、今もお世話になっているお寺の本堂を雑巾掛けしていたある日のこと。丁度そのお寺が、私がそもそも仏教に出会うきっかけを与えてくれた記念すべき場所の真ん前に建つ寺であった、ということに初めて気づきました。

と、その瞬間に今のこの私はこれまでのすべての自分の瞬間瞬間の行為思いのすべての集積としてある。今、こうあるべくして、こうある。すべてのものの縁の織りなす一つのほとばしるものとして今がある。多くの瞬間の様々な選択の道を一つもくるわずにやって来て、今ここにある。

今、目にするもの耳にするものすべてのものに出会わせてくれている、または出会わされていると感じ、すべてのものが自分にとってとても意味のある何かを得させてくれる為にある。そう思えて、それからしばらくは、目にするものも人も、すべてのものがとてもありがたく大切に思えました。

そして今という時間の次の瞬間は、今の私の行為思いが結果していくものであり、一瞬一瞬の積み重ねが明日の私を作り出すということ。つまり今の私が何を欲し大切にし行うか、そのことによって次の自分が作られていくということ。

瞬間瞬間自分も変化しつつあるのであり、運命や迷信も占いも必要ない。それらをも越えて私たちは今を生きているということを知りました。今何をなすか、これだけであり、その結果は自分自身が引き受けなければいけないということなのです。

善い行いをしても、その結果が必ずしも善いとは限らないのがこの世の常ではあります。しかしその行為による功徳は必ず無くなることはありません。

小さい頃、よく母親から「みんなによくしてあげなさいよ、そうすればその人から返ってこなくてもきっと誰かからおまえもよくしてもらえるから」と言われたことを思い出します。よくしてもらえるかどうか分かりませんが、善いことをして徳を積めば、この世で目に見える形でその結果が現れなくても、その功徳は必ずめぐってくるのだと思います。

困っている人を助けたり、お年寄りに席を譲ったりした後の喜ばしいたのもしい思いは誰もが経験したことがあると思います。このような誰でもができる小さなことの積み重ねが、私たちの心に満ち足りた安らぎをもたらすのだと思います。

常に、そのときその時に満ち足りた落ち着きを感じつつある人は、一生涯幸せに過ごすことができるはずです。しかし、自分の明日の幸せばかりを夢見て今の心が動揺し穏やかでない人は、いつまでも幸せを実感することはできないことでしょう。

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