活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

コレジヨに動員をかけた印刷工房

2009-07-06 15:12:26 | 活版印刷のふるさと紀行
ここは島原半島の西南端の加津佐。ドラードたちの帰国した1590(天正18)にイエズス会のコレジヨが出来、そのそばに印刷工房が現われたのです。その2年前に秀吉の伴天連追放令が出ておりますから役人の目が届かない恰好のロケーションといえます。

 ここに印刷工房を構えたのはヴァリニャーノの知恵だったかも知れませんが、コレジヨのそばという理由が大きかったように思います。その印刷工房に一歩、足を踏み入れますと、まず、目にするのがこれから印刷機にかける「和紙」の干し場でした。 ちょうど脱穀前に稲束を干すあの光景に似通っていたはずです。

 では、その印刷用紙の和紙はどこから来たものでしたでしょうか。九州にも古くから和紙の産地はありましたが、筑後和紙の八女にしても肥前和紙の名尾にしてももっと後年、元禄になってからですから、おそらく都のイエズス会を通じて、京都あたりから調達したものと想像できます。

 しかし、450年前の製造や流通を考えると、「サントス」や「どちりいな」に
使われた用紙の調達時期や手段については、これまた時間からいって謎がありすぎです。恐らく当時、和紙は一工房で一日百枚もできればいいところでしたから。す
 まさか、加津佐での和紙づくりは無理でしょうが、私は紙干し、紙運び、紙数え、刷り上りチェックなどの作業にコレジヨからかなりの労働力が提供されたのではないかと見ます。日本にかぎらず、天正遣欧使節が寝泊まりしたローマやポルトガルでもコレジヨや修道院のそばに、印刷所がありましたから印刷工房の立地もそれに倣ったのではないでしょうか。

 活字鋳造や印刷用和紙の下準備だけでもかなりの下働きが必要です。キリシタン版の印刷現場については規模・人数・時間などなどもっと知りたいことがたくさんあります。



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