活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

パリ万博と清水卯三郎

2011-05-11 11:27:44 | 活版印刷のふるさと紀行
幕末から明治にかけて印刷文化史に登場させたい人物の中で清水卯三郎
ほど型破りで面白く、謎だらけの人物はおりません。
 
 1867年、慶応3年にパリで開かれた万博に日本ははじめて参加した
のですが、江戸幕府と薩摩藩と佐賀藩の3者が別々に、「日本」として
参加したこと、日本館で茶菓の接待をした3人の柳橋の芸妓のあでやかな
着物姿としとやかな風情、屏風、ちょうちん、陣羽織など、日本の出品物
がかもしだす異国情緒がパリっ子に「ジャポニズム・ブーム」をもたらし
たことでいまも語りつがれております。その舞台裏で清水卯三郎が大活躍
したのです。

 彼は幕府発行のパスポート50号を携帯して渡仏したのですが、「活版
印刷機械、石版機械、陶器着色法、鉱物標本、西洋花火等」を持ち帰ったと、
雑誌『もしほ草』にあるように、印刷機械に目をつけた点で注目したい人物
です。武士でも役人でもない一介の商人だった彼が後述しますが、フランス
で平仮名の字母をつくらせて持ち帰った話もあります。

 清水卯三郎がどうしてパリ万博に行ったのか、私の調べたところによると、
幕府の使節団の団長、徳川慶喜の弟、昭武の随行、渋沢栄一のおつきとして
行ったという説、もうひとつは彼自身がパリ万博参加を熱望して、日本の調
味料醤油、酒や茶などの飲み物、刀剣、弓矢、火縄銃などの武具、化粧道具
屏風、人形、提灯などの工芸品まで出品物を蒐集してプロデューサーとして
幕府のお墨付きをもらって出かけたという説です。

 もちろんプロデューサー役が本当で、上記の芸者を送り込むプランも彼が
たてたもので、ナポレオンⅢ世から銀メダルをもらっています。当時、38
歳でしたが、卯三郎は現在の羽生市の酒造業の三男坊、横浜や江戸で商人と
して活躍し、パリから帰国後「瑞穂屋商店」を開業したので、瑞穂屋清水卯
三郎と屋号付きで紹介している本が多いようです。



 

 
コメント
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