マカオでもう一つ連想させられたのが、「美華書館」です。美華書館と
いうと「上海の」という枕ことばが付いて回りますが、実は1844年に
マカオで開設されたアメリカ長老会派印刷所がもとになっています。
つまり、アメリカが出版と印刷を通じて中国にキリスト教を広めようと
いう目的でつくったのでミッションプレスなどとも呼ばれていました。
写真の社屋は上海で盛業をきわめたころのですが、マカオの時代、次に、
寧波(ニンボー)に移転して花華聖経書房と称していた時代も粗末な社屋
だったようです。
この美華書館に日本の活版印刷はおおいにお世話になっております。幕
末から明治にかけて、まだ、日本では活字も印刷もままならない時代に辞
典類などの印刷を委託していたからです。美華書館として上海に移転した
のが1860年でした。
さて、本木昌造を調べていますと、必ず最初に目に飛び込んで来るのが
この美華書館という社名と「ウィリアム・ガンブル」という名前です。
そのことは次回にふれることにしてガンブルは1858年に5代目館長
として美華書館に着任したのですが、前歴がペリー来航のときの艦隊通訳
官とは。中国語や日本語に通じていたようです。
美華書館は中国人に伝道するための漢訳聖書や布教用の印刷物を大量に
印刷する会社でしたからガンフルは館長として経営にタッチするかたわら
印刷担当宣教師としての役割をはたしていたのです。
いうと「上海の」という枕ことばが付いて回りますが、実は1844年に
マカオで開設されたアメリカ長老会派印刷所がもとになっています。
つまり、アメリカが出版と印刷を通じて中国にキリスト教を広めようと
いう目的でつくったのでミッションプレスなどとも呼ばれていました。
写真の社屋は上海で盛業をきわめたころのですが、マカオの時代、次に、
寧波(ニンボー)に移転して花華聖経書房と称していた時代も粗末な社屋
だったようです。
この美華書館に日本の活版印刷はおおいにお世話になっております。幕
末から明治にかけて、まだ、日本では活字も印刷もままならない時代に辞
典類などの印刷を委託していたからです。美華書館として上海に移転した
のが1860年でした。
さて、本木昌造を調べていますと、必ず最初に目に飛び込んで来るのが
この美華書館という社名と「ウィリアム・ガンブル」という名前です。
そのことは次回にふれることにしてガンブルは1858年に5代目館長
として美華書館に着任したのですが、前歴がペリー来航のときの艦隊通訳
官とは。中国語や日本語に通じていたようです。
美華書館は中国人に伝道するための漢訳聖書や布教用の印刷物を大量に
印刷する会社でしたからガンフルは館長として経営にタッチするかたわら
印刷担当宣教師としての役割をはたしていたのです。