活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

ウィリアム・ガンフルと日本

2011-05-19 10:16:58 | 活版印刷のふるさと紀行
 美華書館の印刷物はそのほとんどが「明朝体」で印刷されており
ました。当時、木版用として使われていた書体の中で、ダンゼン、
明朝が読みやすいという評判でしたから、そのまま、活版印刷の活
字書体にとりこまれたものと思います。写真は美華書館の活字販売
広告ですが、たしかに読みやすい「明朝体」です。


 同じ漢字使用国として活版印刷に心を寄せていた日本の出版・印
刷人が長崎在住のオランダ人を通して美華書館の噂を聞き、美華書
館に目を付けたのは当然といえましょう。幕末時点で、語学辞典の
印刷を海を越えて発注しているほどです。
 しかし、もっと積極的に、ウィリアム・ガンフルその人を掴まえ
る策に出たのが本木昌造でした。
 
ガンフルが中国から帰米すると聞くや、オランダ人フルベッキの
仲介で長崎に招いて1869年(明治2)11月から翌年3月まで
長崎の製鉄所付属の活版伝習所で本木昌造を中心に有志の人たちが
電胎母型の製作、活字鋳造法、活字の種類と企画、組版技術などの
活版印刷全般を彼から学んだのです。

 とくに活字の鋳造法で行き詰っていた本木にとってガンフルの講
義はそのまま血となり、肉となりました。ガンフルあってこそ、本
木が本格的な印刷所経営「新塾活版製造所」に乗り出せたのですし、
このとき、ガンフルに学んだ人たちが日本に活版印刷の曙をもたら
したのですから、まさに“ガンフルさま、さま”であったのです。

 これは蛇足ですが、ガンフルの4ヶ月間の報酬額はわかっていま
せん。それ以後の“お雇い外国人”ほどの高給ではなかった?
 
コメント
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