活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

一転、涼しくなった佃を歩く

2014-08-27 23:05:42 | 活版印刷のふるさと紀行

  広島の土砂災害から一週間が経ちます。日が経つにつれ犠牲になられた人の数が増え、日本特有の地形と地質の脆さを知らされて暗澹たる思いです。加えて最近の気象の異常さです。この一週間、東京にも大雨が降りそうな予報の日もありましたが、連日の猛暑だけで大雨は免れて来ました。

 ところが一転、今日は日中でも25℃を割るような気温、いっきに10℃も下がるとはこれまた驚きでした。そうなれば、そうなったで暑さで敬遠気味だったウォーキング再開、祭りのシーズンが終わった佃(つくだ)界隈を目指しました。リバーシティ21の前の通りから中央大橋手前を左折、石川島公園の隅田川沿いを佃大橋に向けてあるいたのですが、目に飛びこんできた水上バスの航跡も涼味を感じさせるどころか、心なしか愁色を滲ませているように見えたのです。

 夏の終わり、いや、もういい加減本当に終わりにしてもらいたいと思いながら歩いて行った先の佃は予想通りしずかでした。伏見神社の境内も人気がありませんでしたし、神輿の展示の前にも人影はありません。それでいて、江戸とまではいいませんが、昔の空気が残っているようで私はこの一角が好きです。

 佃島の由来は家康が1603年(慶長8)に江戸幕府を開いたときに摂津国佃村から漁民33人をこの地に招いたのがはじめだといいます。漁民たちはこの石川島の隣の小島をふるさとの佃村から佃島と呼んだといいます。本能寺事件のとき家康の三河脱出に手を貸してもらったお礼だというのですが、開府早々の江戸で、たとえ漁業権を与えられたとしても摂津の暮らしとくらべてどうだったでしょうか。これは 私が『活版印刷紀行』の取材で平野富二が石川島造船所を開いたころを調べたときからの疑問です。

 人っ子ひとりとも出会わないまま、佃小橋たもとの創業天保八年の「天安」で好物のウナギの佃煮を求めてポッンポッンと降り出した雨の中を帰ってきました。


 


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