活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

明治初期、活字開発に携わった人たち

2011-05-09 14:00:17 | 活版印刷のふるさと紀行
印刷の文化史の上で、活字開発のストリーは興味ぶかいので私が属し
ている神田川大曲塾の研究会でもしばしば話題になります。
 とくに活字のサイズや材質から製法、デザインなど活字研究家の先生
方のお話をうかがっていると、その“微に入り細をうがつ”研究の奥行
きに、ついつい、脱帽してしまうことしばしばです。

 そこへ行きますと、私などはただただ興味本位で申しわけない次第で
すが、私は活字づくりに挑んだ人たちの人物といいますか、印刷人その
ものに関心を持ちます。
 日本に活版印刷を持ち込んだコンスタンチノ・ドラードについて調べ
たのもそれですし、本木昌造や平野富二に惹かれたのも動機は同じです。

 幕末から明治にかけて活字開発に携わった人はたくさんいますが、そ
のほとんどがあまり知られておりません。
 明治初年にパリで平仮名の母型をつくらせて持ち帰ったという瑞穂屋
清水卯三郎などについては知りたいことだらけです。
 上海の美華書館に飛び込んで勉強したという耕文書館の熊谷金次郎、
東京新製活版所の天野芳次郎や神崎正誼などもいい仕事をしている割に
人間像はつまびらかにされておりません。

 次回からそういった人たちについて書いてみようと思っています。

 
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大鳥の錫造活字

2011-05-08 09:33:25 | 活版印刷のふるさと紀行
大鳥圭介の金属活字の開発はおもしろいやり方でスタートしました。
いかにも兵学研究者らしく、最初は小銃の弾を溶かして四角に鋳込んで
その片一方に文字を彫って活字を作ったというのです。
 そして植字をしてバレンで印刷したのですが、2.3回で文字が磨滅
したり、つぶれたりして使い物にならないことがわかりました。

 彼は、緒方洪庵や坪井忠益の門下生として蘭学を学んでいますから、
蘭書を読み漁って錫と鉛だけではなく、アンチモニーを加えることを知
り、改良に改良をくわえるのです。いずれにしても「大鳥の錫造活字」
といわれますから錫の量が本木活字などより多かったようです。

 出来あがった活字は明朝体ふうの漢字とカタカナで16ポ、11ポく
らいで、この活字をつかって最初に印刷、出版されたのが、『築城典刑』
(全5冊・1860年)と『砲科新論』(1861年)の2冊です。こ
の2冊とも縄武館から出ていますが、その後、同じ活字を使って刊行さ
れた兵学書は幕府の陸軍所から出ています。

 おもしろいのは、『大鳥圭介伝』に≪我邦に於ける活字の開祖とし云
えば、世人皆長崎の平野富二を推すも、此は西洋の器械を初て輸入して
製作市たるものにして、余が在来の錺屋(かざりや)に命じて、鉄砲玉
を作るが如くにして作りたるとはその難易同日の論にあらず。而して余
の製作は平野に先つこと数年なれば、日本に於ける活字の開祖は恐らく
かく申す大鳥ならんと云いしことありしとぞ≫とあることです。
平野の親分、本木は無視されています。

 この大鳥圭介、明治維新後の活躍は目覚ましいものがあります。
 工部大学校の校長、工部技監、学習院院長、駐清国特命全権公使、朝
鮮公使、枢密顧問官、男爵という具合です。
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大鳥圭介という大物がいた。

2011-05-07 14:32:11 | 活版印刷のふるさと紀行
大震災のせいで今年はゴールデン・ウイークなどとはいえませんが、その一日、
房総の海を眺めていてこのブログで、大きな忘れ物をしていることに気がつきま
した。それは 本木昌造の最初の流し込み活字に遅れること6年、合金の活字を
鋳造して『築城典刑』などの西洋兵学の翻訳書を印刷した大鳥圭介です。

 実は大鳥圭介というと、私は幕臣として戦いの場にあった大鳥圭介、新撰組の
土方歳三らとの官軍を向こうに回した戦いや五稜郭の立てこもりなどをつい思い浮
かべてしまうからです。実際には『築城典刑』から、7~8年後のことですが。
 ご多分に洩れず、彼も印刷史上以外で実に多彩な生涯を送っています。

 天保4年といいますから1833年、いまの兵庫県生まれで本木よりも9歳年下
でした。緒方洪庵の適塾で蘭学や医学を学び、西洋式兵学から写真を学んだり、勝
海舟や中浜万次郎とも親しくなります。ごく短い間、尼崎藩や徳島藩に籍を置いた
こともありますが、1859年、安政6年蕃書調所に移ります。これが 彼が印刷
や出版に目を向けるようになったきっかけではないかと考えます。その2年前に縄
武館の兵学を教えていますが、あるいは中浜万次郎からアメリカの印刷事情を聞い
たりした影響もあったかも知れません。

 

 

 

 
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