あの日から5年。
・・5年かぁ。
2011年3月11日から今日で4年が経ちました。
4年経っても仮設住宅での暮らしを余儀なくされている方や、原発事故の影響で避難生活をおくっている方がまだ多くみえる現在、あの日から何も変わっていないような、あの日からすべてが変わってしまったような、そんな気持ちがしています。
震災とその後の避難生活で亡くなられた方に、鎮魂の祈りをこめて、「忘れない」と誓いたい。
何事を取り決めるにあたっても
われわれの決定が
以後の七世代にわたっておよぼすことになる影響を
よく考えなければならない
ーアメリカ先住民イロクォイ族の誓いー
東日本大震災から3年を迎えるのを前に、この日曜日、TV各局で震災を特集した番組が放送されていました。
その中で、私も訪れたことのある町、宮城県の七ヶ浜町も映りました。
いまだ多くの人が暮らす仮設住宅。
町並みが消え広がる大地。
見覚えのある道路、見覚えのある田んぼ。
あれから3年が経つというのに、なかなか進まない復興。
講談社
発売日 : 2014-03-07
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週刊少年マガジンで連載された、東日本大震災でボランティアとして活動した人々を描く、森川ジョージさんのマンガ、『会いにいくよ』(講談社)を買いました。
ゲストとして、有名マンガ家さんが何人も作画協力しています。
どのコマを誰が描いたのか当てるのも楽しい♪
原作は絵本作家の”のぶみ”さん。(『上を向いて歩こう!』講談社刊)
ボランティア活動の実体験を綴ったドキュメントです。
この原作も読みました。
TVから流れてくる信じられない光景。
混乱する情報に、追い討ちをかける原発の爆発。
現地の情報が不足する中、気持ちだけがあせり、自分にも何かできないかと行動を起こすと、とたんに「自己満足」「偽善」と非難の言葉が投げつけられる。
何かしなくていいのか?
自分に何ができるのか?
このマンガではボランティアが取り上げられていますが、決してそれを「正しい行動」だと賞賛しているのではありません。
それは作者もあとがきで語っています。
未曾有の大災害です。
何をしたらいいのか、何が必要なのか、余震は、放射能は、その情報すら手に入らない中、ここに登場する人々は、当時いてもたってもいられず、現地での労働という行動を選んだだけです。
「また何かが起こった時、私ならどう考え、どう行動をするのか」それを考えるきっかけになれば嬉しい、と作者は語っています。
ボランティアなんて偽善だと考える人もいます。
私もそれがベストな行動だとは思いません。
他の形で貢献したいと考える人もいます。
人はみんなそれぞれの考え方、それぞれの生活を抱えています。
震災を風化させるな! と思う人もいるでしょう。
もう忘れたい、と思う人がいても当然です。
人間なんです。
いろんな人がいます。
ただ、作者も、原作者も、この作品に参加したたくさんのマンガ家さんも、「まだ終わっていない」と思っていることだけは、メッセージとして伝わってきました。
まだ終わっていない。だから、また会いにいくよ・・・
これは、今、まさに起こっている現実だから。
東日本大震災を取り上げた物はいろいろありますが、マンガ家さんたちの情熱を知ることができる一冊です。
震災後、様々な取り組み、被災地での支援が行われていますが、マンガ家さんもサイン会などを何回も開いています。
この本も、初版の売上は義援金にするそうです。
マンガですが、すごくリアルです。
大げさでも誇張でもなく、私自身、ボランティアの現場で同じように感じたり、同じように悩んだりしました。
つらい描写もあります。
もちろん描かれていない所もあります。
でも、よく伝えている作品だと思いました。
すごく伝わってきました。
マンガって、すごいですね。
東日本大震災から2年。
昨年お世話になった、宮城県七々浜町の復興支援ボランティアセンターから、お手紙をいただきました。
内容は、今も多くの方が生活再建に向けて頑張ってみえる七々浜町の「今」を知ってもらいたいと立ち上げられた、「七々浜復興応援サポータープロジェクト」を案内するもの。
「『被災地』としてではなく、『また訪れたい場所』として、七々浜のいいところをもっと沢山の人たちに知ってほしい」
と書かれていて、すごくいい取り組みだと思いました。
田植えをするにもまだ細かいガレキが残っているとか、七々浜ではまだ700世帯近くの方々が住み慣れた土地を離れて苦労されているとか、まだまだ復興にはほど遠い現状。
正直、被災地の現在を報道するニュースも少なくなり、「風化」していくことが不安でした。
お知らせの中には、七々浜町の町民の方からのメッセージというのが同封されていたんですが、それがこちら。
ボランティアに来て下さった皆様へ
七々浜町民からのメッセージです。
「ボランティアさんへ かれきしょふんありがとうございました」
おぉ!!
一生懸命書いてくれたんでしょうね。
私なんか、ほんの少ししかボランティアに参加していないのに、なんかすっごくうれしい♪
もうあれから1年か~
七々浜町は宮城県の中部にある砂浜の美しい町。
日本三景の一つ、松島をのぞむことのできる風光明媚なところです。
震災直後にお世話になった、岩手県にも再び訪れたい!
あの時体験したこと、出会った人々はいまでも私の宝物ですが、これでまた一つ宝物が増えました♪
TVで伝えない被災地の様子。
津波で何もかも流された場所を、暴走族のような爆音を響かせて走るバイクがいます。
カップルはどんな時でもイチャイチャしています(笑)
私はいいと思うんですよ。
うっ積したエネルギーをバイクに乗って晴らしたい気持ちもわかるし、たとえ背後に被災した風景が広がっていたとしても、デートの定番っていったらやっぱり海岸を二人で歩きたいだろうし。
もっともバイクで暴走するエネルギーがあったら、よっぽどボランティアに引っ張ってきてガレキ拾いをやらせようかとも思いましたけどね。
宮城県七ヶ浜町の美しい浜辺。
この海があふれてきたんですよね…
5月21日に日本各地で観測された月が太陽の前を横切る金環日食。
ここ七ヶ浜町でも観測されたということで、TVで紹介されていました。
地震も津波も金環日食も自然現象の一つ。
地球から月までの距離は38万4千km、太陽までの距離は1億5千万km離れているそうですが、数字が大きすぎてちょっと実感できません。
ちなみに地球の直径がおよそ1万2千7百kmです。
ボランティアが一日かかって集めた細かいガレキがこんな感じ。
自然の力の前では人間の力なんて小さなものですが、まったくの無力というわけではありません。
小さな一歩一歩ですが、確実に前に進んでいます。
作業は大変ですが、声をかけあったり、バケツリレーをしたり、できるだけコミニュケーションを取りながら、時には笑いも入れながら、みんなが作業をできるようにリーダーや地元のボランティアの方が気を遣ってくれたりします♪
あまり必死になって根をつめると、かえってケガをしたり日射病になったりするんですよね。
高校生や初めてボランティアに参加した人なんかは、頑張りすぎちゃうことがけっこうあるんです。
今回一緒にボランティアをした70代の男性は、「ボランティアに来るような奴は変わり者だよ」と笑いながら言っていましたが、世界の人口は70億人もいるんですからね、その一割が変わり者だったとしても、7億人もいる。
日本の人口より多い!
私は全然変わり者だなんて思っていませんよ(苦笑)
その男性も、そう言いながら自分は何回もボランティアに来ているわけですし☆
被災地支援といっても、様々な取り組みがあります。
現地でガレキの撤去をしたり、お弁当を配ったり、子供たちに本を読み聞かせたり、自分の特技を生かしてアロマセラピーだとか、ネイルボランティアだとか。
東北の物産を買ったり、義援金という形で募金したり。七ヶ浜では土のう袋が足りないということで、HPで寄付を募っていますが、そうした震災関係のHPもたくさん立ち上がっています。
直接そういう所で何かをしなくても、普段の生活の中でちょっとだけ意識するというのも私は支援だと思います。
気にかける。
自分の家族や友人や隣近所の人のように、少しだけ気にかけてもらえれば、それが「最近元気にしてる?」という電話程度のものでもいいので、意識の片隅にでも置いてもらえれば、きっとどこかで形を変えて被災者の方に届くと、私は思っています。
私が今回たまたまボランティアに行くことができたのは、家族が元気で、職場に理解があって、現地で受け入れてくれる場所があったからです。
海岸でデートしていたカップルのように、今が微妙な時期、という相手がいたらそっちを優先していたかも知れません(苦笑)
人間ですから、人によっていろんな考え方があります。
次は私の方が助けてもらう立場になるかも知れませんし、経済が破綻して世界恐慌になるかも知れませんし、明日世界の終りが来るかも知れませんしね。
今回一緒にボランティア活動に参加した東南アジア在住の日本人女性は、自分の目で見た光景を帰って周りの人たちに伝えると言っていました。
頼りなさそうな見た目に反して、泥だらけで頑張っていた青年は、震災以降、自分の仕事や生き方につても考えるようになったともらしていました。
ひとりでやって来て何日もプレハブの宿泊施設に泊まり、ボランティア活動に従事していた女性は、多くの人とこんなに話をしたのは初めてだったと語り、笑顔で帰って行きました。
たった三日間の付き合いでしたが、私にとっても忘れられない三日間になりました。
またふるさとが増えてしまった(笑)
サン・テグジュペリの「星の王子さま」じゃありませんが、こうして関係ができてしまうと、もう無関心ではいられないんですよね。
砂漠のキツネが王子様に言います。
あんたはオレにとって十万の男の子のうちのひとり。
オレはあんたにとって十万のキツネのうちの一匹。
だから、オレはあんたがいなくたっていいんだ。
あんたもやっぱり、オレがいなくたっていいんだ。
だけど飼いならされたら、あんたはオレにとって、この世でたったひとりのひとになるし、
オレはあんたにとってかけがえのないものになるんだよ…
「飼いならす」=「絆」ってことなんでしょうね。
長々と書いてきましたが、ボランティア報告はこのくらいにして、私も普段の生活で頑張りたいと思います。
読んだ本もたまってきましたし(笑)
あらためまして、今回お世話になった七ヶ浜の皆さん。
本当にありがとうございました。
被災地の一日も早い復興を、心よりお祈り申し上げております。
体に気をつけて、頑張って下さい。
いつかまた、必ずたずねて行ますからね☆
昨年、2011年の5月に岩手県の被災地を訪れてから、一年ぶりの東北地方。
当時はまだ自衛隊や警察車両がたくさんいて、ガレキを積んだトラックがひっきりなしに走っていました。
まだ行方不明の方が多くみえた時期で、津波で沼地のようになってしまった場所に長い棒を差して捜索している現場を何度も見ました。壊れた家屋、骨組みだけになってしまった鉄筋建築、つぶれて転がっている車の多いこと。そして車両につけられた遺体発見現場を表す×印。
今回訪れた宮城県の七ヶ浜町では、大きなガレキは片付けられていましたが、その作業も今年に入ってからようやくやってもらえたと、地元に住むボランティアの方が言ってみえました。
津波の被害にあった広大な田畑は、細かいガレキまで取り除かないとそのままでは到底使えません。GW(ゴールデンウィーク)を過ぎて、ボランティアの数が減っているのではと心配していましたが、多くのボランティアの方が集まってみえて、ちょっと安心しました。
昨年見たボランティアセンターの活気と復興にかける人々の意気込みは、ここ七ヶ浜のボランティアセンターでもまったく衰えていませんでした。
でもそれは、ボランティアを必要とする被災地の現状が、昨年と変わっていないということでもあるわけです。
七ヶ浜ボランティアセンターの内部に掲げられた、寄せ書き。
その正面玄関と、玄関横に置かれたボランティアセンターのマスコット(?)、ウサギの「シャンティ」と「アロカ」♪
ウサギは暑さでグッタリしてました(苦笑)
動物がいると、ずいぶん癒されます☆
ボランティアセンターのほとんどが公共施設を間借りして作られた急ごしらえのため、トイレや水道設備が十分ではありません。
作業現場でも多くの場所で水が使えないので、道具やカッパを洗うのにも苦労します。
雨の日の作業現場。
みんな泥だらけです(苦笑)
でも大丈夫。並んで待てばトイレも水もちゃんと順番が回ってきます。水道や電気が寸断され、水道局の職員や自衛隊が水を配っていた昨年とは、ここが大きな違い。
でも、こんな風景もまだあちこちで見られます。
車やガレキが山と詰まれた景色。
ずっと遠くに松林が映っていると思いますが、ガレキの山はあの松林を隠してしまうほどの高さです。
これはさすがにボランティアではどうにもできない。
「東京の街にこんなガレキがあったら、一年間も放っておきますか!」とTVで訴えていた方もいらっしゃいましたが、その気持ちもわからないではない景色でした。
心と体の復興。
七ヶ浜のボランティアセンターでは、有志による「からだ復興支援隊」という活動をしてみえました。
これは仮設住宅などで、被災者の方にマッサージを受けてもらい、体のケアを行うという活動。
みんなが困っている状況の中で、なかなか自分のことは口に出せないという被災者の方もみえて、マッサージを受けながら、思わず出た愚痴を聞いたり、ポロリとこぼれた本音、いま困っていることなどを、本来の支援活動に活かしたりしているそうです。
愚痴を言えるくらいの元気がある方がいい…そういう言葉が紹介されていました。
なかなかすすまない復興の動きの中で、肉体的にも精神的にもギリギリのところで生きている人たちがいる。
直接の被災者の方はもちろんですが、友人や知人を亡くされた方。職場の仲間や、教員をやっていて教え子を救えなかった方。地震以降、何となく気持ちが沈んでしまうという人まで含めて、心と体の復興も必要なんだと、改めて思いました。
情に流されれば人は弱くなり、正義を行おうとすれば頑(かたく)なになり、礼儀を重んずればそれはへつらいになる。
仙台を治めた伊達政宗は、遺訓としてこう言い残しています。
気を長く、心穏やかにして倹約すること。倹約とは不自由を忍ぶことなり。この世に客として生まれてきたと思えば、これを行うことに何の苦労もない。
思いつめない。感情に押し流されない。自分の固くなった心をもみほぐし、力を抜く。
正宗公の意図とはずいぶん違う解釈かも知れませんが、不安や悲しみの中でさえ、まだまだ元気や勇気をもらえることはいっぱいあるんだと、ちょっとでも思ってもらいたい。私にできることはささいなことですが、そんな気持ちでいます。
私なんて、歴史好きだから正宗公の騎馬像を見ただけで盛り上がったりします♪
人間の心には、いろいろな感情が同居していて当たり前。
それは大切な感情を忘れてしまったわけではなくて、自然なことであり、そうした何もかもひっくるめて自分なわけですから。
作業が終わって慌ててバスに飛び乗り、何とか見てきた仙台城跡の伊達政宗騎馬像です!
う~ん、カッコイイ!!
宮城県でのボランティア活動三日目、最終日。
二日間の野外活動で日に焼けて顔が真っ赤になったので、クリームを塗っての現地入り(笑)
いやぁ、東北をなめていました。
半そでを着ている人なんていないし、朝晩も寒しで、油断してしまったんです。
気になる方は日焼け止めが必要かも。
すごく健康的な顔にはなります♪
最終日は田んぼのガレキ撤去。
燃えるゴミ、燃えないゴミ、ガラス類に分別して、小さな山を作っていき、最後に土のう袋に詰める作業をしました。
この作業を何回か繰り返し、表面の土をおこして、何日もかけながら異物が無くなるまで続けます。服のタグのような小さな布切れから、細かいガラスの破片まであるので、人海戦術でやるしかありません。
震災から一年以上が経ち、仮設住宅ができて生活はしていけるようになったが、生活の基盤がまだ何ともならない。そういう話も聞きました。
塩水をかぶりガレキだらけになった農地。地盤沈下で港としての機能を失った漁港。高台への住宅地の移転も、新しい防波堤や避難道路の建設も、まだまだ計画段階。
片付けられたガレキの持って行き場所も決まっていません。
ボランティアに参加された方の中にも、「思った以上にすすんでいない現状に驚いた」ともらした方がずいぶんいました。
今回、私は宮城県は七ヶ浜という、日本三景のひとつ、松島のちょっと南に下ったところにある場所でお手伝いをさせてもらいました。
海水浴場として賑わう美しい海岸が有名で、松島湾に浮かぶ島々ものぞむことができます。
町はそんなに大きくないそうですが、地震による津波で100名以上の方が亡くなり、今も千人を超える方々が仮設住宅で暮らしてみえるそうです。
私たちが作業をしていると、親子連れの地元の方が通りかかり、小さな女の子が「頑張れ」と応援してくれました(笑)
一瞬で疲れが吹き飛びましたね♪
人間って不思議にできていますね。
こんなことで頑張れるんです。
三日目もケガ人も体調を崩す人も出さず、無事に作業は終わりました。
現在、宮城県から自宅に戻り、この日記を書いています。
さすがに疲れましたが、たくさんの人と出会い、いろいろと目にして、多くのことを学んだ三日間でした。
まだまだ書きたいことがたくさんあるので、しばらくこの三日間のことを書きたいと思います。
作業後の時間を使って、伊達政宗公の有名な騎馬像も見て来たんですよ♪
仙台に行ったら、絶対に見たいと思っていたんです。
宮城県の皆さん、お世話になりました。
「仙台駅はどちらですか?」と運悪く不案内な私に道をたずねてこられたおばあちゃん、無事に駅にはたどり着けたかな?
また必ず、訪ねてみたいと思っています。
ありがとうございました。
宮城県でのボランティア活動二日目。
今日は神戸から来られた方々と、野球部だという高校生の団体と一緒に、畑のガレキ撤去を行ないました。
いや~、高校生は元気元気!
日中はけっこう気温が上がったのですが、機敏に動いてくれて、作業がずいぶん早く進みました。
働き手としても大助かりですが、まずボランティアに来てくれた、その持ちが嬉しいじゃありませんか。
海岸まで歩いて5分のその畑の回りには、家屋の基礎部分だけになってしまったかつての家の痕跡が並んでいます。
その残されたコンクリートの基礎でさえ、土台がえぐられ、ひび割れて、ところところがもぎ取られてしまっています。
そのくせ、すぐ近くの高台を見上げれば、被害を免れた家々を見ることができるんです。
普通に洗濯物が干され、普通にガレージに子どもの自転車が置かれていて、そこだけ切り取ればごく普通の高台の風景。
目の前に広がる土台だけになってしまった風景との落差に、運命を分けた境界線みたいなものを感じて、とても割り切れない、持って行きようのない憤りを感じてしまいました。単純に、土地の高低差の問題なんでしょうが、そうした分かり切った答えじゃなくて、現実と感情の間を埋める何かが欲しい。私でさえそう思ってしまいます。
東北出身のお笑いコンビ、サンドウィッチマンのブログをチェックしているのですが、そこに、震災でお子さんと奥さん、そして奥さんのお腹の中にいた赤ちゃんを亡くされた同級生が、「子供に会いにいってくる」と書き残して、自ら命を絶ってしまったという文章がアップされていました。ブログに書くかどうかには躊躇するところがあったそうですが、現実として、いろいろな思いを込めて、その一家のことを書かれたそうです。
ボランティアの現場では、繰り返し注意されることがあります。
怪我や日射病についてはもちろんですが、まず第一に被災者の方の心情を考慮すること、作業風景を記録するための写真撮影はいいが、仲間うちでふざけて記念写真を撮ったり、野次馬的な興味で壊れた家などを撮影しないこと、ガレキといっても、持ち主にとっては大切な生活用具だったのだから、何ひとつおろそかに扱わないこと。ボランティアに来てやっていると思わず、お手伝をしているという気持ちを忘れないこと。
文章にしてしまうと何だか堅苦しいですが、難しくはありませんし、度を越さない程度には冗談を言ったりして、和やかな雰囲気で作業はしています。
自身も被災された地元のボランティアの方が、率先して笑わせたり、コミュニケーションをはかろうとしてくれたりするんです。すごいなぁと思ってしまいます。
若い人もたくさん参加していて、現場では使ったりしませんが、バスの中とか、ボランティアセンターに帰ってからは、結構な確率でスマートフォンなんかを開いていて、そこはいま時の若者だなぁという感じ(苦笑)
ピアスをした男の子や、タトゥーを入れたり、ファショナブルな私服を着た子もいますが、作業着をドロだらけにして働き、時に被災者の方の話に涙したりして、すっかり感受性のしなびてしまったこちらが驚く場面もしばしば(笑)
若い人からもいろいろ学ぶことが多いです☆
残すところあと一日。
本当に短い期間しかお手伝いできなくて心苦しいのですが、せーいっぱい頑張ろうと思います。
宮城県でのボランティア活動一日目。
小雨の降る中、田んぼのガレキ拾いを行いました。
ガレキ撤去じゃなくてガレキ拾い。
その田んぼはもう何度もボランティアの手が入っていて、細かいガレキしか残っていないのです。
細かいガレキが拾いつくされたら、試験的に作くつけをやってみるんだとか。
海水に一度浸かっているので、難しいとは思いますが、その地域では第一号となるため、まずは一歩を踏み出すお手伝いになるはず、とリーダーの方がおっしゃていました。
リーダーといっても、ボランティアの中から推薦や挙手で選ぶだけで、別に資格やなにかがあるわけではありません。みんな素人。自分にできることを積極的に出し合って、あとは周りのみんなでフォローする。いわば、家族で何かしなくちゃいけない時と同じ。引越しやお葬式など、家族みんなで協力しなくちゃいけない状況。この一大事をなんとか乗り切らなくちゃならない。一家の大黒柱はいるけれど、グイグイ引っ張っていくタイプもいれば、周りから突っ込まれながら進むタイプもいるわけです(苦笑)
今回も多くの方がボランティとして参加しています。
10回以上という自称ボランティア病という方から、初めて参加する方、海外で暮らしていてどうしても日本のことが気になってやって来たという方に、娘たちがボランティアに参加して、その影響で自分もやってみようと思ったというお母さんたち。
立場や年齢の違う様々な人間が、一緒に働き、汗と泥まみれになって、誰が誰だか分からなくなりながら活動しています。
ずいぶんキレイになったところもありますが、受け入れ先のないガレキが山と積まれていたり、重機がはいって整地している場所もありました。
まだ農地しか見ていないので、住宅街がどんな様子なのかは分かりません。
観光に来ているわけではないので、割り振られた場所で頑張るだけです。
あ、でも仙台名物の牛タンは食べましたよ♪
お金を使うのも復興協力ですからね。
美味しかった~♪♪
京都の大文字焼きとして知られる五山の送り火で、東日本大震災によってなぎ倒された岩手県陸前高田市の松で作られた薪を燃やすという計画があったそうですが、「放射能に汚染されいていたらどうする」という何の根拠もない地元の反対で取りやめになったそうです。
薪には被災地の方の思いが書かれていたとニュースで見ました。
検査の結果、放射性物質は検出されていないとも。
陸前高田市には私もボランティアの一員としてお手伝いにうかがいました。
自分の家も津波の被害に遭いながら、温かい汁物をごちそうしてくれたご夫婦の顔が忘れられません。
自分の理解できないものはとりあえず排除する…
現地のことを知らず、放射能についてもよくわからないという無知が人間を不安にさせるんですね。
偶然ですが、先日外部被爆検査を受けて来ました。
陸前高田市で数日間、ドロとヘドロにまみれた長靴や手袋なども持ち込み、それも検査してもらいましたが、異常な放射線は検出されませんでした。
私自身も正常の範囲内で健康への影響はなし。
京都の地元の方を一方的に責めるつもりは私にはありません。連日の原発事故による放射能汚染のニュース。食品への影響。誰だって不安になりますよね。
私も自治体の発表する地元の環境放射線測定結果というのをチェックしていますが、自分が現在どのくらいの放射線をあびているのか正直わからないというのが気持ち悪いと思っていました。
気になったらとりあえず確かめて見るのが一番。
私の住んでいる岐阜県は、福島原発からは約400㎞離れていますが、県内で放射線検査の受けられるところを探してみました。
まず地元の総合病院に訊いたところ、被災地に派遣された自治体職員や病院スタッフの検査は行っているが一般市民の検査はやっていないという答え。
内心(そりゃないだろ~)とも思いましたが、いち職員に文句を言ってもしかたないので、今度は岐阜県庁の東日本大震災健康相談窓口というところに問い合わせてみました。
そこの職員によると県内に内部被爆を検査する機械はなく、外部被爆の検査は県庁と他2ヶ所の比較的大きな保健所で受けられるとのこと。
県内に3ヶ所だけ!?
それもかなり遠い場所だったので思わず「いったい健康相談ってどんな仕事をしているんですか?」とちょっと嫌味を言うと「ちょっと待って下さい」といって、「あぁ、この病院でもやってくれるかも知れません」とやはり少し遠いものの先ほどの保健所よりは近い総合病院を教えてくれました。
何とか力になろうとしてくれたのか、案外真面目な公務員さんなのかも☆
それでさっそく折り返しその市立の総合病院に問い合わせてみました。
対応してくれた放射線科の人はきさくな感じで「大丈夫ですよ。今日は検査がこの時間に終るのでその後なら時間があります」とその日のうちになんと検査を受けられることに。通常の仕事の合間にやってくれるとのことで、費用を訊ねると「ボランティアでやっているので無料です」と笑って答えてくれました。
まだまだいい人もたくさんいますね。
それで岩手県でボランティアをしていた時の道具を持ち込み、私自身も放射性物質の測定をしてもらいました。
耳の穴や鼻の穴も測定されました。
それでも実質10分もかかりません。
検査員の方が防護服(?)を着る時間や私が必要事項を書き込む時間を合わせても20分程度です。
放射線測定器の実物を初めて見ました。
検査結果はその場で見せてくれて、上記のような結果になったのですが、検査員の人が「よかったですね」と声をかけてくれたので、放射能についてや被災地の様子について少し話もしました。
「放射能は目に見えないから不安になる…」
本当にその通り。
知らないから不安になる。
知ることで人間って行動も変わってきますからね。
風評被害とか本当にやめて欲しい。
国民全員とはいわないけれど、せめて地元の役所に放射線測定器を一台置いて、誰でも利用できるようにすればみんなの不安も解消すると思うんですけど。
難しいのかな?
うちの地元の市立の総合病院、自治体職員と病院スタッフだけなんていわないで、使わない時は市民にも使わせてくれてもいいだろうに…融通が利かないったら。
原発事故の現場から離れているもんだから緊迫感がないんでしょうね。
病院や自治体によって対応がずいぶん違います。
8月9日は66回目の長崎原爆の日でした。
無知と無関心が一番怖い。
五山の送り火で使われなかった陸前高田市の薪は、8日の夜、お盆の迎え火として地元で燃やされたそうです。
鎮魂と復興への決意を込めて…
岩手県から無事に帰って来ました。
車で走ること12時間。
途中車中泊で一泊して、着いたのは今日のお昼前。
久しぶりに横になるベッドの誘惑に勝てず、夕方まで眠ってしまいました。
それから起き出して近所のスーパーに買い物に行ったのですが、いつもと変わらない日常がそこにあって何だか安心したようなホッとしたような、不思議な感じでした。
さあ、明日から頑張らなきゃ。
今回お世話になったボランティアの支援団体は、被災地から車で1時間ほど内陸に入った場所に本部を置いていました。
その町では電車も普通に走り、お店も営業しています。
通勤する人々、制服を着て学校に向かう中学生たちを横目で見ながら、ボランティアは毎朝バスで被災地に向かうのです。
その途中では、朝から農作業をしている人、川で魚釣りをしている人の姿も見かけました。
そんな日常が、わずか1時間たらずで一変します。
見渡す限りのガレキの山に‥
最初はこの落差に落ち着きませんでした。思わず振り返って釣りをしている人が本当にいるのかどうか確かめたかったくらいです。
いや、いいんですよ。釣りをしていても。日本中が震災から復興するまで悲しみに沈んでいる必要なんてないんだし、それぞれの生活を大切にすることが一番です。
私が感じたのは、被災地とそうでない地域の距離が近いということ。
物資も入ってきています。輸送の問題さえ何とかなれば、もっと被災地の不便さを解消できるはず。
車で1時間のところで釣りを楽しんでいる人がいて、一方で水が使えなくて困っている人がいるなんて、こういう時こそ国がちゃんと資源の集中と配分をきちんとやってくれないと‼
いや、釣りをしていてもいいんですよ。象徴として例に上げただけです。
総理大臣、サミットもいいけれど、もっと重機と人手を回して下さい。まだまだ全然足りません。お願いします。
これから梅雨に入るので衛生面も心配です。
先日お手伝いした旅館は、一階部分には津波の被害はあったものの、建物が丈夫だということで、二階から上が避難所として一時的に使われていました。
2ヶ月以上たった今でも、食器を片付けようとすると海水が溜まっていてひどい臭いがします。でもこれなんかまだいいほう。未だガレキの下には加工用のサンマなどが残っていて、これがすごいことになっているそうです。
これも重機でガレキを撤去してからでないと回収できない。
先程の旅館は、一時孤立していましたが、今は道路が使えるようになったので、避難していた方々は別の避難所に移ったそうです。
玄関の自動ドアの所に誰かが訪ねて来た時のためのメモ書きが貼り出されていましたが、そこには近所の人たちらしき名前が書かれていて、その横に消息も書かれていました。
ほとんどの人の名前の横には「行方不明」の文字。
そして、さらにその横に訂正された「死亡確認」の文字‥
それを見た時、言葉を失いました。
何げなく貼り出されていた一枚の紙。
事務的に書かれている、その文字の表している重い現実。
ニュースで流れたりすると、つい数でまとめて見てしまいがちですが、被災者の方にとっては一人一人が顔見知りで言葉を交わし共に生きてきた人々のはずです。
‥もう何も言えません。
自分の中に整理できないものがあって、整理しないまま書いてきたので取りとめのない文章になってしまいました。
でも、今回のことは自分で抱えこもうとしないで、整理しないまま、現実として横に置いておこうと思っています。
語弊があるかも知れませんが、わかったふりをして自分を誤魔化したくないから。
ズルイかも知れませんが、自分で抱えこめるほど、私は強くありません。とにかく生きていくのが最優先、だと思うから。
長々と書いてきましたが、明日は家に帰ることになります。
ボランティアとして短かい間しかお手伝いできなかったのが心残りです。
ボランティアといっても、いろんな人たちがいます。
4月から通うはずだった学校が津波で流されてしまい、進路がなくなってしまったのに「自分みたいなのが来ないと」とやって来た青年。
阪神大震災の被災者で、「あの時何もできなかったから」と神戸から団体でやって来た人たち。
かれこれ2ヶ月以上ボランティアとして被災地各地を自腹で回っている強者。
テレビを見ていて、何かしないと、と思って初めてボランティアに参加した女性。
一日の作業が終り、その日気づいたことを報告し合い、最後の挨拶をする時に、自分は明日は帰らなくてはならないが、みんなが頑張ってくれたので作業がはかどった、ありがとう、と言いたいのに、感極まってしまったリーダーの男性。
深夜寝袋の中でいろいろ話すうちに、津波の被害を目の当たりにして、ショックで眠れなくなったり、涙が止まらなくなったという話も聞きました。
私は性格がひねくれているのか、寝袋でもよく眠れますし、涙がこぼれるということもありません。ただやることがいっぱいある、毎日それで頭がいっぱいだったので、ちょっと繊細じゃない自分が寂しくなりました‥
もっとも、深夜酒盛りをするおじさんたちもいるので、震災をどう受け止めるのかは、まさに人それぞれです。
あと、若者がたくさん参加しているのですが、みんなやたらと礼儀正しい‥
初めて会う人にもしっかり挨拶するし、「ありがとうございます」「ご苦労さまです」もすぐでてくる。誰にでも親しげに話しかけ、やたらと素直。
全部いいことなのですが、性格のひねくれている私にはなかなか受け入れられません。
そんなに善意の固まりみたいな態度で接しないでよ~
なんか新興宗教みたい(あくまで個人的なイメージです。関係者の皆様ごめんなさい)
ボランティアは辛いこともありますが(もちろん一番辛いのは被災者の方々です)、人に感謝される場面もあります。自分が誰かの役に立っているとしたら、こんな嬉しいことはありません。それはとても強い誘惑です。ですから、中には仕事も家庭も投げ打ってボランティアに熱中してしまう人もでてきます。
何週間も帰らない人がいたら声をかけてあげるよう、ボランティアの支援団体の受付には書いてあります。
ここからは私のひねくれた個人的意見です。聞き流して下さい。
私は誰かに感謝されるために何かをしたり、自分の存在価値を見いだすためにボランティアに参加することは、被災者の方を利用しているような気がして仕方ありません。もちろん私の中にもそういう気持ちが無いとはいえないし、ボランティアとして手伝ってくれる作業に変わりはないので、どんな気持ちでもかまわないのですが、ピースサインでお互い写真を撮ったり、被災者の人に断りもせずに勝手に物を処分したり、私にはボランティアという名の略奪者に見えてしまう‥
すみません。私は何を書いているんでしょうね。
みんな善意で集まってるっていうのに。
多くの人は純粋に自分に出来ることは無いかと駆けつけた人たちです。
そういえば、政治家の辻元清美議員がボランティアの宿泊場を訪れ、ボランティアと同じように体育館で一泊し、翌朝の朝礼で挨拶をしてみえました。
この訪問が記念写真にならないことを祈りたいです。
今日はちょっとグチっぽくなってしまいました。ゴメンナサイ。
辻元議員、若いボランティアの人たちにはその前に慰問に訪れたAKB48の方が人気がありました(苦笑)
価値観は立場によっていろいろありますよね。
くよくよ考えず、手を動かしたいと思います。水の流れるようになった用水路を見て、心の中でガッツポーズをとりました。
それが私の原動力です。
連日、津波被害の激しい現場を通ってボランティアの依頼されている場所に向かいます。
今日はたまたまガレキの中に汚れたウサギのぬいぐるみを見つけました。
持ち主の子どもが無事に避難できたと信じたい‥
流されて傾いた2階の窓から勉強机と教科書が見えている家もあります。
まだ手づかずのままです。
最優先で道路の確保と電力の復旧工事が進められていますが、あと何ヶ月かかるのか‥
あまりに被害が広すぎます。
しかし、諦めるわけにはいきません。私たちはできることをするだけです。
今日、思いもよらず被災者の方が声をかけてくださり、ヘドロとガレキで埋まってしまった用水路の泥出し作業をしていた私たちに、とり肉と大根、人参などの入った汁をごちそうしてくださいました。
泥だらけだし申し訳ないと断ったのに、かまわないからとお家に呼んでくださり、なんと20名分も!
これがすっごく美味しかった。
20人で一日かかっても、用水路の泥出しは10メートルが限界。
瓦や洋服、貝や魚網に強烈な臭いのヘドロなど、それらすべてをスコップだけでかき出すのです。
それなのに、それだけでもありがたいと、水も使わせてくれました。
これもすごくありがたかった。
今回初めて地元の方のお話が聞けました。
わずかなことしかできませんが、こういうことがあるとやっぱり嬉しいです。
明日からも頑張ろうという気になります。
さあ、そのためにも、今夜も早く休まないと。
明日も頑張ります☆
現在、岩手県は釜石、大船渡、陸前高田市などを中心に活動しています。
ひっきりなしにガレキを積んだトラックが行き交い、集積場になっている小学校のグランドには、四階建ての校舎と同じ高さまでガレキが積み上げられていますが、未だ周りは見渡す限りガレキだらけです。
まだ電気も水道も復旧していない場所が多数あり、ヘッドライトで照らしながら建物の中で作業したりもしました。
毎日被災地の方や自衛隊、工事作業者の方たちと同じく、泥だらけになりながらの作業ですが、ボランティアの人々はみんな元気で士気が高く、一緒にいるとこちらまで元気になってくるから不思議です。
小学生くらいの女の子(親子で参加)から定年過ぎのおじさん、学生や主婦、サラリーマンやOL、アメリカ人と参加している人々は様々。
人間なので嫌な一面を見たり、問題も次から次と起こり、テレビに映るボランティアの姿とはかなり違いますが、基本的にはいい人たちだと思います(苦笑)
厳しい現実が目の前に広がっていて、帰りのバスに乗る頃には誰もが疲れてグッタリです。それでも翌朝7時半にはまた集まって来ます。
今日も人手を必要としている場所がある。それだけでまたバスに乗り込んでいく。
この人たちはなんなんだろう? と思いながら一緒に作業しています。
明日も5時半に起きるのでもう寝ます。
おやすみなさい‥