永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(平安時代の瀬戸内海)

2008年11月21日 | Weblog
瀬戸内海の地理

地形
 瀬戸内海は灘や湾と呼ばれる広い部分が、瀬戸や海峡と呼ばれる狭い水路で連結された複雑な構造を持つ多島海である。平均水深は38メートルであるが、全体的な傾向としては東に行くほど浅くなっている。瀬戸と呼ばれる水路は強力な潮流によって海底部が浸食されており、深いところでは水深454メートルもある(速吸瀬戸)。

強い潮流
 周防灘と安芸灘の間にある大畠瀬戸の潮流。
瀬戸内海は潮の干満差が大きいことで知られている。これは奥に行くほど顕著になり、最奥部の燧灘周辺では干満差は2メートル以上にもなる。この為、瀬戸内海の潮流は一般に言って極めて強く、場所によっては川のように流れている所もある。
 
 この強力な潮流が発生させているのが、「鳴門の渦潮」である。また、この強力な潮流によって海底部の養分が常に巻き上げられ、植物プランクトンの成育を促していると考えられている。つまり、瀬戸内海が豊かな漁場であることの理由の一つはこの大きな干満差なのである。

源氏物語を読んできて(227)

2008年11月20日 | Weblog
11/20  227回

【玉鬘(たまかづら)】の巻】 その(6)

 乳母は、以前と同じように繰り返し、「孫娘は、まことに運の悪い生まれなのでしょう、人聞きの悪いことがありまして、人の妻になれようかと、当人も嘆いておりますので、可哀そうで私も扱いかねております」と答えますと、

「天下に目つぶれ、足折れ給へりとも、なにがしは仕うまつり止めてむ。国のうちの仏神は、おのれになむ靡き給へる。」
――万一、目がつぶれ、足が折れていましょうとも、私が治して差し上げましょう。国中の神仏はみな私の味方をしてくれていますから――

と、何時いつに迎えに来ようと言って、さて、辞去しようとするときに、監は風流にも歌を詠みたくなったのでしょうか、ややしばらく思案して、

「君にもしこころたがはば松浦なるかがみの神をかけてちかはむ」
――姫君を万一疎んじるようなことがあれば、どんな神罰も受けますと、松浦の鏡の明神にかけて誓いましょう。――

 監は自分で、この歌はうまく出来たと思います、などと言います。

 乳母は、もう恐ろしくて返歌もできそうになく、困りはてて、やっとのこと、心に浮かんだままの歌、

「年を経ていのる心のたがひなばかがみの神をつらしとや見む」
――年来の宿願が叶わないようでしたら、鏡の神をお恨みしましょうー―

 と、わなわな震えながらお返事したのを、相手は、ちょっと首をかしげて、

「まてや、こはいかに仰せらるる」
――いや待てよ、これはどういうお心なのですか――

と不意に詰めよってきましたので、乳母は怯えて顔も青ざめて居りますと、とっさに乳母の娘が、出てきて、若いだけに気強く笑って、「姫君が片輪でいらっしゃるので、ご幸運を願っても甲斐がなければ辛く思いますと、神様を引き合いに出して言い損ねたのです。なにしろ母は少し呆けていますので」と歌の意味を何とかこじつけて、解釈して聞かせますと、

「おい、さりさり。(……)」
――おお、そうですか、そうですか。立派なお歌です。――

と言って、自分ももう一首詠もうと思いますが、出来ずにそのまま帰ったのでした。

(仏神への願いとして乳母は、玉鬘が上京して宿願が叶うようにとの意味を歌に込めたのですが、監の方は神仏に結婚を願う歌。監も乳母の歌を少し変だと思いながらも、機転を利かせた娘に言いくるめられたのでした。)

ではまた。


源氏物語を読んできて(年中行事・弥生3月・曲水の宴)

2008年11月20日 | Weblog
◆曲水(ごくすい)の宴 最初の巳の日

 三月三日の上巳の日に行う遊宴で、庭園の曲水(うねり曲がって流れる小川)の曲がり角ごとに参会者が座り、上流から流れてくる盃が自分の前を過ぎないうちに詩歌を作り、盃を取り上げて酒を飲む遊び。

 今は「きょくすいのえん」とも、また、流觴(りゅうしょう)ともいいます。 元々は中国において、流水に臨んで自身の穢(けがれ)や災いを洗い流すという禊(みそ)ぎ祓(はら)いから発生したと考えられています。

 日本では大化の改新以降、宮中行事となったとされ、宮中では清涼殿(せいりょうでん)東庭で、また、貴族の私邸でも行われました。

 現在、京都市の城南宮や上賀茂神社、岩手県平泉町の毛越寺、鹿児島市の仙巌園などで行われています。

◆参考と写真:風俗博物館

源氏物語を読んできて(226)

2008年11月19日 | Weblog
11/19  226回

【玉鬘(たまかづら)】の巻】 その(5)

 長兄で豊後介(ぶんごのすけ)は、このことを聞いて、とんだことになったと困り果てたものの、

「なほいとたいだいしくあたらしき事なり。故少貮の宣ひしこともあり。とかく構へて京に上げ奉りてむ。」
――やはりそれでは、我々としては申し訳ないことだ。故父上の遺言もあります。何とか工夫をして京へお上らせ申うそう。――

 娘二人も、玉鬘の母君のご不運の代わりに、せめて姫君だけでもお守り申し上げて、あのような、むくつけで田舎者の男と縁をお結びになろうなどとはとんでもない、と、嘆き、泣き惑っております。監は、いっこうにそんなことを言われているとも知らず、自分を立派な名望家と思って、文などを書いて寄こすのでした。

 監は、この家の二男をうち連れて、やってきました。

「三十ばかりなる男の、丈高くものものしく肥りて、穢げなけれど、思ひなしうとましく、荒らかなるふるまひなど、見るもゆゆしく覚ゆ。色あひ心地よげに、声いたう枯れてさへづり居たり。」
――監は、歳は三十歳位の男で、丈高くものものしく肥っていて、小ざっぱりはしているけれど、思いなしか疎ましく思え、立ち居振る舞いの荒々しいのが、ちょっと見ても恐ろしいくらいです。血色も元気そうで、声はしわがれて訛りのある言葉で、早口によくしゃべります。――

 祖母の乳母は(乳母の孫ということにしてあるため、祖母と表現)、監の機嫌を損ねないようにと対面します。監は、

「……このおはしますらむ女君、筋ことに承れば、いとかたじけなし。ただなにがしらが、私の君と思ひ申して、いただきになむ、ささげ奉るべき。(……)」
――お宅におられるとういうこの姫は、高貴のご血統と伺っていますので、まことにもったいなく存じますが、ただただ私は、内内のご主君とお思い申して、頭の上にもお乗せして、大切にいたしましょう。(祖母殿はこの縁談を渋っておられるようだが、私がつまらぬ女達を大勢持っているのを聞かれて、嫌がるのですね。姫君を、そいつらと同じようにお扱いいたすものですか。――

と大層結構そうな話を言い続けるのでした。

だはまた。


源氏物語を読んできて(年中行事・弥生3月・上巳祓)

2008年11月19日 | Weblog
◆上巳祓(じょうしのはらえ) 最初の巳の日

 三月三日に行われる行事ですが、本来は三月の最初の巳(み)の日に、海や川などの水辺に出て身の穢(けがれ)を払う行事でした。中国から渡来したもので、自分の罪穢れを移した衣服や、体を撫でたり息を吹きかけたりした人形を流しました。平安京の人々は主に鴨川に出て行いました。

 『源氏物語』「須磨」の巻では、源氏が住まいする須磨(すま)において、海に出て、陰陽師(おんみょうじ)を召して祓(はら)いをさせたり、人形を船に載せて流したりする場面がありました。

 ちなみに平安時代には後世のような「雛(ひな)祭り」はまだありません。幼女が人形に美しい着物を着せたり、それに合う小さな食器や調度品を作ったりしてかわいがる「ひいなあそび」は『源氏物語』「若紫」の巻などに見えるのですが、季節に関係のないものでした。

 これと、人形(ひとがた)を水にながす上巳祓の行事とが結びついて、後世、三月三日にひな人形を飾り、ちょうどその時期に咲く桃の花を飾る「桃の節供」となっていったのでした。

源氏物語を読んできて(225)

2008年11月18日 | Weblog
11/18  225回

【玉鬘(たまかづら)】の巻】 その(4)

 乳母の息子たち、娘たちも、その土地で相応の連れ合いが出来て住みついております。乳母は一日も早く都へと思うものの、都への道は遠く、玉鬘は二十歳におなりになって、ご器量も十二分に整われ、このような田舎に置くのはもったいないお美しさです。
そして、ものごとが分かるようになられるにつけ、世の中を憂きものとお思いになり、年三度の長精進をなさったりしていらっしゃる。

 乳母の一族は備前に住んでおり、ここの辺りの多少とも由緒ある家柄の者は、まず少貮の孫の噂を聞き伝えて、今も絶えずうるさく言いよって来るのでした。

 大夫の監(たいふのげん)と言って、肥後の国に一族一門が広く繁栄していて、その土地としては信望があって、勢力の盛んな武士がおりました。無骨な中にも多少色好みの性分がまじっていて、器量のよい女を集めて、わが花よとして見ようという望みをもっていて、この玉鬘のことを聞きつけて、使いを寄こしたり、それからは、

「いみじきかたはありとも、われは見隠して持たらむ」
――どのような片輪があったとしても、わたしは見ぬふりをして妻としたい――

 と自分から押しかけて備前の国にやってきました。乳母の二人の息子を呼び寄せて、

「思ふ様になりなば、同じ心に勢いをかはすべきこと」
――お前たちの力添えで玉鬘がわがものとなるならば、今後は心を合わせ、力をも貸し合おう――

 二人の息子は言いくるめられて、その気になって長兄に言います。

「大夫の監は、われわれがめいめい力とするのに頼もしい人だ。この人に睨まれたらこの近国にいたたまれない。姫君は高貴なご血統といっても、親御さまに顧みられないで
居られては、何の得になることがありましょう。あの男が本気で怒ったならば、どんな乱暴をしでかすか分かりませんよ。」

ではまた。


源氏物語を読んできて(年中行事・梅から桜へ)

2008年11月18日 | Weblog
梅から桜へ ~日本文化の興り~

 かつて天皇の住居であった京都御所の紫宸殿(ししんでん)の前には、現在でも左近の桜と右近の橘(たちばな)が植えられている。ところが平安京成立当初は、この桜の場所に梅の木が植えられていた。

 中国文化の影響で、貴族たちの唐趣味の影響から、もっぱら梅の花が賞玩されたのである。 ところが、この梅の木は遷都から半世紀ほどたった承和年中に枯れてしまった。そして、そのあとに、時の仁明天皇が梅に代えて桜の木を植えたのである。この桜の木も、天徳四年(九五〇)の内裏の火災によって一緒に焼失するが、その後移植された桜は、醍醐天皇の皇子重明親王の家にあったもので、もともとは吉野山から運んできたものであったという。
 

 この背景には、中国文化の影響から脱して日本の土着文化を見直そうという機運があった。和歌や仮名の発達とともに、農耕と密接に関係して愛好されてきた桜の美しさが見直されたのである。

◆参考と写真:風俗博物館

源氏物語を読んできて(224)

2008年11月17日 | Weblog
11/17  224回

【玉鬘(たまかづら)】の巻】 その(3)

 少貮は、危篤の病中にも、玉鬘をこのような田舎にお置きしては、どのように流浪なさることか、ぜひ早く京にお連れして、しかるべき方々にもお知らせし、ご運次第のご出世ぶりを拝見いたしたいと思っていましたのに、このままここで命が尽きてしまおうとは残念でならないのでした。

そして、

「ただこの姫君、京に率て奉るべき事を思へ。わが身の孝をば、な思ひそ。」
――ただただこの姫君を京へお連れ申すことだけを考えよ。私への死後の追善供養など気に掛けるな。――

とばかり遺言したのでした。

 少貮と乳母は、玉鬘が頭中将の姫君であることを、邸内の誰にも知らせず、ただ自分の孫で、大切にしなければならぬ訳がある人だと言っておいたので、少貮が急死してからは、少貮遺族たちはあれやこれやと周囲に恐れ憚っているうちに、心ならずも数年を過ごしてしまいました。この間に、姫君はたいそう美しい娘盛りを迎えてこられ、評判を聞きつけては、色好みの田舎者たちが懸想し言い寄ります。けれども邸内の人々はだれもかれも取り次ぐ人はいませんし、乳母は、

「容貌などはさてもありぬべけれど、いみじきかたはのあれば、人にも見せで尼になして、わが世の限りは持たらむ。」
――この娘は顔かたちなどは、十人並みかも知れませんが、実に困った片輪なところがありますので、人に嫁がせず尼にして、私の生きている限り手元に置くつもりです。――

と、言いふらしておりますので、

「故少貮の孫は、かたはなむあなる。あたらものを」
――故少貮の孫は、なんと片輪だそうな。美しいと聞いているが惜しいことだなあ――

と、言っているのを聞くのも忌々しく、早く都へお連れして父大臣にお知らせ申し上げたい。まさか粗略には思い捨てにはなるまい、と嘆く一方で、神仏に願を掛けて、姫君の御身の上の願いが成就しますようにと、お祈りをするのでした。

ではまた。


源氏物語を読んできて(年中行事・如月・季の御読経)

2008年11月17日 | Weblog
如月2月

季の御読経(きのみどきょう)

毎年春二月および秋八月に宮中で行われた読経の行事。廬舎那仏(るしゃなぶつ)をまつり、四日間ずつ、四ヶ寺より百人の僧を宮中に召して『大般若経』を転読(全六百巻すべてを読むのはたいへんなので、要所の数行や題目のみを読むことで、その一部を読経したことに替えること)せしめ、国家の安泰と天皇の安寧(あんねい)を祈願した。

 春期には、一日目が説法(せっぽう)(仏教の教えを聞かせる)・転読(てんどく)、二日目に引茶(ひきちゃ)(僧に茶を賜る)、三日目に論議(経論の要義を問答・議論すること)、第四日目に結願(けちがん)(終了)となる。宮中だけでなく、貴族の私邸でも行われた。

 ◆参考と写真:結願(けちがん)後の酒宴
       風俗博物館

源氏物語を読んできて(223)

2008年11月16日 | Weblog
11/16  223回

【玉鬘(たまかづら)】の巻】 その(2)

 乳母たちは、ご主人である夕顔の行方を神仏にお頼みしては、夜昼泣いてはお尋ねしましたが、ついに聞き出すことができなかったので、どうしたらよいものか。それならばせめて姫君を夕顔のお形見としてお見上げしよう、でも賤しい身分のわが身と一緒に、遠い国へお連れ申すのも悲しく、姫君の真の父上(当時の頭中将・現内大臣)にそっとお知らせ申そうかとも思いますが、何の便宜(つて)もございません。

 玉鬘は、幼心にも母君を覚えておられて、
「母の御許へ行くか」
――お母様のところへ行くの――

と、御問いになりますのにも、乳母たちは涙の絶える暇もなく、今から気高く美しく見える姫君を、何の設えもない船にお乗せして、漕ぎだした時には、しみじみいとおしく思われるのでした。

 この乳母の子供は、男三人、女二人で、みなこの幼い姫君をご主人さまとして、大切にお世話申し上げております。乳母は、

「夢などに、いとたまさかに見え給ふ時などもあり。同じさまなる女など、添ひ給うて見え給へば、名残心地悪しくなやみなどしければ、なほ世になくなり給ひにけるなめり、と思ひなるも、いみじくのみなむ。」
――乳母の夢に、偶然現れることがありました。夕顔と同じような女などが一緒に現れますので、目覚めた後の気分が悪く病気になったりしましたので、もしかして、夕顔はお亡くなりになったのであろうかと、思えてきますのも縁起でもないことと思うのでした。――

少貮の任期五年が果てて、都に上ろうとしますが、遠路である上に格別の勢力のない身には、何かと思い立ちかねて、出立もできずにいるうちに、少貮は重病の床についてしまいました。玉鬘は十歳ほどになっておられ、気味悪いほどお美しく成長なさっています。

ではまた。