永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(222)

2008年11月15日 | Weblog
11/15  222回

【玉鬘(たまかづら)】の巻】 その(1)

源氏    35歳
紫の上   27歳
明石の御方 26歳
明石姫君   7歳
玉鬘    (4歳)~21歳
夕霧    14歳

「年月隔たりぬれど、飽かざりし夕顔を、つゆ忘れ給はず、心心なる人の有様どもを、見給ひ重ぬるにつけても、あらましかば、と、あはれに口惜しくのみ思し出づ。」
――源氏は、長年経た後でも、今も名残惜しく思われる夕顔のことを、少しもお忘れになることはなく、それぞれに異なった婦人たちの様子を、つぎつぎにご覧なさるにつけても、夕顔が生きていてくれたならばと、あわれに口惜しくばかり思い出しておいでになります。――

 もと夕顔の侍女で、夕顔の死後源氏に仕えていました右近(うこん)を、源氏は、可愛いので夕顔の形見と思われて、古参の女房の一人として置いておりました。源氏が須磨に行かれた時に、源氏方の女房を全部、紫の上付きになさってからは、紫の上も、右近を気立てがよく、控え目な女と思っておいでですが、

「心のうちには、故君ものし給はましかば、明石の御方ばかりのおぼえには劣り給はざらまし、この御殿うつりの数の中には交らひ給ひなまし、と思ふに、飽かず悲しくなむ思ひける。」
――右近は内心では、夕顔がご存命なら、明石の御方くらいのご声望には、ひけをとらなかったでしょう、今度この御殿へお移りになった方々のうちには、きっと洩れなかったに違いないと思うと、いつまでも未練に涙ぐまれるのでした。――

 あの時、西の京(夕顔の乳母の家のあった所)に残してあった幼い姫君も、行方知れずになってしまいました。夕顔の急死を人に知られまいと、ひたすら胸に仕舞い込んで、また、今更どうにもならないことなので、源氏から「わが名漏らすな」と口固めなされたことにご遠慮もあり、強いて尋ねることもできずにおりました。

 「その御乳母の夫、少貮になりて、行きければ、下りにけり。かの若君の四つになる年ぞ、筑紫へは行きける。」
――その夕顔の乳母の夫が、少貮(しょうに)という大宰府の次官になって赴任しましたので、乳母も一緒について行きました。かの姫君(玉鬘)は四歳におなりの年で、ご一緒に筑紫に行ってしまわれました。――

ではまた。

源氏物語を読んできて(221)

2008年11月14日 | Weblog
11/14  221回

【乙女(おとめ)】の巻】  その(31)

秋の彼岸のころに、六条院へ移転されます。はじめに花散里の御方、少し遅れて秋好中宮、そして源氏と紫の上、世間の非難もありはせぬかと、大げさな御仕度ではないようにと、なさったものの、矢張り盛大で、四つの区画の堺には、塀や廊を設け、あれこれ行き来出来るようにして、お互いの間を、親しみ深く風情あるように御造りしてあります。

秋好中宮と紫の上は、女童をお使いに立てられて、お互いに御歌をやりとりなさったりと、なるほど、源氏のご様子がご立派な上に、女の方々も親しく音信し合われる理想的な御邸宅ですこと。

「大堰の御方は、かう方々の御うつろひ定まりて、数ならぬ人は、いつとなく紛はさむ、と思して、神無月になむわたり給ひける。御んしつらひ、ことの有様おとらずして、渡したてまつり給ふ。姫君の御ためを思せば、大方の作法も、けじめこよなからず、いとものものしくてもてなさせ給へり。」
――明石の御方は、みなさまのお移りが落ち着いた頃に、数の内に入らぬ自分は、いつということなく目立たぬように移りましょうと、思われて、十月になってからお移りになりました。源氏はお部屋の準備万端、他の方々に劣らぬようにして、お呼びになりました。これも明石姫君の将来をお考えになってのことで、明石の御方についての一般の儀式も他の方々とあまり区別をつけずに、たいそう重々しく待遇されました。――

【乙女(おとめ)】の巻】終わり。

この巻では、源氏の二条院時代の人物を多く登場させて、次の六条院の物語への準備をしています。六条院の広大さを、丁寧に説明しつつ、これからの物語の複雑・雄大さを暗示します。

ではまた。


源氏物語を読んできて(220)

2008年11月13日 | Weblog
11/13  220回

【乙女(おとめ)】の巻】  その(30)

「辰巳は、殿のおはすべき町なり。南の東は山高く、春の花の木、数をつくして植ゑ、池のさま面白くすぐれて、御前近き前栽、五葉、紅梅、桜、藤、山吹、岩躑躅などやうの、春のもてあそびをわざとは植ゑて、秋の前栽をば、むらむら仄かにまぜたり。」
――東南は、源氏が常にいらっしゃる一廓で、南東に山を高く築いて春の花の木を数ある限り植えて、池の様子はことに趣深くすぐれていて、縁先の前栽にも、五葉の松、紅梅、桜、藤、山吹、岩つつじのような、春の好みの草木を植えて、秋の草花をところどころにかすかに植えております。――

 「丑寅は、東の院に住み給ふ対の御方、戌亥の町は、明石の御方と思し掟てさせ給へり。」
――東北の一廓は、今、東院に御住みの花散里、西北の一廓は明石の御方とお定めになっておられます。――

 「北の東は、涼しげなる泉ありて、夏の陰によれり。前近き前栽、呉竹、下風涼しかるべく、木高き森のやうなる木ども木深く面白く、山里めきて、卯の花の垣根ことさらにしわたして、昔覚ゆる花橘、なでしこ、薔薇、木丹など様の、花のくさぐさを植ゑて、春秋の木草、その中にうちまぜたり。(……)」
――花散里の一廓には、涼しげな泉があって、夏の木陰を主として造りです。お部屋に近いところの植え込みは呉竹で、その下吹く風は涼しそうですし、高く聳える木々も森のように木深くなって山里めいた趣があり、卯の花の垣根をわざわざめぐらして、昔を偲ぶよすごとなる、花橘、なでしこ、薔薇、りんどうなどのような、さまざまの花を植え、春秋の木や草をその中に混ぜています。(そして、東側には、一部を割き馬場殿を造り垣を設け、五月の競馬(くらべうま)の折りの遊び場所として、池のほとりには菖蒲を茂らせ、向い側には御厩(みまや)を造って、世にまたとない名馬を何頭も飼わせておいでになります。)――

「西の町は、北面築き分けて、御蔵町なり。隔ての垣に松の木繁く、雪をもてあそばむ便りによせたり。冬のはじめ、朝霜むすぶべき菊の蘺、われは顔なる柞原、をさをさ名も知らぬ深山木どもの、木深きなどを移し植ゑたり。」
――明石の御方の御住いは、北側を築地で隔ててお蔵が建て連ねてあります。それを隔てる垣根として、松の木が茂っていて、雪の日を楽しむように造られております。冬のはじめに朝霜が置くようにと、菊の蘺(まがき)が結われており、得意顔に紅葉している柞(ははそ)の林、その上、大方は名も知らぬ奥山の木々の深く茂ったのをそのまま、移し植えられております。――

◆写真:六条院・春の御殿 

東の対の広廂(ひがしのたいのひろびさし)
春の御殿の一部で、南廂の外側の広廂。ここは吹き放しの空間で、一般の来客の寝殿への通路となるが、さまざまな饗宴の座や、詩歌管弦の観覧席として使われた。

参考と写真:風俗博物館


源氏物語を読んできて(219)

2008年11月12日 | Weblog
11/12  219回

【乙女(おとめ)】の巻】  その(29)

 式部卿宮(紫の上の実父)は、来年ちょうど、五十歳になられるということで、その御賀のことを、紫の上は念入りにご用意なさっておいでになりますので、源氏もなるほど、知らぬ顔もできないと思われて、それならば新邸でとお考えになって準備なさいます。

 年が明けて、

 六条院のご普請と御賀のご用意のこと、精進落としのこと、経文や仏像を供養すること、楽人、舞人などの選定などを心をこめて源氏はなさいます。紫の上は、法事の日のお召し物、賜り物などを花散里と分け合って準備なさっておいでで、お互いにお文のやりとりもなさっていらっしゃいます。

 式部卿宮は、このことをお聞きになって、

「年ごろ世の中にあまねき御心なれど、このわたりをば、あやにくに情けなく、事にふれてはしたなめ、宮人をもご用意なく、憂はしきことのみ多かるに。(……)」
――今までこのかた、源氏は世間一般にはお情けをかけられますが、自分に対しては妙に素っ気なく、なにかにつけて辱め、召使の者たちにも遠慮会釈なく辛いお仕打ちが多かったので(それもこれも昔自分がしたことで、覚悟はしているものの、実の娘の紫の上が格別のご寵愛を受けていることは誇らしく、このように世間に鳴り響くまでの五十の賀を準備してくださるとは、思いもよらぬ晩年の名誉だ。)――

とお思いになります。しかし北の方(紫の上の義母)は、不愉快でならず、

「女御の御まじらひの程なども、大臣の御用意なきやうなるを、いよいようらめしと思ひしみ給へるなるべし。」
――娘を女御として上げられた折など、源氏がお心をかけず、お構いくださらなかったのを、いっそう恨めしいと思いこんでおられるのでしょうか。――

 八月にはいよいよ六条院を造り上げて、お引き移りになります。

「未申の町は、中宮の御ふる宮なれば、やがておはしますべし。中宮の御町をば、もとの山に、紅葉の色濃かるべき植木どもを植ゑ、泉の水遠くすまし、遣水の音まさるべき岩をたて加へ、瀧おとして、秋の野を遥かに作りたる、その頃にあひて、盛りに咲き乱れたり。」
 ――西南の一廓は、もともと秋好中宮(梅壺中宮を、この時からこう呼ぶ)の古い御住いの地でしたので、そのまま秋好中宮(あきこのむ ちゅうぐう)が住まわれるでしょう。このお住いは、元からありました築山に紅葉の色の濃やかな木々を植え、泉の水を遠くまで流し、その遣水の音がいっそう増すように岩を立てて滝の水を落し、見渡す限り秋の野の趣にしてありますのが、ちょうど今がその季節ですので、今を盛りに草花が咲き乱れております。――

◆御賀(おんが)=四十の賀、五十の賀といって、長寿を祝う。この時代の平均寿命は短く、貴族では30歳~40歳。

◆精進落とし=精進明けともいう。精進の期間が終わって肉食すること。ここでは御賀の前の精進期間を終えて、そのあとの振舞のお食事。

ではまた。