永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(700)

2010年04月08日 | Weblog
2010.4/8   700回

四十二帖 【匂宮(にほふのみや)の巻】 その(5)

 冷泉院はご自分の御座所(おましどころ)に近い対の屋を薫のお部屋として設えて、姫宮のご生活以上に立派に飾り付けをなさり、お仕えの女房たちも容貌の良いものを選び、薫が気に入ってお住みになるようにと、大袈裟なほどお心配りをなさるのでした。

「故致仕のおほい殿の女御と聞こえし御腹に、女宮ただ一所おはしけるをなむ、かぎりなくかしづきたまふ、御有様におとらず、后の宮の御おぼえの、年月にまさりたまふけはひにこそは、などかさしも、と見るまでなむ」
――(冷泉院には)故致仕大臣の御姫君で弘徽殿女御腹に女の御子様がお一人いらっしゃって、大切に養育なさっておられますが、その御方に劣らず薫を大切になさり、それも秋好中宮の御寵愛が年月に添えて増してゆかれるせいでもありました――

「女宮は、今はただ御行ひを静かにし給ひて、月ごとの御念仏、年に二度の御八講、お折々の尊き御いとなみばかりをし給ひて、つれづれにおはしませば、この君の出で入り給ふを、かへりて親のやうに、頼もしきかげにおぼしたれば、いとあはれにて、院にも内裏にも召しまとはし、東宮も、次々の宮達も、なつかしき御遊びがたきにて、ともなひ給へば、暇なく苦しく、いかで身を分てしがな、と覚え給ひける」
――女宮(薫の母君の女三宮)は、現在はただただ静かに勤行をおこない、毎月の御念仏、春秋の御八講(みはっこう)、四季折々の御仏事ばかりをなさっていらっしゃるので、薫の君がお出入りされることを、反対に親のように頼りになさっていられるので、薫もたいそうお気の毒にお思いになってはいらっしゃるものの、冷泉院も今帝も薫をお側に引き寄せてお置きになりますし、東宮も、またその他の宮達も親しい遊びのお相手としてお放しにならないことも多く、何とか身を二つに分けたいものだと思っていらっしゃるくらいです――

ただ、薫は、

「幼心地にほの聞き給ひし事の、折々いぶかしう、おぼつかなく思ひ渡れど、問ふべき人もなし」
――(ご自分の出生について)子供心に、ちらと聞かれたことが、いつも気がかりで、何かとお心に燻っておられますが、それを確かめてみる御方とておられないのでした――

ではまた。



源氏物語を読んできて(699)

2010年04月07日 | Weblog
2010.4/7   699回

四十二帖 【匂宮(にほふのみや)の巻】 その(4)

 夕霧は、どの方々に対しても、源氏の御遺志どおり変えることなく、公平に親のようなおつもりでお世話申しておられます。それにつけても、と夕霧のお心の内は、

「対の上の、かやうにてとまり給へらましかば、いかばかり心をつくして、仕うまつり見え奉らまし、つひに、いささかも取りわきて、わが心よせと見知り給ふべき節もなくて、過ぎ給ひにしこと」
――紫の上が、このように永らえておられたならば、どれほどに真心をつくしてお仕え申し上げることだろう。とうとう何一つ自分がお慕いしている気持ちにお気づきいただく折もないまま逝去してしまわれたことよ――

 と、いつまでもそのこと一つが心残りで、悲しくてならないのでした。

 世間の人々は、今でも源氏をお慕い申さぬ者はなく、世の中がまったく火の消えたようで、何事も栄えないのを歎かぬ時とてありません。源氏のお亡くなりになったこの上ない歎きはもとより、あの紫の上のご生前の面影を、六条院の女君たち、女房、御孫の宮たちは何かにつけて懐かしく思い出されるのでした。

「二品の宮の若君は、院の聞こえつけ給へりしままに、冷泉院の帝、とり分きておぼしかしづき、后の宮も、皇子方などおはせず、心細うおぼさるるままに、うれしき御後見に、まめやかに頼みきこえ給へり。御元服なども、院にてせさせ給ふ」
――二品の宮(女三宮)の若君の薫は、源氏が御後見をお頼みなされたとおり、冷泉院が特別お世話をされ、后の宮(秋好中宮)も御子がなくて心細いままに、やがてはこの若君をご自身のお世話役にと嬉しく思われて、心から力にしておられます。元服の式も冷泉院の御所でおさせになりました――

「十四にて、二月に侍従になり給ふ。秋、右近の中将になりて、御賜りの加階などをさへ、いづこの心もとなきにか、いそぎ加えておとなびさせ給ふ」
――十四歳で二月には侍従に任官され、秋には右近の中将に、またさらに冷泉院の思し召しで四位に叙せられますなど、一体何がお心がかりなのでしょうか、大急ぎで加階をおさせになり、薫を一人前にしておやりになります――

◆侍従(じじゅう)=中務(なかつかさ)省に属し、帝の近くにいて補佐、あるいは雑事に当たった。

◆右近の中将(うこんのちゅうじょう)=右近衛府の次官。従四位下相当。

◆冷泉院には一人の皇子もおられないので、ご自分の行く末を頼みとするためにも、薫に賭ける希望が大きい。ご自分の事情もある。

ではまた。

源氏物語を読んできて(698)

2010年04月06日 | Weblog
2010.4/6   698回

四十二帖 【匂宮(にほふのみや)の巻】 その(3)

 源氏の亡きあとの六条院では、源氏とご関係のありました御方たちが、それぞれに住んでおられた所から、涙ながらにあちらこちらに永住の場を求めて移って行かれました。花散里の御方は二条院の東院を源氏のお形見分けに頂いて移られ、入道の宮(女三宮)は朱雀院(御父帝)から賜った三条の御殿にお移りになりました。
明石中宮はほとんど内裏にお住まいでいらっしゃいますので、六条院はすっかり華やかさも消えて、出入りの人々も少なくひっそりとしてしまいました。

 夕霧右大臣は、

「生けるかぎりの世に、心をとどめて造り占めたる人の家居の、名残なくうち棄てられて、世のならひも常なく見ゆるは、いとあはれにはかなさ知らるるを、わが世にあらむかぎりだに、この院荒らさず、ほとりの大路など、人影かれ果つまじう」
――父君の在世中、念を入れて造らせた邸宅が、主人が亡くなってすっかり荒廃し、いかにも世の無常を示しているのは、いかにもはかなく情けない。せめて私の生きている間だけでも、この六条院を寂れさせぬよう、付近の大路を通る人が絶えてしまわぬようにしたいものだ――

 と、お考えになって、

「丑寅の町に、かの一條の宮を渡し奉り給ひてなむ、三条殿と、夜ごとに十五日づつ、うるはしう通ひ住み給ひける」
――丑寅(うしとら=北東)の町に、あの一条の宮(落葉宮)を移らせなさって、本邸の雲井の雁のお屋敷と、夜は十五日ずつ几帳面にお通い分けをなさっていらっしゃる。(丑寅の町には花散里が住んでおられた)――

 二条の院も、六条院も又とないほど世間に評判とされた金殿玉楼も、ただこの明石の御方お一人の御子孫(明石中宮腹の女一の宮、女二の宮、匂宮など)のためであったかと思える有様で、明石の御方は大勢の宮達の御後見役として、よろず取り仕切ってお世話しておられるのでした。

◆うるはし=(麗し、美し、愛し)立派だ。きちんとしている。

ではまた。


源氏物語を読んできて(697)

2010年04月05日 | Weblog
2010.4/5   697回

四十二帖 【匂宮(にほふのみや)の巻】 その(2)

 明石中宮腹の女一宮は、亡き紫の上の御住いを御調度類もそのままにお住みになって、朝夕紫の上を懐かしく偲ばれて暮らしていらっしゃいます。第二皇子は、夕霧右大臣の中姫(二番目の姫君)を娶られて、六条院の南の町の正殿に居られ、内裏に参内なさるときは凝華舎を宿直所とされておられます。

「次の坊がねにて、いとおぼえことに重々しう、人柄もすくよかになむものし給ひける」
――この二の宮(第二皇子)は、次の東宮の候補者で世人の信望も特に篤く、お人柄も真面目でいらっしゃいます――

 夕霧には、姫君が多くいらっしゃって、

「大姫君は東宮に参り給ひて、またきしろふ人なきさまにてさぶらひ給ふ。そのつぎつぎなほ皆ついでのままにこそは、と、世の人も思ひ聞こえ、后の宮ものたまはすれど、この兵部卿の宮は、然しもおぼしたらず。わが御心よりおこらざらむことなどは、すさまじくおぼしぬべき御気色なめり」
――ご長女の大姫君(おほひひめぎみ)は、東宮に奉られて、他に競争者もいらっしゃらないほどの勢力をお持ちです。その次の姫君も皆その順序に従って、皇子方にお逢わせになるものと、世間でも思い、明石の女御もお薦めなさいますが、この兵部卿宮(匂宮)は、ご自分の心から発したのではないようなご縁談などは、まったく興味がないにちがいない、というご様子でいらっしゃる――

 夕霧も、何の同じようにきちんと皇子方にばかり縁付けなくてもと、気を落ち着けてはいらっしゃいますが、

「またさる御気色あらむをば、もて離れてもあるまじうおもむけて、いといたうかしづき聞こえ給ふ」
――また先方から、お申込みでもあるならば、応じないというわけでもないような態度を残して、姫君たちを大切にしていらっしゃる――

「六の君なむ、その頃のすこしわれはと思ひのぼり給へる親王たち上達部の、御心つくす、くさはひにものしたまひける」
――六の君(夕霧の六女で籐典侍腹)とおっしゃる方は、大そう美しい方で、その頃多少でも我こそはと自信をお持ちの親王方や公卿たちが、お心を騒がせる種でいらっしゃいました――

◆次の坊がねにて=次の東宮坊に住まわれる方

◆きしろふ人なきさま=競い合う人もいないほどの

◆くさはひにものしたまひける=くさはひ(種)。

ではまた。


源氏物語を読んできて(696)

2010年04月04日 | Weblog
010.4/4   696回

四十二帖 【匂宮(にほふのみや)の巻】 その(1)

「幻の巻」からほぼ九年の月日が過ぎました。

△源氏   
△紫の上

明石中宮(后、今后で源氏と明石の御方の姫君)今上帝の中宮。明石の御方は身分が低いので、故紫の上の養女として宮中に上がった。紫の上が養母。33~39歳
明石の御方(明石中宮の実母)                 52~58歳
匂宮(にほふの宮・匂兵部卿の宮)今帝の第三皇子        15~21歳
女三宮(母宮、入道の宮)               35・6~41・2歳
薫(宮の若君、薫中将、宰相中将)源氏の御子とされているが、実は柏木と女三宮の御子らしいと噂に聞く。                       14~20歳
夕霧(右大臣、大殿大臣)六条院を相続。落葉宮を住まわせる。  40~46歳
雲居の雁(夕霧の正室、三條殿)父の故致仕大臣の住い、三條に住む。42~48歳

朱雀院(出家して山寺に住む)
冷泉院(位を今帝に譲り、中宮に秋好中宮。弘徽殿女御には女一の宮がいる)表向きは、桐壺院の御子で朱雀院の腹違い弟宮だが、実は源氏と藤壺中宮の御子。ご自分ではご存知。


「光かくれ給ひし後、かの御影に立ち継ぎ給ふべき人、そこらの御末々にあり難かりけり」
――光源氏の薨去後、源氏のお跡を継がれるほどの人材は、大勢の御子、孫の中にもなかなかいらっしゃらない――

「おりゐの帝をかけ奉らむはかたじけなし」
――あの譲位なさった冷泉院を源氏の御子ごして口に申すのはもったいないこと――

「当帝の三の宮、そのおなじ御殿にて生ひ出で給ひし宮の若君と、この二ところなむ、とりどりに清らなる御名とり給ひて、げにいとなべてならぬ御有様どもなれど、いとまばゆき際にはおはせざるべし」
――今上の第三皇子匂宮と同じ六条院で成長された、女三宮の若君薫との二人が、それぞれ美しいと評判でいらっしゃって、なるほど、並々でないご様子ですが、それでも目がくらむほど程のお美しさでもなさそうです――

 ただ、お生まれの優雅さや、源氏とのご関係で、世間の信望によってこの上なくご立派に見えるのでした。

「紫の上の御心よせことに、はぐくみきこえ給ひしゆゑ、三の宮は二条の院におはします」
――紫の上が特別愛してお育て申されましたので、匂宮はその旧邸の二条院に住んでおられるのでした――

 今帝と明石中宮は、第一皇子は将来の東宮に、第二皇子も東宮候補にと、大切に内裏でお育てになりますのは勿論ですが、第三皇子の匂宮をもことのほか可愛く、内裏に住むように申されますが(三皇子とも明石中宮腹)、匂宮は、

「なほ心やすきふるさとに、住みよくし給ふなりけり。御元服し給ひては、兵部卿ときこゆ」
――やはり、気楽な馴染み深い邸として、二条院を住み易い所にしておられるのでした。元服の後は、兵部卿と申し上げます――

◆おりゐの帝=譲位の帝、ここでは冷泉院のこと。

ではまた。


源氏物語を読んできて(695)

2010年04月03日 | Weblog
2010.4/3   695回

四十一帖 【幻(まぼろし)の巻】 その(20)

「御佛名も、今年ばかりにこそは、と思せばにや、常よりも異に、錫杖の声々などあはれに思さる。行く末ながきことを請ひ願ふも、仏の聞き給はむことかたはらいたし」
――年末の御佛名も、源氏は、今年だけのこととお思いになってのことでしょうか、例年よりも格別に錫杖(さくじょう・しゃくじょう)の声々を身に沁みて、あはれにお聞きになっています。が、僧たちが源氏の長命を祈願していますのを、実際仏様が聞かれても何とお思いかと、源氏は恥ずかしくてならない――

 雪がしめやかに降ってきて積もりはじめたようです。ほころび始めた梅の花が、ところどころ雪を頂いている様子がひどくいじらしい。以前から親しくしているお知り合いの御導師に、御法事後の杯をお差しにながら、

(源氏の歌)「春までのいのちも知らず雪のうちにいろづく梅をけふかざしてむ」
――春まで命があるかどうか分かりませんから、雪中に咲く梅の花を挿頭(かざし)としましょう――

(御導師の返歌)「千世の春見るべき花といのりおきてわが身ぞ雪とともにふりぬる」
――幾千代かけて春に逢える花のごとくに、貴方様のご長寿をずっと祈願して参りまして、私は雪と共に古びてしまいました――

「その日ぞ出でゐ給へる。御容貌、昔の御光にもまた多く添ひて、あり難くめでたく見え給ふを、この旧りぬる齢の僧は、あいなう涙もとどめざりけり」
――(源氏は)この日はじめて人前に出られたのでした。その御容姿は、昔、光源氏と謳われた時よりも更に輝いて、いっそう美しくお見えになりますのを、この年老いた僧は分けもなく流れる涙をとどめえないのでした――

 この年の暮れを、六条院に留まられている匂宮(六歳)は子供心に寂しく思われるのでしょうか、

「儺やらはむに、音高かるべきこと、何わざをせむ」
――鬼やらいをするのに、高い音をたてなくては。どんなことをさせようか――

 と、無邪気に走り回っていらっしゃる。この可愛いお姿も、もう見る事ができなくなるのだと、源氏は何かにつけて忍び難くお思いになって、

(歌)「もの思ふと過ぐる月日もしらぬまに年もわが世もけふやつきぬる」
――もの思いに月日がたつのも知らないでいるうちに、年も暮れてしまい、わたしの命もこれで終わるのだろうか――

「朔日の程のこと、常より異なるべく、と掟てさせ給ふ。親王たち大臣の御引出物、品々の禄どもなど、二なう思し設けでとぞ」
――朔日(ついたち)の頃のこと、すなわち元日頃のご準備として、例年よりは格別にとお命じになって、親王たちや大臣への御引出物、それぞれの人々への禄など、比べようもないほど立派にご用意なさっておいでになるとか――

◆御佛名(おぶつみょう)=佛名会(ぶつみょうえ)とも。平安時代、宮中で行われた行事の一つ。毎年陰暦十二月十九日から三日間、清涼殿で、僧に、過去・現在・未来の三世の一万三千の佛名を唱えさせ、一年中の罪を滅し、仏の加護を願う法会。ここでは大貴族・源氏の六条院でも行っている。

◆錫杖(さくじょう・しゃくじょう)=僧や修験者が行脚のときに持つ杖。頭部を錫(すず)で作り、そこに数個の輪がついている。突くと金具が鳴る。

◆儺(な)やらはむに=追儺(ついな)の行事。疫病や災難を追い払うため、大晦日に宮中で行われた鬼を追う儀式。後、寺社・民間でも行われた。室町時代以降、民間で節分の夜、煎った豆をまいて鬼を払う、豆まきとなった。
 写真:現代の太山寺の追儺式・鬼はらい修正会

◆写真:梅に時ならぬ雪の一片

四十一帖 【幻(まぼろし)の巻】 おわり。



源氏物語を読んできて(年中行事・追儺)

2010年04月03日 | Weblog
追儺(ついな)

 方相氏(ほうそうし)と呼ばれる鬼を払う役目を負った役人(大舎人(おおとねり))と、方相氏の脇に仕える侲子(しんし)と呼ばれる役人(特に役職は決まっていない)が二十人で、大内裏の中を掛け声をかけつつ回った。

 方相氏は袍(ほう)を着、金色の目4つもった面をつけて、右手に矛、左手に大きな楯をもった。方相氏が大内裏を回るとき、公卿は清涼殿の階(きざはし)から弓矢をもって方相氏に対して援護としての弓をひき、殿上人(でんじょうびと)らは振り鼓(でんでん太鼓)をふって厄を払った。

 ところが九世紀中頃に入ると、鬼を追う側であった方相氏が逆に鬼として追われるようになる。古代史家の三宅和朗はこの変化について、平安初期における触穢信仰の高まりが、葬送儀礼にも深く関わっていた方相氏に対する忌避感を強め、穢れとして追われる側に変化させたのではないかとしている。

◆写真:方相氏、目が4つある。

源氏物語を読んできて(694)

2010年04月02日 | Weblog
2010.4/2   694回

四十一帖 【幻(まぼろし)の巻】 その(19)

「やうやう然るべき事ども、御心の中に思し続けて、侍ふ人々にも、程程につけて物賜ひなど、おどろおどろしく、今なむかぎりとしなし給はねど、近う侍ふ人々は、御本意遂げ給ふべき気色と見奉るままに、年の暮れゆくも心細う、悲しきことかぎりなし」
――(源氏は)次第次第に出家のご準備を心の中に思い続けられて、侍女たちにも身分身分に応じて、形見の品を下されるなど、ものものしくこれが最後だというふうにはなさらないけれど、お側近くお仕えしている女房達には、源氏がいよいよご出家なさるらしいご様子と拝察申し上げていますうちに、この年も暮れていくようで、心細く悲しいことは限りもありません。――

 源氏は、ご自分の死後に残っては見苦しいようなお手紙などを侍女たちを呼んで、目の前で破らせておしまいになります。その中には、須磨明石への紫の上のお手紙も束にしてお持ちでしたが、そのお手紙類の筆跡をご覧になって、いっそう胸にせまり、

(歌)「死出の山越えにし人を慕ふとて跡を見つつもなほまどうふかな」
――死出の山を越えて行った紫の上の跡を追おうと思いながら、その筆跡を見てもまだ心が乱れて鎮められない事だなあ――

「さぶらふ人々も、まほにはえ引きひろげねど、それとほのぼの見ゆるに、心惑ひども疎かならず」
――侍女たちも、お文をまともに広げてみることはできませんが、ちらと、それが紫の上のご筆跡と見えますので、悲しみも並々ではありません――

 これらの紫の上のお手紙を源氏は、

「この世ながら遠からぬ御別の程を、いみじと思しけるままに書い給へる言の葉、げにその折よりもせきあへぬ悲しさ、やらむ方なし。いとうたて、今ひときはの御心惑ひも、女々しく人悪くなりぬべければ、よくも見給はで、こまやかに書き給へる傍らに、(歌)『かきつめて見るもかひなしもしほ草おなじ雲居の煙とをなれ』と書きつけて、皆焼かせ給ひつ」
――この世の、須磨と都と遠くもない別離なのに、たいそう悲しげに書かれた紫の上の言葉が、今ここで見るのはあの時の悲しみが胸に甦って来て堪えられない。この上さらに心の迷いが加わるのは、気弱で人聞きがわるいことになりそうだ、と、よくもご覧にならず、そのお手紙の傍らに、(歌)「こうして古い手紙を集めて見ても甲斐もない。このお文は紫の上と同じ空の煙となってくれ」と書きつけて、みな焼かせておしまいになりました。――

◆物賜ひ=形見分け 

◆おどろおどろしく=気味が悪い。仰々しい。おおげさ。

◆写真:悲しみの源氏


源氏物語を読んできて(693)

2010年04月01日 | Weblog
2010.4/1   693回

四十一帖 【幻(まぼろし)の巻】 その(18)

「九月になりて、九日、綿おほいたる菊をご覧じて」
――九月になって、源氏は、九日の重陽の節句に綿でおおった菊の花をごらんになって――

(源氏の歌)「もろともにおきゐし菊の朝露もひとり袂にかかる秋かな」
――以前は紫の上と共に起きて、菊のきせ綿もしたものを、今年の秋はその露もわたし一人の袂にかかるだけだなあ――

「神無月は、大方も時雨がちなる頃、いとどながめ給ひて、夕暮れの空の気色にも、えも言はぬ心細さに『降りしかど』とひとりごちおはす」
――十月はいったいに時雨がちで、源氏もしんみりと物思いに沈みがちなご気分ですのに、さらに夕暮れの空はなおさらに寂しく、「神無月いつも時雨は降りしかどかく袖ひづる折はなかりき」の古歌を口ずさんでいらっしゃる。

「五節などいひて、世の中そこはかとなく今めかしげなる頃、大将殿の君達、童殿上し給ひて参り給へり」
――十一月の豊明節会の五節(とよのあかりのごせち)などといって、世の中がなんとなく陽気な感じのする頃、夕霧が御子息たちが童殿上なさったのを連れて、源氏の御邸にお出でになった――

 御子たちは、みな可愛らしくいらっしゃる。御子たちにとって御叔父の頭の中将、蔵人の少将(共に柏木の弟たち)も御子たちを連れてご挨拶にいらっしゃる。どちらもさわやかで清々しいご容姿でいらっしゃる。源氏は昔、あの筑紫の五節に夢中になって文を交わした折の、豊明の節会(とよのあかりのせちえ)をとおく思い出して、

(歌)「みやびとは豊明にいそぐ今日日影もしらで暮らしつるかな」
――宮人たちは豊明の節会に夢中になる今日、私だけは日の光も知らず、暗い心で籠って暮らしたことよ――

 源氏は、今年一年は何とかこうして耐え通して来たのだから、今はいよいよ出家の時が近づいたと、お心の準備に向かわれるこの頃ですが、やはりあはれは尽きないのでした。

◆綿(わた)おほいたる菊=九月九日は、きせ綿といって、菊の花の上に綿を覆い、花の露を移してそれで身を拭えば長生きする(老いが去る)と言われていた。重陽の節句。

◆童殿上(わらはてんじょう)=宮中の作法見習いのために、貴族の子弟が昇殿を許されて殿上に奉仕すること。元服前の子供。

ではまた。