信州スロウライフ12ヵ月

野菜や草花と暮らす生活

初経験 味噌作り

2017年04月18日 14時42分27秒 | Weblog
ムスメに誘われJICAのOB主催の味噌づくりに参加した。

手前味噌は地方柄誘われるチャンスはあるがなかなか時間が折り合わない。

丁度休暇を取ったムスコも来ているのでわやわやと参加した。
3歳のマゴは昨年入園仕立てで保育園の味噌づくりを経験して先輩だ。

駒ケ根の公民館でJICA出身の家族が数家族参加し、なんだか初めて顔を合わすのだがとてもフレンドリーだ。

講師は味噌づくりのプロですでに大豆は煮てあった。

材料は大豆  20キロ
   米麹  19キロ
   天然塩(あらしお)9キロ 塩分濃度12%


  

米麹と天然塩をよく混ぜる。特に米麹の塊がなくなるまで。




豆は機械でミンチ状に細かく引く 


つぶして冷ました豆と米麹と塩を混ぜたものを混ぜ合わせる

 叩いて空気を抜き味噌玉を作る。     
 
容器に味噌玉を投げ込み空気を抜くように押さえ付けていく

3歳のマゴの手つきはこなれているではないか。
今週また保育園で今年度の味噌づくりがあり経験豊かになること間違いなし。
出来上がった味噌は約半年以上冷暗所で熟成させる。


昨年の味噌はこのように変化

ムスメの家は6キロ、ムスコは3キロ 我が家は5キロ買い取った。
これで今年の冬以降味噌が食べることが出来るがそれぞれの環境で味は異なってくるという。
楽しみ、楽しみ

稲のモミ蒔き

2017年04月18日 13時28分28秒 | Weblog
早朝、突然ご近所の方から電話があり農家でのもみまきの手伝いを依頼された。
これこそ全く経験がない仕事だが予定していた農家は家族の葬儀で人手がなく
声がかかった。
まったくやったことがないと言っても大丈夫だ、出来ると約束されてしまった。

伊那は米どころで、家の周囲は田園が広がり春先から秋までの景色を楽しんでいた。
翌朝8時に集合。
緊張した。
新米の役はパレットの土を入れる。
全部機械での流れ作業だから覚えれば流れを止めないよう注意してどんどん準備されたパレットを
午前と午後で終了までこぎつければ良い。

しかし何よりも手順どころか流れの中での作業の意味が分からず農家のご主人に質問
しっぱなしで時々聞かれてもわかんねえなぁと言い笑われた。

今や稲の苗は田んぼの端っこで苗代を作りビニールで覆い苗が育つと思っていたら
農家も機械化で効率よく人手もないので委託がほとんどだという。

今日頼まれた依頼は20軒の農家から頼まれ、パレットに2000個のもみをまく。
倉庫の中で高く積まれたパレットを見てウヘエと内心たじろいだ。

 

土は関西から届き1トンの土を一日3トン使う 

自動的に袋から土がパレットに落ちてくる
 
 
パレットの土はならされ次にもみを蒔くためすじが作られる
 
     
まかれたもみの上に水がまかれその上にうっすら土が敷かれた 


  
もみは1パレット12グラム蒔くそうだ 
 
1棟のハウスに600以上のパレットを並べ、これは男の仕事 



3棟のハウスは最後は発芽を促すために覆いをかける。

  

一日の仕事を終え外を見たら桜の花が咲き始めのどかな景色だった

来年から田植えが始まる前から苗代づくりに関心が出来ること間違いなしだ。
経験は知らない世界へと誘ってくれた。

焼き物の里、波佐見を歩き回る ㋂24日

2017年04月03日 11時33分23秒 | Weblog
今日で3日目の旅行も毎日スケジュールは時間を押していっぱいいっぱいだ。
ハウステンボスから大村経由で西海パールラインの西海橋で真下の渦潮を見て震え、波佐見に向かった。

 

       

泊まるブリスブイラ波佐見は新しいホテルで夕食はすぐ近くの陶農レストランで石窯ピザやパスタを
波佐見焼の食器で食べる。

翌朝の朝食は自慢の鬼木の米を食べ嬉野米と同様上等の味で朝から元気が出る。

          

 

              鬼木の棚田と茶畑 秋は彼岸花が咲き、沢山の観光客が訪れる

今日は窯元やギャラリーを見て歩き回る予定で大変忙しい。
中尾山、西の原、白山陶器、波佐見の町中の焼き物店巡りをしてお蔭で自分の好みの食器
がわかり目がくらんでわからなくなるということはなかった。

波佐見焼は伊万里焼の流れをくんで歴史は古いが窯元の作風もそれぞれ豊富で
店に入ってみなければ好みが見つからない。

道路はレンガで舗装され石塀は陶器製の陶辺で先祖の遺産を感じ、窯元などの案内板は
これも磁器製だ。

  <             

だんだん歩き回りながら、よーし、わかって来たぞと思うまで時間がかなりかかった。
石窯レストランに夕食のためにお店に入ったときはラストオーダーすれすれだった。

旅行に行く前は自宅では気に入った食器だけ残し引っ越しの際処分したので
もう、食器は買わない、と決めていた。
しかし、現地では生活の場面、場面で使いたくなる食器は見つかるもので、これぞご縁と
あらためて感じる。
分とく山の野崎正光さんのお店で使われている器もご自身が来店して選びその品の良さに感心。

  


家の食器の大半は陶器で波佐見焼のような磁器はごく少ない。
口当たりがよく、手に載せれば軽く、重くどっしりとした感触の陶器を使い慣れたものにとっては
欲しくなるのは歳のせいか。
散々歩き回りこれぞと決めた器を買い九州の旅は終わる。

少し小ぶりの急須をずっと探していた。
注いだ茶が飲みきれず急須に溜まったままで嫌だったが、
そろいの湯のみもあり発見した縁を感じ嬉しい気持ちが一段と深くなった。




ハウステンボスは広すぎた 3月23日

2017年04月02日 14時23分05秒 | Weblog

 嬉野温泉から翌日は長崎県に入りハウステンボスの予定だが途中の立ち寄りが多かったため
午後の遅い時間になってしまった。
ホテルにチェックインし落ち着く間もなく外へ出ても回ることになったが、日暮れも近くなった。
フラワーロードからチューリップだけは見なくてはと大急ぎ昼間から夜間の入園券を買い求めた。


 

      自販機やごみ箱までかわいらしくつい寄って行ってしまう
 

      



     

チューリップの大群は堪能できたが夕食は閉店ぎりぎりで駆け込んだ。
広すぎる園内はあと3回くらい訪れないと季節ごとのイベントも見切れないと思われる。
2日間毎日ムスコノ歩調に合わせ老女は良く歩いた。
1万5千歩は確実にこなしている。 


翌朝テンボス内のフオレストビラという広い宿泊施設を散歩した。
中はヨーロッパ調の庭園と建物で以前旅行したヨーロッパを思い出した。
ミモザの花が沢山植えられており庭が贅沢に広い。

    

   

長崎、嬉野温泉    3月22日

2017年04月02日 13時12分50秒 | Weblog
旅行第一日目。

羽田から長崎行きの便は早いにもかかわらず駐車場もおろか座席は満席である。
7:25分定刻に出発し、お昼前には長崎市内にいた。

長崎は周囲の坂道、山々、びっしりと家が建ち平地の寒村に住む自分には違和感しかない。

    

22歳の学生の時研修旅行で吸収を一周した。
長崎も嬉野も観光したはずだが記憶に残っておらずグラバー邸がグラバー園となり
長崎市内の坂道を歩き回った。
大浦天主堂で集合写真を撮ったその時の22歳の自分はこれほど人生変わることを全く予測もせず
脳天気だった。

 





歩き疲れ、嬉野温泉に到着し、隠れ宿と言われる山間の宿は温泉と言い、夜の料理といい
想像以上の満足をもらった。
信州へ住んで土地の1等米を食べているが嬉野地方の段々畑のお米はもっちりとして
これまで経験ないおいしさですっかり虜になってしまった。
長崎と佐賀だが、ムスコガ空港からレンタカーで3日間回ってくれるので母は左団扇だ。

   

変化に踊らされる

2017年04月02日 12時35分11秒 | Weblog
3月21日の朝、6時に車でそーっと家を出る。
翌日からの九州への旅行はこの1年治療が続いている病犬を置いて出かけるのに相当決心がいる。
家は冬は寒い。食欲が極端に落ち、よそへ預ける訳にはいかずムスメに毎日通ってもらい1週間の留守をする。

天気は雨だが、途中小淵沢あたりから横殴りの雪。
前が見えないくらいだ。
甲府あたりはもう桃の花がピンクに色づき景色や天候はどんどん変わる。
今日の目的は10年来定期検査を受けている眼科に予約した視野検査である。

年に一回加齢から知らずにいると失明に至る緑内障や加齢黄斑変性症のチェックである。
病犬を抱えているのでやや検査の時期が遅れたが旅行を前にクリアーしたく
犬も心配だが自分の心配も怠ってはいけない。

中央道は朝早いので予定時間より早く到着した。
念入りな視野検査を行い、眼圧,3Ⅾの精密眼底写真を撮影し診察結果は異状なしとなった。
今後も引き続き定期検査は続くが、明日からの旅行を控え安堵感は大きい。
何が食べたいと言われ、伊那にはないパスタの専門店に行き、ついでに都会へ来た感を味わうべく
辻堂の湘南テラスモールへ案内された。

3連休明けのウイークデイにかかわらず何でこんなに混んでいるのだ?
おまけに駐車場へ入る行列のクルマはどでかいのばかり。
田舎で>軽トラや軽自動車
を見慣れた目には不思議だ。

湘南マダムだよと隣でムスコガ言う。
夫は勤務明けで必死で働いているのだろうよ。
屋上しかあいていない駐車場にやっと入り、お店を見て回った。
旅行に良かれと履いてきた靴がすでにつま先が痛い。
昨年同様、またもや新作のニューバランスのスニーカーを買った。
高速の運転4時間、眼科の検査と診察に2時間、既にパワーは尽きかけてきた。
店を回る気力も失せて帰宅しビールで軽く乾杯する。

天気は一日雨だったが、途中よくぞ雪の中突っ走って都会へ出て来たものだ。
変化が大きく、しかし人が多すぎる。



春の記念旅行

2017年04月01日 21時41分13秒 | Weblog
3月の末日、70歳になったお祝いにとムスコが九州旅行へと招待してくれました。
詳細は明日からの記事に。



来たよ、来たよ

2017年03月15日 13時36分12秒 | Weblog
先週から今日の天気予報は寒くなり、雨または雪と報じられていた。

昨日までのたったの2日間はやっと低温から解放され日差しに感謝する春を感じる日になった。
少しはこれまでの震えあがる寒さからましになったので雨かなと思った。

今、ふと山側を窓越しに見たらうっと来た。
いつの間にか木曽側からぐんぐん雪雲が発達して駒ケ根方面に伸びていく。

と思ったらこちらにも雪が吹っかけて来た。
見ていても寒々しいぶるっと来る景色だ。


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薪を確保

2017年03月15日 12時37分27秒 | Weblog
伊那に移住した際、暖房は念願の薪ストーブにした。
仮住まいの時に原村では寒波と呼ばれる異常低温に冬季は悩まされ
石油ストーブを4つに増やしそれでも温まらず炬燵を買い込み、じっと犬とともに耐えた。
炬燵は暖かいが足から温まるのですぐに強烈な眠気がやって来る。

横になったら最後だ。
建築の進化は暖房には大きな差が出る。
家の中で朝起きた時に原村の時と10度は差が出た。

日中は暖房が必要ではなくなったが、それでも極寒の時期には薪を焚く。
薪ストーブは設置したストーブ会社から手配していたが、運よく移住して2年目に
地元の薪を調達する方と知り合い楢材を届けてもらい、ストーブ会社の赤松とダブルで薪を使用した。。


しかし昨年もう年だからと地元のおじさんは引退する。
ヤット知り合ったのに残念と秋に来年の分まで2年分配達してもらった。
ストーブを使用するまで薪の種類など知りもしなかったが、種類や価格、燃え方に大きな差があり
楢材は硬いが長くあまり高温ではないが燃え続ける。
赤松は早く高温になるがすぐ燃えてしまう。

友人も近隣も今冬は寒かったので用意した薪が足りなくなったと言っていた。
困ったな、再来年からは高い薪会社から購入することになるかと秘かに心配していたところ
近所の農家から声がかかり雑木だが譲ってくれるという。
2軒の農家から割った薪が届いて多分一年は干さなければならないが
家の周りは薪が山積みになりちょっとした裕福な気分になっている。

ただし気がかりは薪の種類により、煤が多かったり、温度が高くならなかったり
あっという間に燃えてどんどん減っていったりする。

今回はにせうるし、あかまつ、すぎ、ひのき、くるみ、さくらなどが届き
どんな燃え方になるのか今年の冬の興味どころである。








いよいよ古希ですか

2017年03月09日 15時24分04秒 | Weblog
あと二晩寝ると60代とお別れです。
1昨年、福島の小中学校の同級会で古希の祝いと称して集まったが、数え年齢で行ったので
いまいちピンとこなかった。
3月11日の午後3時に生まれた自分にとって6年前から東日本大震災の追悼の日になり
全国で黙祷をする時間帯になった。

高齢者と言われるようになり、70歳からの自分を想像することもなく60代を駆け足で過ぎて来た。
60から66歳は信州の原村へ仮住まいをして新しい職場に邁進し、退職後半年で伊那に移住した。
マゴがその1か月後に生まれ新居の整理も付かないうちに3年が経った。

昨年は突然愛犬が旅立ち、直ぐに残った犬のがんの闘病になった。
まったくあわわの3年間が経ち、もうそうか私は70歳か・・・・・
年齢を言えばすごくおばあさんと思える。

今後どう暮らしていけばよいか、
子供時代から自分がなく、ふがいないふわふわした考えで生きて来たような自分だが
やっと先が少なくなった今になって分かって来た。

昨年はドキュメント番組で青森県の弘前で森のイスキアと呼ばれる家で30年も
生きていくのを迷った人を泊めて食事して話を聞いて支えて来た佐藤初女さんから食の大切さを学んだ。
梅干し作りとおむすびが印象に残った。
87歳の当時の姿は身ぎれいでうつくしいと言いたい話し方と顔立ち、身のこなし方はこうありたいと思う
お手本である。

そして、東海テレビのドキュメントから人生フルーツのタイトルでつばたしゅういちさん
ひでこさんご夫婦の積み重ねて来た人生から自給自足の毎日を自分もそうしたいと学んだ。

つばたさんの著書は最近出版されて

ふたりからひとり 自然食通信社
ひでこさんのたからもの 婦と生活社

を買い込んで順に読んだ。







1昨年ご主人が旅立ち、一人暮らしの今を聞き語りで綴られているが、88歳になったひでこさん
の生き方、考え方どれもズンと心を打つ。
全国でつばたさんを尊敬していた人々は相当な数だと思われる。

佐藤初女さん、つばたひでこさんの共通は食事が体を作り丁寧に手間をかけて食事を作ることが
健康な体を作っていくことを示している。
お二人とも子供時期に大病をし虚弱児だったが食事が救ってくれた。

私も子供時代に2度死にかけた。
遅まきながら70歳になる前に丁寧な食事をすることで目標が出来た。
畑がある。
自分で土を耕し野菜を作り、梅干しなどの保存食を試み、お日様を浴びて動き回り
時間をかけて体を作る、
なんだか楽しそうじゃないか。

世の中同じ気持ちの人がいる

2017年02月16日 13時17分49秒 | Weblog
先週の新聞の日曜版に目を見張った。
嬉しい記事だ。

一月最後の日曜日、東京のミニシアター ポレポレ東中野はドキュメンタリー映画「人生フルーツ」
を見ようとする人々で朝から立見席にも入れないほどの満員になった。
公開から1か月間平日も夕方までは満席が続き反響の大きさに3月まで上映延長を決めた。
これから上映予定の映画館は全国で30以上にもなるという。

先日、テレビでも公開され昨春東海テレビが制作したがテレビ番組が映画として劇場公開となった。
テレビ欄のはがき通信にやはり視聴した方から投稿があり樹木希林のナレーションと合わせて津端さんご夫婦の
豊かな老後の生活に感動した、胸を打たれたという投稿だった。

ビデオを録画し、本を何度でも繰り返し見ているが、春夏秋冬に合わせ野菜と果実の畑が細かく
分画されそのイラストを見ては、同じようには決してできないが真似をしたいと気持ちは逸る。

やっと先日の雪が解け黒い土の表面はぐちゃぐちゃで長靴で歩いても泥で仕事にはならないし
表面だけサラサラでも5センチも下は硬く凍っている。

早く暖かくなって庭で仕事をしたいと思ってもまだ何度か雪は降るであろうと思われる。
しかし、津端さんご夫婦の笑顔が目に焼き付いているから頑張ろうという強力な力になる。

つばたしゅういちさんは突然この世から去っていかれたが全国の視聴者に
花咲か爺さんの如く花や野菜の種を蒔いていったのかもしれない。


毎日の犬の散歩は風が冷たいが里山の景色は抜群である。





感動を受けるドラマ

2017年02月15日 12時55分55秒 | Weblog
先日NHKのプロフエッショナルという番組で倉本聰の1年間の生活が紹介された。
82歳になるがこの1年間の作品作りに密着して舞台とドラマの脚本づくり、
さらに舞台稽古とドラマの稽古にまさに魂を打ち込んでいる姿を見て苦しくなった。

自分はまだプロではないといい、体力的にもう限界で昨年の最後の舞台と
今春から始まるテレビドラマが最後であろうと言っている。
今のテレビドラマはつまらない。面白いものを求め感動するものがない。
まして年単位では記憶に残るのは皆無に近い。
確かに長いこと生きているとテレビドラマばかりでなく映画も同じようなものだ。

昔は良かったなぁ
と思いだせばあれもこれもと数え上げたドラマは名作が多い。


昨夜はドラマを見たが、何を見たか?
翌日になると昨夜食べた晩御飯が思い出せないのと同じで全く記憶にない。
自分ながらひどいと思うばかりだがあながち年齢のためとも言えない。

北の国からは30年以上たっても今でも繰り返し放送されている。
ドラマに感動する作りが倉本聰らしい。
半年から一年かけて
ドラマの根っこづくりを行い登場人物の背景というか履歴というか各人が年表化され
それから脚本づくりがなされるという。

インタビューには言葉を選び下手なことは質問できないという厳しさを感じ視ている側も
姿勢を崩せず緊張しながら番組が終了した時にはほっと溜息が出た。

感動をもらい自分も成長できた時代は遠くなったが、最近はドキュメントや映画もなかなかだ。
先日、樹木希林のあんを視た。

テレビで放送されたので一度では細かい部分まで見逃していたので2度視た。
ハンセン氏病に侵された女性が日の目を浴びることのない隔離された場所で自由を失い生きて来た
が時間が経って週に一回の散歩の時間に街へ出てどら焼きの店が目に留まりドラマが始まる。
そこで思い出した。

自分の子供時代、東北の田舎で育ったが何も知らない子供が、あのうちは結核の家系だ、あのうちは娘が気違いだ、
また別な家はライ病の家系だ 肉屋は民だとか。
病気が移るから家の前を通るな、通るときは口をふさいで走って通れと大人に吹き込まれた。
病気になると座敷牢に入れられると聞いた。

何のことか、病気の中身もわからず何か怖いことなのだと思った。
しかも夕方は早く家に帰らないと朝鮮人に連れていかれると言われて夕方は
怖かった。
今考えるとすべて差別だった。
何の権限もなく差別する側は色々な理由で差別をして世間から排除した。
ひどい残酷な時代が日本は確かにあったのだ。
ましてや職業なども勿論のこと、小学校の同級生にチンドン屋とからかわれていた子がいた。
いつもいじめられからかわれ、遠足の時その母親が子供の数だけゆで卵を持ってきて
頭を下げながら子供たちに配った。
ゆで卵はその子の思い出に繋がる。


戦後の間もない時期は生活も苦しかったが、精神も貧しかったのだと今になって分かった。
人が人を差別して何も知識もない子供に教え込み、振り返ってみたら高校時代までそれが続いた。
今やTwitterやfacebookで人を傷つける、ささくれた心の持ち主が増えた。
あんを視なかったら、子供時代の差別社会を思い出さなかったと思う。

感動を生み、気持ちを揺さぶり果ては深く自分の人間性の浅さを反省させられるドラマに
これからも沢山でなくていいから出会いたいものだ。





笑える話と、うつむく毎日

2017年02月07日 11時46分15秒 | Weblog
先日の日曜日の安住アナの日曜天国の投稿欄でまた一人で思いっきり笑ってしまった。
最近の困っていることというテーマでの投稿が紹介される。

主婦の困ったこと。

毎日ラジオを聞いているが6歳の娘が、ママもカバライキンノ相談をしてみたらという。
過払い金を理解していないので丁寧に娘に説明した。
そしてママはお金を借りていないから相談しなくても良いのといったら
娘は借りていないと思っていた人も相談したら、お金が返って来たからママも銀行に聞いてみたらと言う。
銀行の名前は娘が勝手に作った儲け銀行というらしい。

聴いていないようで子供も度重なるコマーシャルは耳に入って覚えてしまうのだと
母親は悩んでいるそうだ。
法律事務所の電話番号まで暗記しているのだ。

コドモは記憶装置が高性能で壊れかけたりしている老人とは違い入力、出力が抜群に高度だ。
自分たちの年代では書いてもそれをどこに書いたのかそれを探す始末だ。

新聞の昨日の声欄の投稿。
時代の流れについていく努力を
というタイトルの愛知県の女性の投稿を読んだ。

駅の自動販売機で買い方がわからない様子の高齢の女性がいた。
駅員や周囲の人に聞けばよいのに突っ立ったまま。
私は代わりに切符を買いました。
その間彼女は黙ってみているだけ。
今日は私が買ってあげましたが、次には私はいませんよ。
メモを取られて買い方を覚えていかれなくて良いのですかと聞いた。
彼女はメモを取ろうとする様子がないばかりかありがとうの一言もなかった。
世間にはできない人の気持ちを分かって上げないことを咎めますが時代の流れについていく
努力をしないことを何故か咎めません。
わからないことがあったら人に聞くなり何らかの方法を試すなり努力をすべきではないでしょうか。

という一文。


状況判断がこの文章からは困難だが
もしかしたら、この高齢の女性は認知症が少し発症しかけて外出しているのかもしれないと思った。

確かに正論で、自分の自助努力をという今後の高齢化社会に生きていく努力としてすべきこと
とも思える。
しかし最初にこの文章を読んで気にかかったのは、この後女性は家までたどり着けたのかということだ。
外出したが、自分の行く先や居場所がわからなくなって頭の中が空白になっていたのではないかと。

昨日も伊那で数日前からの行方不明者が夕方警察の広報アナウンスでご協力をと放送された。
外出の格好で、バッグも持っている。
、地方でも行方を探すのは困難で、ましてや都会では忙しく人々が行きかっているいる場面では
関わる人はいないに等しい。
無関心もいるし関わりたくない人もいる。
昔、自分が大手町の地下鉄の乗換えで顔を怪我して血だらけで歩いていても
誰にも声はかけられなかった思い出がある。

コドモは超スピードで言葉や情報を仕入れていくが老人や病人など弱者になると
失っていくのはその逆である。
自分が困った場面に合った時に判断できる知力だけは失わない毎日の生活の仕方を続けたいと
本気で願う。






だんだん美しくなる人生

2017年02月01日 12時40分01秒 | Weblog
タイトルは先日記事に書いたつばたしゅういちさん御夫婦の目指して生きて来た言葉である。
年齢を感じさせない、エイジレスビューテイというそうだ。
昨年、生き方の先輩として尊敬して来た津端さんご夫婦に一大事が起きた。
残された妻の英子さんの一人暮らしを心配していた。

有り難いことにそれに関して先日テレビで放映された。

第12回日本放送文化大賞グランプリ受賞作品
としてである。
(ある建築家と雑木林の物語)
全国につばたさんのファンが沢山おられるようで、ご主人の訃報は衝撃となったのであろう。
皆さん、奥様のその後の生活を心配されていることだろうと思っていた。
その為ではないかもしれないが、つばたさんご夫婦の映画が出来上がった。
視聴した後は少なからず心配した気持ちは取れてほっとした。

「人生フルーツ」というタイトルでご夫婦の40年前からの生活を紹介し、伊勢湾台風で壊滅した後の春日井市の高台に
計画された高蔵寺ニュータウン計画に参画した経過も記録にあった。
名古屋から30分、当時の高蔵寺は山林を切り開き、広大な敷地で建築が始まったが今や巨大なベッドタウンだ。
雑木林の中に建物を作る計画は青写真と異なってしまい
その土地に自ら家を建て家は生活の宝石箱でなければいけないと
実践して来た。

雨が降れば土が肥える
土が肥えれば果実が実る
コツコツゆっくり

風が吹けば枯葉が落ちる
枯葉が落ちれば土が肥える
土が肥えれば果実が実る
人生フルーツだ

      

90歳と87歳のご夫婦は健康で広島大学を退職された後はそれぞれの時間を趣味や野菜、果実づくりに使い
雑木林に囲まれた住まいはうっそうとし枯葉を落とし土を肥やして自給自足の生活を支えて来た。
野菜は年間70種、果実は50種栽培するというので、土地は広いがやっと10種に及ぶ野菜を夏の暑さに負けながらも
この伊那に引っ越して始めた野菜作りを恥じる。

だだっ広い田んぼの跡地を宅地にして野菜作りを始めたが、土づくりが基本と誰もがいう実際偏が
作業を急ぐあまりに身につかなかった。
3年目にしてやっと開眼。
つばたさんの土づくりから始まった畑と庭作り、友人や地域との交流のドキュメントは何度見ても
その都度発見があり参考にしたい。

自分も東関東大震災の3月11日にはあと一か月半で70歳に突入だ。
自分でも考え付かなかった70歳からの先、訃報も多くなり80歳以降なんてありえないと常に悲観的になっていた
この冬
体力的には無理は出来ないが小さなことからコツコツとときをためてゆっくりという英子さんの生き方
を真似てみよう。

英子さんは残されたが頑張って生きて、亡くなった後は二人の灰を南太平洋の海にまいてもらうのだそう。
夫は生涯愛したヨットのノウハウは生活に取り込み、海を自分たちの最期の落ち着き場所とした。
妻は若い時の貧乏暮らしを苦にせず、きちんとしたものを食べさせてきちっとしたものを着せるのを
妻の仕事とした。


何も大きな木がない日当たりだけが取り柄の我が家は始まったばかりだが、木を育て腐葉土を土にすき込み、ふかふかの土を作るのが70歳からの目標になった。

     

  ときをためる暮らし
  あしたもこはるびより

   つばた英子 つばたしゅういち著より


寒さの中で過ごす時間

2017年01月25日 15時28分16秒 | Weblog
今年の寒波到来のピークは過ぎたらしいが、鳥取などの異常降雪は過去に経験したので
その恐ろしさを想像できる。
暖冬と言う長期予報は温暖化とともに信じられない予報をもたらしている。

地震もゲリラ洪水も大量の降雪も年間を通じていつ被害が自分たちにも及ぶかもしれないとの恐れを
持つような時代になった。

この2週間の寒波もわかっていても震えた。
特に夕方以降の気温の低下は太陽が拝めない日は尚更厳しかった。

やっと今日は外での薪割りもすくまないでできるようになった。

今年の冬の時間はこれまでよりマゴに時間が取られなくなり、さあ何をしようかと
時間の使い方を考える。
忙しく働いていたのが長かったため、自分の好きなように時間を使うという世間様に申し上げる
退職者の時間の使い方にまだなれていないためやや罪悪感を感じる。

それでも今年はクリスマス前から編みものに一生懸命になりマゴや娘夫婦、友人などに毛糸の帽子を
7つ編んだ
そして、マゴの保育園経由のイベントで竹製のバターナイフ作成を経験し、忘れないうちにと家に帰って
3本作った。

毛糸の帽子はこの地域では外を歩くには必需品でありおまけにマスクもしてもこもこスタイルとなる。
地元の手芸品店で教えてもらった作品とNHKの素敵にハンドメイドでおしゃれなおそろいの帽子
というコーナーをたまたま観て編んでみた。

マゴは頭がどんどん大きくなるし、どこに置いてきたかわからないという行動の広さで
常に帽子を探している。
コドモの帽子はいくつあっても良い。

自分の子供時代はセーターやカーデイガンを手編みで編んでもらった記憶はあるが
帽子をかぶった思い出が残っていない。

その反動か、残り毛糸があればすぐに編みたくなる。
昨日ちょうど3枚目が編みあがったときに、帽子がないとムスメが家中探していた。

良かった。
いいチャンスだ。