伊那に引越しして散歩をするたびに思うが、どこを歩いても柿の木が多いなということだ。
勿論車で走っても、もっと目に入ってくる。
飯田のほうには市田柿という名産品があるが、それにしても鈴なりの柿木が目立つ。
もう晩秋に向かっているが、鈴なりはずっと鈴なりのままで捥がれる様子がない。
10月の中旬、友人から電話があり、渋柿だが、干し柿にするならと
ダンボールに二つの大量の柿を頂いた。
平種柿の種無しだが、ムスメと分け合って、ひたすら剥いて紐で結んで干したところ、大変な
重労働をした感じになった。

1ヵ月も干したら半分以下に干上がった
今、散歩をしていると途中で声をかけられ、柿を上げると持たされる。
今年は豊作で、柿の皮は沢庵漬けに使うが、柿の実は食べる人がいないと田んぼに沢山捨てられている。
親切に枝を折ってくれるのを断るに断れず、感謝しながら持ちきれないほどの柿を剥いては干し柿にする。
神奈川から原村に引越し、赤十字病院に勤務した時の数年間、同僚から毎年、大きな干し柿用の柿を
頂き、季節の仕事として楽しみに干し柿を作っていた。
あの柿は立派な大きさで味も良く、良い思い出を残した。干し柿作りはあれから始まったのだ。

今日剥いた柿はとても大きい
子供の頃を振り返れば柿泥棒と言う言葉があった。
柿の実を盗んではわーと逃げ回る子供たちがいた。
昭和20年代の子供はおやつなどと言う言葉もなくとうもろこしや蒸したジャガイモ
やトマトやきゅうりをお腹がすけば食べて育った。
お菓子が出回ったのは大分後だ。
あの頃食べた柿の実は甘いと思っていた。
雪が降っている冬には炬燵に入って熟し柿を食べるのが楽しみの一つだった。
中学時代、福島では秋になると全校生揃って3日間、イナゴ取りをしてコンテストをした。
当時は田んぼには農薬を使わなかったからイナゴが沢山いたものだ。
チャンピオンは1俵の米袋に取ってきたが、いい加減に遊んでばかりいた我々は母親が縫ってくれた
手ぬぐいの袋の底で数匹がぴょんぴょんはねている程度しか取らなかった。
川で遊んだり柿泥棒をしたりの思い出だけが残っている。
柿の木だって裸足で木に登り高い枝に上手に登れるものが偉かった。
柿の枝は折れやすいから、大人には登るな、と言い聞かせられていたが、そんなことは無頓着で
学校から帰ると木登りをして遊んだ。
柿の花が咲く時期は糸で花を通して首飾りを作って遊んだ。
その花の甘い香りは今でも思い出せる。
今、豊富に頂く柿は何だか甘くない。
貧乏な子供時代に食べたものの方が美味しく感じる。
沢山作って干した干し柿も、自分で食べるかといえばそうではない。
裕福になった時代は人間の心から食べ物に対しても感謝の念を奪ったのかもしれない。

このくらいの干し柿の方が絵になる
勿論車で走っても、もっと目に入ってくる。
飯田のほうには市田柿という名産品があるが、それにしても鈴なりの柿木が目立つ。
もう晩秋に向かっているが、鈴なりはずっと鈴なりのままで捥がれる様子がない。
10月の中旬、友人から電話があり、渋柿だが、干し柿にするならと
ダンボールに二つの大量の柿を頂いた。
平種柿の種無しだが、ムスメと分け合って、ひたすら剥いて紐で結んで干したところ、大変な
重労働をした感じになった。

1ヵ月も干したら半分以下に干上がった
今、散歩をしていると途中で声をかけられ、柿を上げると持たされる。
今年は豊作で、柿の皮は沢庵漬けに使うが、柿の実は食べる人がいないと田んぼに沢山捨てられている。
親切に枝を折ってくれるのを断るに断れず、感謝しながら持ちきれないほどの柿を剥いては干し柿にする。
神奈川から原村に引越し、赤十字病院に勤務した時の数年間、同僚から毎年、大きな干し柿用の柿を
頂き、季節の仕事として楽しみに干し柿を作っていた。
あの柿は立派な大きさで味も良く、良い思い出を残した。干し柿作りはあれから始まったのだ。

今日剥いた柿はとても大きい
子供の頃を振り返れば柿泥棒と言う言葉があった。
柿の実を盗んではわーと逃げ回る子供たちがいた。
昭和20年代の子供はおやつなどと言う言葉もなくとうもろこしや蒸したジャガイモ
やトマトやきゅうりをお腹がすけば食べて育った。
お菓子が出回ったのは大分後だ。
あの頃食べた柿の実は甘いと思っていた。
雪が降っている冬には炬燵に入って熟し柿を食べるのが楽しみの一つだった。
中学時代、福島では秋になると全校生揃って3日間、イナゴ取りをしてコンテストをした。
当時は田んぼには農薬を使わなかったからイナゴが沢山いたものだ。
チャンピオンは1俵の米袋に取ってきたが、いい加減に遊んでばかりいた我々は母親が縫ってくれた
手ぬぐいの袋の底で数匹がぴょんぴょんはねている程度しか取らなかった。
川で遊んだり柿泥棒をしたりの思い出だけが残っている。
柿の木だって裸足で木に登り高い枝に上手に登れるものが偉かった。
柿の枝は折れやすいから、大人には登るな、と言い聞かせられていたが、そんなことは無頓着で
学校から帰ると木登りをして遊んだ。
柿の花が咲く時期は糸で花を通して首飾りを作って遊んだ。
その花の甘い香りは今でも思い出せる。
今、豊富に頂く柿は何だか甘くない。
貧乏な子供時代に食べたものの方が美味しく感じる。
沢山作って干した干し柿も、自分で食べるかといえばそうではない。
裕福になった時代は人間の心から食べ物に対しても感謝の念を奪ったのかもしれない。

このくらいの干し柿の方が絵になる
干し柿の作りかたについては有り難く参考にさせて頂き、
絶対、来年真似してみようと思った次第です。
私が育った福島の干し柿はカチカチに干上がるまで
干したものでした。でも、あれから数十年、同じように作られているとは限りません。
昔は貧しかったのですもの。
市田柿は上品です。
アサヒモでむいた柿の根元を縛るのに一苦労していましたが来年はエコします。
いつも楽しみに拝見しています。
読者登録して頂いたお礼もせずに
黙って読み逃げしておりました。
干し柿、我が家も5年程前から毎年恒例になっています。
主人が下伊那の出身で飯田に友達がいるので
市田柿にする柿を買っているんですよ。
始めた頃は縛っていましたが
今はプラスチック製品の止めるモノが
JAに売っていたので何年も利用しています。
柿をTの字に切らなくてもいいし
パチンとハメて吊るすだけなので楽ですよ。
差し出がましいようですが
もし興味があるようでしたら
私のブログでアップしているのでご覧になって頂けたらと。
http://blog.goo.ne.jp/aoi-sora923/e/c2d5658587240a48b117f548782bca83
またお邪魔させて頂きますね。
これからもヨロシクお願いします。