◎明治十年代の灯火を回想する
尾内幸次郎著・渡辺敦補筆『今昔思い出草』(伊勢崎郷土文化協会、一九六五)を紹介している。本日は、冒頭の「明治の風俗」から、「(二)照明・行灯・火止」の節を読んでみよう。以下はその全文(八~九ページ)。
(二)照明・行灯・火止
灯火は明治十二年頃までも行灯【あんどん】が用いられました。行灯というのは蜜柑箱〈ミカンバコ〉のような物の四隅に柱を立て上端と中程を横棒で囲い、三方は紙で張り、一方口にして開閉出来るようにし、中段に板を渡したもので、この板の上に灯がい(蓋)という一種の皿を二枚重ねて上の皿に菜種油をさし、灯蕊【とうすみ】を油の中に浸して蕊の先端を皿の横に出してこゝへ点火し蕊〈シン〉が動かぬように■形の金物を置いた。普通の仕事には灯蕊二本ですから、誠に暗かった。しかし昔から夜は暗い事になって居たのだから、案外平気なものでした。細かい細工物などする人は視力を要したかと思うが、暗夜になれて見れば、闇の中にも物がハッキリ見えたものです。視力も犬猫に近かったといえましょうか。
夏の夜などは風のために時たま灯火が消された。其の時は(二)ホクチ(火口)に火打金〈ヒウチガネ〉で石(石英)を打って、手速く点火させ、次に其の火花を附木〈ツケギ〉に移し、(一)附木の火を行灯に入れるのでした。
(一)附木は薄板の一端に硫黄をぬりつけたもの、長さ十cm位。明治以前から長崎文化のおかげでだんだん行われて居た。その後マッチが使われるようになり、暫くの間マッチが附木の名で呼ばれたものでした。
(二)ホクチは蒲〈ガマ〉という水草の花を干して作り、之に焰硝(エンショウ)を少し加えて用いた。別にイチビの幹から作ったものもあった。
灯火が消えて暗く在ると子供が泣く。仲々手間取るために、家内中で大騒ぎをした。又ホウジヤク(こがね虫)が飛んで来て灯火を消し、さては油の中に入り、かき廻す為に油は四方に飛びいやな思いをした事など思出されます。
マッチがまだ普及しないので、代りの役には火止【ひどめ】(ほだ火)という物を絶えず炉の中にふせて置きました。其れは朝御飯を焚いた残火を灰の中に伏せて、一日中火を絶やさなかった。摺附木【マツチ】もだんだん田舎の生活を便利にしましたが、附木は相変らず使われて居ました。
振舞〈フルマイ〉のある節は燭台〈ショクダイ〉に百目蝋燭〈ヒャクメロウソク〉を一ト座敷毎に〈ヒトザシキゴトニ〉立てました。之は火力が強いから少し位の風には消えなかった。演芸の時などは高座に百目蝋燭を左右に二本立てた。芸人の顔を見る為で聴衆の方は無灯でした。又劇場では燭台を幾つも幾つも立てた。役者が花道へ出ると、其の顔を見るために、六尺の棒の先に百目蝋燭をつけて差出すのでした。普通の生活には格別の大家【たいけ】でも一灯しかつけませんでした。
■の部分は、印刷が薄くて読み取れなかった。また、「ホウジヤク(こがね虫)」とあるのは、原文のまま。ホウジャク(蜂雀蛾)とコガネムシは、別の昆虫だと思うが、この地方では、コガネムシのことをを「ホウジャク」と呼んでいたのだろうか。