◎松本文三郎の「支那に於ける印度音訳字」を読む
先月、神保町の某古書の均一棚にあった、松本文三郎著『仏教史雑考』(創元社、1944年4月)を買い求めた。定価(税込)5円82銭、古書価100円。
松本文三郎(まつもと・ぶんざぶろう、1869~1944)は、仏教学者、京都帝国大学名誉教授。1944年(昭和19)12月に亡くなっているので、『仏教史雑考』は、生前最後の著書ということになる。
同書には、かなり専門的な論文十二本が収録されている。うち、「支那に於ける印度音訳字」は、1933年(昭和8)10月7日に懐徳堂でおこなわれた講演の記録を起したもので、わかりやすく、かつ興味深い内容になっている。初出は、『懐徳』第12号(懐徳堂堂友会、1934年10月)で、初出時のタイトルは、「支那に於ける印度音訳字の二三に就て」であった。
本日以降、何回かに分けて、この講演の記録を紹介してみたい。
支那に於ける印度音訳字
いかなる処にあつても、国と国との間に交際が始まり或は一民族と他の民族とが往来をするやうになると、その一地方の言葉が自然他の地方に輸入されるものであります。殊に物品の如く一国には存在するが他の国には全く無いといふやうなものがあれば、必ず其有る処から無い処へ転じ来り、而して其時には物品と同時にその名称までも伝はつて来るものである。本来輸入国には其物品がなかつたのであるから、之を言ひ表はす言葉もない、で外国の名称そのまゝを伝へるより外〈ホカ〉途はないのであります。
日本に於ても、始めて支那と交際した時には支那の言葉が沢山日本語の中に入つて来ました。而して数千年来民間に用ひられると、終ひ〈ツイ〉にはそれが日本語であるのか、外国の言葉であつたのか殆んど民間では知らない位普及し、通俗化して来ます。例へば馬であるとか、茶であるとか、梅であるとかいふ言葉は皆外国から入つて来たものであります。此頃は余り用ひないやうですが、私共の子供の時分には街道を往還と云つてをりました。又今日でも一般に行李〈コウリ〉といふ語が用ひられてをります。此等は随分難しい語ですが我国でも普通民間で使つてゐるのであります。それからヨーロッパ諸国と交際するやうになつてからは、又色々の言葉が沢山入つて来ました。今日に於ては外国語を使ふ方が却つてハイカラのやうに感じられてゐるので、同じ日本語で言ひ表はし得る言葉でも、諸種の外国語を使つてゐるやうな時代でありますが、これも久しい中〈ウチ〉には終ひには日本化し、日本語か外国語か判らないやうにもなりませう。
支那に於ても矢張りその通りであります。殊に支那は古来色々の国と交際してゐたし、又其歴史も長いものでありますから、諸方の国土から諸種の言葉が沢山入つて来てをります。今より十数年前(一九一九年)ラウファー(Laufer)といふ人がシノ・イラニカ(Sino-Iranica)といふ書物を書いてをりますが、これは支那語の中に混入してゐる主としてペルシア系統の言葉を選び出し、其語源や歴史を説いたものであつて、此書の中には植物、果物、さういふ名称が約六十種以上も出てゐて、吾々には非常に興味ある書物であります。このイラン系統のものばかりで而もそれは普通民間に使はれてゐる草木とか、果実とかいふ類〈タグイ〉のものだけで六十以上もあるのでありますから、其他にもまだ幾らあるか殆んど判らないのであります。之によつても、如何に多数の外国語が支那に輸入せられ支那化してゐるかといふことが判るのであります。又仏教が支那に伝はつてからは、仏菩薩を始め仏教特殊の言葉、涅槃とか菩提とかの熟語乃至印度・西域地方の植物や動物其他種々の物品の名称が沢山支那に入つて来たのであります。
殊に仏教には五種不翻〈ゴシュフホン〉の言葉といふものがあります。これは必ずしも皆翻訳出来ないものでもありませんが、翻訳し難いもの、又は翻訳すれば却つて誤解を招き易いもものであるから、此等は翻訳せずに原語のまゝ唯音字で之を写してゐた言葉であります。所謂五種不翻の語とは、一つが秘密の言葉であつて、例へば仏経には陀羅尼〈ダラニ〉とか咒〈ジュ〉とかいふものであります。これは、飜訳すれば出来ないこともないが、強ひて訳した所で其意味がはつきりしないものである。それで原語のまゝで伝へておく方が寧ろ安全であり又何となく有難味があるので、敢へて翻訳しなかつたものであります。第二には多義の語であります。何処の国でもさうですが、一つの字で色々の意味をもつてゐる言葉がある、これを支那語に訳すると一つの意味しか現はされない、それでは本当の原語の意味を尽くさぬ事になる。例へば摩訶般若の摩訶といふ字の如きは「大」といふ義と,其外「勝れたる」とか「多い」とかいふ意味がある。それを支那の言葉で単に大と訳するだけでは、他の意味が隠れて現はれて来ない。さういふ意味の多い字は特に原語をそのまゝ使つてゐる。第三は支那に無いところのもの、これは物品の名称のやうなもかであつて、例へば瑠璃とか玻璃とかいふものは支那には無かつたものである。それで其名称も本国のまゝ伝はつてゐる。動植物でも同様である。それから第四には古例に従ふといふものである。昔の翻訳者が翻訳しないで原語のまゝ残した言葉、例へば菩提とか菩薩とかいふ類である。「菩提」は「覚」、菩薩は「覚したるもの」といふ意味である。今之を覚者と訳すれば、普通先覚者などといふ時の覚者と同様に解せられる惧れ〈オソレ〉がある。しかしこれは本来仏教特殊の意義を有するのであるから、此誤解を避けるため原語そのまゝの音を写しておくのである。それから第五は善を生ずるためといふのである。例へば般若〈ハンニャ〉といふ言葉は仏教で屢〻用ひます。般若は智慧である。智慧と訳せばよいが、俗間の智慧と混同し易い、而して仏教の真正な智慧をも之と同様に見る嫌〈キライ〉がないでもない、で原語のまゝ遺して特別に解釈しておく方がよい。かういふ風で翻訳の出来る言葉でも、翻訳しないといふものがある。斯くして外国語が仏教の輸入と共に沢山入つて来たのであります。仏教経典の中には、印度語の言葉の音で写されてゐるものが、どれだけあるか殆んど判らない位沢山あるのであります、而して仏教思想が民間に流布するに随つて、此等外国語が俗間にも亦屢〻用ひられるやうになつたのであります。〈229~232ページ〉【以下、次回】
先月、神保町の某古書の均一棚にあった、松本文三郎著『仏教史雑考』(創元社、1944年4月)を買い求めた。定価(税込)5円82銭、古書価100円。
松本文三郎(まつもと・ぶんざぶろう、1869~1944)は、仏教学者、京都帝国大学名誉教授。1944年(昭和19)12月に亡くなっているので、『仏教史雑考』は、生前最後の著書ということになる。
同書には、かなり専門的な論文十二本が収録されている。うち、「支那に於ける印度音訳字」は、1933年(昭和8)10月7日に懐徳堂でおこなわれた講演の記録を起したもので、わかりやすく、かつ興味深い内容になっている。初出は、『懐徳』第12号(懐徳堂堂友会、1934年10月)で、初出時のタイトルは、「支那に於ける印度音訳字の二三に就て」であった。
本日以降、何回かに分けて、この講演の記録を紹介してみたい。
支那に於ける印度音訳字
いかなる処にあつても、国と国との間に交際が始まり或は一民族と他の民族とが往来をするやうになると、その一地方の言葉が自然他の地方に輸入されるものであります。殊に物品の如く一国には存在するが他の国には全く無いといふやうなものがあれば、必ず其有る処から無い処へ転じ来り、而して其時には物品と同時にその名称までも伝はつて来るものである。本来輸入国には其物品がなかつたのであるから、之を言ひ表はす言葉もない、で外国の名称そのまゝを伝へるより外〈ホカ〉途はないのであります。
日本に於ても、始めて支那と交際した時には支那の言葉が沢山日本語の中に入つて来ました。而して数千年来民間に用ひられると、終ひ〈ツイ〉にはそれが日本語であるのか、外国の言葉であつたのか殆んど民間では知らない位普及し、通俗化して来ます。例へば馬であるとか、茶であるとか、梅であるとかいふ言葉は皆外国から入つて来たものであります。此頃は余り用ひないやうですが、私共の子供の時分には街道を往還と云つてをりました。又今日でも一般に行李〈コウリ〉といふ語が用ひられてをります。此等は随分難しい語ですが我国でも普通民間で使つてゐるのであります。それからヨーロッパ諸国と交際するやうになつてからは、又色々の言葉が沢山入つて来ました。今日に於ては外国語を使ふ方が却つてハイカラのやうに感じられてゐるので、同じ日本語で言ひ表はし得る言葉でも、諸種の外国語を使つてゐるやうな時代でありますが、これも久しい中〈ウチ〉には終ひには日本化し、日本語か外国語か判らないやうにもなりませう。
支那に於ても矢張りその通りであります。殊に支那は古来色々の国と交際してゐたし、又其歴史も長いものでありますから、諸方の国土から諸種の言葉が沢山入つて来てをります。今より十数年前(一九一九年)ラウファー(Laufer)といふ人がシノ・イラニカ(Sino-Iranica)といふ書物を書いてをりますが、これは支那語の中に混入してゐる主としてペルシア系統の言葉を選び出し、其語源や歴史を説いたものであつて、此書の中には植物、果物、さういふ名称が約六十種以上も出てゐて、吾々には非常に興味ある書物であります。このイラン系統のものばかりで而もそれは普通民間に使はれてゐる草木とか、果実とかいふ類〈タグイ〉のものだけで六十以上もあるのでありますから、其他にもまだ幾らあるか殆んど判らないのであります。之によつても、如何に多数の外国語が支那に輸入せられ支那化してゐるかといふことが判るのであります。又仏教が支那に伝はつてからは、仏菩薩を始め仏教特殊の言葉、涅槃とか菩提とかの熟語乃至印度・西域地方の植物や動物其他種々の物品の名称が沢山支那に入つて来たのであります。
殊に仏教には五種不翻〈ゴシュフホン〉の言葉といふものがあります。これは必ずしも皆翻訳出来ないものでもありませんが、翻訳し難いもの、又は翻訳すれば却つて誤解を招き易いもものであるから、此等は翻訳せずに原語のまゝ唯音字で之を写してゐた言葉であります。所謂五種不翻の語とは、一つが秘密の言葉であつて、例へば仏経には陀羅尼〈ダラニ〉とか咒〈ジュ〉とかいふものであります。これは、飜訳すれば出来ないこともないが、強ひて訳した所で其意味がはつきりしないものである。それで原語のまゝで伝へておく方が寧ろ安全であり又何となく有難味があるので、敢へて翻訳しなかつたものであります。第二には多義の語であります。何処の国でもさうですが、一つの字で色々の意味をもつてゐる言葉がある、これを支那語に訳すると一つの意味しか現はされない、それでは本当の原語の意味を尽くさぬ事になる。例へば摩訶般若の摩訶といふ字の如きは「大」といふ義と,其外「勝れたる」とか「多い」とかいふ意味がある。それを支那の言葉で単に大と訳するだけでは、他の意味が隠れて現はれて来ない。さういふ意味の多い字は特に原語をそのまゝ使つてゐる。第三は支那に無いところのもの、これは物品の名称のやうなもかであつて、例へば瑠璃とか玻璃とかいふものは支那には無かつたものである。それで其名称も本国のまゝ伝はつてゐる。動植物でも同様である。それから第四には古例に従ふといふものである。昔の翻訳者が翻訳しないで原語のまゝ残した言葉、例へば菩提とか菩薩とかいふ類である。「菩提」は「覚」、菩薩は「覚したるもの」といふ意味である。今之を覚者と訳すれば、普通先覚者などといふ時の覚者と同様に解せられる惧れ〈オソレ〉がある。しかしこれは本来仏教特殊の意義を有するのであるから、此誤解を避けるため原語そのまゝの音を写しておくのである。それから第五は善を生ずるためといふのである。例へば般若〈ハンニャ〉といふ言葉は仏教で屢〻用ひます。般若は智慧である。智慧と訳せばよいが、俗間の智慧と混同し易い、而して仏教の真正な智慧をも之と同様に見る嫌〈キライ〉がないでもない、で原語のまゝ遺して特別に解釈しておく方がよい。かういふ風で翻訳の出来る言葉でも、翻訳しないといふものがある。斯くして外国語が仏教の輸入と共に沢山入つて来たのであります。仏教経典の中には、印度語の言葉の音で写されてゐるものが、どれだけあるか殆んど判らない位沢山あるのであります、而して仏教思想が民間に流布するに随つて、此等外国語が俗間にも亦屢〻用ひられるやうになつたのであります。〈229~232ページ〉【以下、次回】
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