エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

人生は、「もうダメだ」と思った時から、始まるもの

2015-11-29 10:30:57 | アイデンティティの根源

 

 

 
最大の子育て支援策
  やれ、保育所が足りない、認可園も増やせ、などと言われます。その通りだと思います。いずれも、子育て支援として大事です。しかし、それだけではない、と加藤周一さんの...
 

 ルターも、受難を覚悟で、「世界最強」と思われていたローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝に「NO」を突きつけたでした。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.243の、第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ルターが中年の頃に担った殉教、すなわち、強烈な抑うつ状態は、特定の体質なしに現れた、などとは申しません。でもね、ご指摘したいのは、マルティンが自分を確かにさせるという課題について指摘した時と同様、発達の舞台の中には、心も身体も「もうダメだ」と感じる舞台もある、ということです。

 

 

 

 

 

 人生の舞台は、ルターでなくても、「もうダメだ」と思う時が、しばしば訪れるものですね。でもね、本当の人生が始まるのは、「もうダメだ」と思った時からなんですね。

 実に人生は善くできますよ。

 

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「1つの人類」よりもまず、「ひとりびとりの結びつき」を!

2015-11-29 09:26:06 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
まだまだ危うい青年期
  青年期になると、理想の良しあし、位置づけが分かってきます。日本人は、自分が得をしないかぎり、なかなか理想を求めないのが常。それがいつも間にか「最悪」に加担しな...
 

 大人と言ったら、上手にウソとゴマカシをやってるつもりで、ウソとゴマカシだらけになるんじゃぁなくて、ウソとゴマカシにない「倫理的な感じ」を育みたいものですね。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p95の、10行目途中から。

 

 

 

 

 

同じようなユートピアの発言の中で、フロイトは「文明とはエロスのためのある過程です、文明の目的は、人をひとりびとり結びつけることにあります。文明の目的は、人と人を結びつけることが出来ては初めて、その次に、家族と家族を結びつけることを目的とできますし、その後で、人種と人種を結びつけることを目的にもできます。市民と市民、民族と民族、国と国を一つに、すなわち、1つの人類に、結びつけることを目的にもできるは、その後です」と言っています。

 

 

 

 

 

  フロイトも素晴らしいですね。勘所をキチンと理解し、私どもにキチンと伝えてくれているからです。一人一人の結びつきが文明の目的だとフロイトは教えてくれています。

 どこかの国、ニッポンでは、「一億総活躍社会」とか言って、ケバケバしいイアドバルーンを上げてますけれども、ケバケバしいものは、偽物と相場が決まってます。アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちのウソとゴマカシがまた、また、また、また、また、また、明らかになるでしょう。

 集団安全保障をアベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちが大事にするのは、1人と一人の関係を大事にできないからなんですね。それは、加藤周一さんが、「熱烈な愛国者の多くは、隣人を愛せないから、その代わりに国を愛するのである」と教えてくれている通りです(10段組み体操とディズニーランドから見えてくる、私どもの日常 改訂版)。

 

 

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抱っこも効くかも

2015-11-29 03:12:26 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
人を大事にすること=上手なセックス
  夫婦でさえ、本音の付き合いでなくなるのが、現代、という時代の特色です。 p82冒頭から。    ...
 

 中国から来た孤児のメーちゃん、感覚運動セラピーを6週間やったら、しゃべれるようになった、と言います。良かったですね。

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.216の、第6パラグラフ、下から6行目から。

 

 

 

 

 

 イン・メーちゃんが劇的に発達したおかげで、トラウマ・センターで感覚運動セラピーを始めようと私どもは考えるようになったんですね。トラウマ・センターでは、いまでは、通院治療でも、感覚運動セラピーをやっています。私どもは、感覚運動セラピーがトラウマを負わされている大人に効果があるかは、まだ十分に研究していませんが、私は、感覚統合の実習とダンスをセミナーで一緒にやるのが普通になっています。

 

 

 

 

 

 感覚運動セラピーやダンスも、発達トラウマを抱えた愛着障害の子どもに効果があんですね。いろんな感覚、手触りの違ういろんなものに触れることも、感覚運動セラピーになりますね。私は、でも、そういうセラピーをしたことがありません。もっと原始的なことをしています。それは抱っこだったり、握手だったり、ハグであったり、おんぶだったりします。10年以上、発達トラウマを抱えた愛着障害の子どものセラピーをしていて、一番重たいと感じる愛着障害の子どもには、抱っこをやってます。古典的ですが、その子も楽しんでくれている感じですね。

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#日本の裁判所という #ウソとゴマカシ #生きている実感の再生

2015-11-29 02:22:48 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
最大の子育て支援策
  やれ、保育所が足りない、認可園も増やせ、などと言われます。その通りだと思います。いずれも、子育て支援として大事です。しかし、それだけではない、と加藤周一さんの...
 

 

 

 中学生の頃、国立第三中学校の社会科の奈良先生が、杉本判決のことを教えてくれたことを覚えています。杉本判決とは、家永三郎教授が起こした「教科書裁判」で、国家が行っている、そして、今もやってる「教科書検定制度」そのものが、憲法と教育基本法に違反するとした、画期的な判決です。その評価は今も変わりません。しかし、中学生だった私は、奈良先生に質問しました。「この画期的な判決を出した杉本良吉判事は、その後はどうだったんですか?」。つまり、「出世したのか? 左遷されたのか?」ということです。奈良先生は、「その後、家裁の判事をした後に、退官して、弁護士をしています」という内容だったと記憶しています。左遷されたと、当時の私も感じました。それに対して、「反権力」と民主主義教育に熱心だった、奈良先生は、「民主主義は、損することを覚悟した人が、建設するものです」と言う趣旨のことを教えてくれたと思います。

 ところで、民主主義とほとんど同義語の言葉がいつくかあるそうですね。まずは、主権在民がそうですね。三権分立も民主主義とほとんど同義語と言えるでしょう。権力は集中すると腐敗するので、分散させて、チェックすることが大事です。それが、民主化を進める上での、人類の叡智なわけですね。

 日本では、議院内閣制ですから、もともと立法と行政が近い。つまり、立法と行政が癒着を起こしやすい。それでも、司法が、立法と行政をチェックしてくれれば、民主化が進みます。しかし、立法と行政が癒着したところに、司法まで癒着したら、それは権力が絶対君主化、暴君化してることの何よりの証拠です。

 フェイスブックで、岡崎博幸さん(「埼」は、本当は「大」の部分が「立」ですが、文字化けしてしまうので、こうしています)が、元最高裁判事の瀬木日呂志さんの記事を紹介してくれて、私も読んだんですね(http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/157670/8)。それで、これは大事な指摘だと感じたわけですね。日本の裁判官は、「法衣を着たお役人」とのことです。「お役所仕事」の裁判をやっちゃってる訳です。それは、権力に都合のいい裁判をしていることがほとんどだということです。ですから、裁判結果には、ウソとゴマカシだらけになっちゃってるのが、日本社会の、悲しくも、厳然たる現実です。それを端的に表している数字が、行政訴訟で、政府などを訴えた市民が勝つのは、8、4%と言いますからね。政府や市町村、都道府県を訴えても、10の内、1つも勝てない計算です。裁判官が、いかに権力に都合に良い判決ばかりを出しているかが、ハッキリ分かります。

 これを糺すためには、私どもはどうすればいいのでしょうか? 法科大学院教育を考え直した方が良いのでしょうか? 私はそうは考えませんね。法科大学院で学ぶ段階では遅すぎる、と考えるからです。私は小学生かそれ以前の教育が大事だと思いますからね。福沢諭吉ではないけれども、裁判官も不羈独立でないから、依存的、権力依存症になっている訳ですね。エリクソンのライフサイクル論からすれば、幼児前期、つまり、2才か3才の頃の発達危機が乗り越えられてないんですね。「自分が生きている実感」に従うことを身に着けてないんです。いつも周りの強い者に同調することしか学んでない。ですから、幼児教育、初等教育の段階で、子どもが感じている、言葉にならない「自分の感じ」に従っていい、という関わりをすることが、裁判官の不羈独立のためにも必要だ、というのが私の処方箋です。

 

 

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ルターはやっぱり、「受苦的存在」

2015-11-28 09:46:32 | アイデンティティの根源

 

 

 
思い違いだらけ、ニッポン!
  「がんばれ、ニッポン」。東京オリンピック招致成功この方、また、耳にする機会が多くなった掛け声ですね。でもね、今日のは「思い違いだらけ、ニッポン」。ゴロが悪い。...
 

 ルターもひどいことに加担した形になったのにもかかわらず、受難者でした。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.243の、4行目途中から。

 

 

 

 

 

ルターは、私家版の殉教を作り出しましたし、その殉教を承知していました。「ローマ教皇も、ローマ皇帝も、私をめげさせることなどできなかったからこそ、悪魔が必要だったのです。悪魔がいて、敵がいるからこそ、力は長続きするわけです」と。ルターは、このように、悪魔(「地獄の皇帝」と呼んだが)のことを、ルターの死刑執行人と呼びました。悪魔はますます人格化した存在となり、ルターは「キリストの素敵な知らせを伝えるもの」であり、「ドイツの預言者」であったのに、ルターを迫害する存在になりました。

 

 

 

 

 ルターは、当時「圧倒的存在」と思われていたローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝を向こうに回して戦ったところに、真骨頂があります。メゲナイ存在です。そうなるためには、殉教も覚悟する、「受苦的存在」であることが必要でした。

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