能動的に受け身になる、と言われても、はてな?と感じる人もいるかしらねぇ。それは言ってみれば、「意識して聞き役に徹しよう」っと感じ。自分がいろいろ話すんじゃなくて、相手が......
発達トラウマ障害(DTD)の子ども。薬物依存症の帰還兵ラリーさん。セリフを何度も練習するうちに、自分の言葉を取り戻すことができました。
The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』p.346のブランクから。
「法廷でのシェークスピア劇」では、リハーサルで使う言葉の特異性は、学生たちがステージを降りた後の会話にも広がります。ケヴィン・コールマンが記しているのは、学生たちの話が「…みたいな…」という言い方で穴だらけ、ということでした。ケヴィンは続けます、「もしも、自分の感情体験と自分の判断をゴッチャにしたら、やってることがあいまいになっちゃうよ。もし学生たちに『どんな感じがした?』と訊いたら、学生らはすぐに『いい感じ』だとか『ダメな感じ』だとか答えますよ。どちらも判断なんですね。ですから、私どもは1つの場面の終わりに、『その感じはどうなの?』とは決して言いません。というのも、そんなことを訊いたら、頭デッカチに判断するように、ってことになっちまいますからね」と。
感情や感覚は、主観的で、あいまいなもの、と思われがちですが、さつき加藤正一さんの言葉で学んだみたいに、社会的なもの、その判断を含んでいる場合が多いものです。学生らが感じている子にも、良い感じがしたら、オッケーの判断、ダメな感じがすれば、NOの判断が下されている、と考えられますもんね。
ですから、感じ=判断、ということになりますね。別にそれをあたらめて、知的に判断する必要は必ずしもありませんよね。