中城グシクは護佐丸によって改築、増築され
現在観る規模に成り、居城とし、を護佐丸のグシクとして
語り継がれていたことは有名である
護佐丸の履歴を示す歴史的資料はほとんどなく
現在語られている履歴には不明な点が多い
曾祖父が先昔今帰仁按司のとき
1322年に
後昔今帰仁按司怕尼芝(はねじ)によって滅ぼされた
一族は山田の地に生き延びこの地に山田城を築き
護佐丸は四代目山田按司と伝えられている
伝承や家譜(豊見城家)などによると
護佐丸は英祖王の次男、湧川王子の子
湧川按司から四代目の三男が
四代目山田按司が護佐丸と伝えられている
護佐丸は1390年に生まれたと伝えられている
生まれた時の童名(わらびな)
幼児名は真牛(まうし)と言った
当時の沖縄では、家族、親族、仲間内では
生涯童名(幼児名)で呼ばれていたと言われている
中城按司護佐丸盛春は日本向けの名前
毛国鼎(もうこくてい)は明国向けの名前
琉球氏族は童名、大和名、唐名と三つの名前を持っていた