護佐丸が山田城主のとき
首里城城主になっていた尚巴志(1372~1439年)が
1416年に今帰仁城を攻略しようと軍を進めた
その時護佐丸も兵を率い参戦した
尚巴志の本軍は海路を
護佐丸は陸路を指揮官として進軍した
難攻不落の今帰仁城を攻め、終には攻め落とし
護佐丸は大きな功績をあげ
これを機に読谷の座喜味にグシクを築き
読谷山按司と名乗り十八年間居城とした
第一王統三代目尚忠王のとき
王府の命により護佐丸は中城城に移り
中城按司と名乗る
伝承によると勝連按司阿麻和利が勢力を拡大していた
阿麻和利を牽制するためだと言われている
尚王統は王位継承で内乱状態
志魯・布里の乱が起き、尚里も失脚し
第一王統六代目に尚泰久が王位についた
護佐丸の娘を正室にしていた尚泰久は
長女百十踏揚(ももとふみあがり)を阿麻和利に嫁がせ
内乱で失墜していた王権を不動のものにした
護佐丸は阿麻和利を牽制するため軍事訓練をしていた
ところがこれを見た阿麻和利は
王府に謀反の動きありと、讒言した
これを聞いた尚泰久は阿麻和利を総大将に任じ
1458年に中城城を包囲した
王府軍と聞いた護佐丸は反撃せず
幼児だった三男を乳母に託し
妻、長男、次男もろとも自害した
その後阿麻和利は、首里に進軍するが
王府軍に敗れ阿麻和利は戦死する