人生黄昏時

 老いを心身ともに感じ

  日々の生活で思った事を記す
  

浦添城 【3】

2019年12月25日 00時00分18秒 | 日記

 浦添城の城主、察度は明国(中国)に朝貢し

大和、高麗、東南アジア諸国との外交、貿易を促進し

 

また、官生(留学生)も派遣などをして

浦添地域(中山)を政治、外交、経済、文化を中心とした

 

察度王統は二代目武寧が明国の冊封を受け入れ

琉球で初めて明国皇帝から中山王としての称号を得る

 

そのころ佐敷グシクを拠点に勢力拡大していた

佐敷按司、尚巴志が浦添グシクを攻めた

戦いの結果56年続いた察度王統は滅ぶ(1406年)

 

尚巴志の父親尚思紹が中山王に成り

王城は首里に移り、政治の中心も首里に移る

 

その後、浦添城は王族の居城と成るが

1609年薩摩軍の侵攻によって浦添グシク内

周辺の建造物は焼失する

 

1671年に第二王統七代尚寧王(1589~1620年)が

修築し隠居とする

 

時代とともに場内の建造物は再三に渡り

改築されて来たとされている

 

浦添城は石灰岩上標高約130m.で

城域は東西約380m.南北に70m.以上

北側は断崖である

 

自然の地形を巧みに利用した

要塞堅固なグシクであった

 

そのため去った大戦では日本軍の

第二防衛線の陣地と成った浦添城

 

1945年4月26日から始まった日米両軍による

激戦によって浦添グシクは破壊的状態となる

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする