雨宮家の歴史 15 「落葉松 第2部 生い立ちの紀 Ⅰ-13 広沢町」
(十三) 一回も手を挙げぬ吾子の不甲斐なさ 列後に掛けて心耐おり
( 昭和九年 )
私は昭和四年四月、静岡県浜松師範学校付属付属尋常高等小学校の尋常科一年に入学した。「 付属 」と呼ばれていたが、当時広沢町に住んでおり、付属が一番近かったから入った。運よく抽選に当たった。次弟は抽選に外れ、西小学校に入ったが、広沢校が開校して転校した。
付属は一学年男女各五十名で、四年生までは共学で、五、六年生は男、女に別れた。高等科は二年制で、各学級に師範の学生が教生として配属されていた。
修身の時間に、歴代天皇の名を神武から今上まで暗唱したO君は、学徒出陣で帰らぬ人となってしまった。分かっていても、手を挙げることのない私は、余り小学校の記憶は残っていない。私の最も古い記憶の「 まっ黒なかたまり 」は昭和五年五月の二年生の時である。
(十四) 冬日さす縁に書よみ疲れたり 循環自動車埃あげゆく
( 昭和四年 )
紺屋町から広沢町二五二番地に移って来たのは昭和三年である。今もある神村ふとん店の、南側一帯の広い地所の奥の方に、中二階の家屋が建っていたが、現在は住宅がひしめいていて、当時のおもかげを感ずることは出来ない。ここも谷島屋のものだったと思う。
遠鉄バスの西循環の通る道を、民営の循環バスが通っていた。まだ舗装されていなかったから、風に土埃が舞い上がるのは日常であった。停留所など無く、どこでも停ってくれたので便利だった。市営になった昭和十一年に停留所も出来、道も舗装された。
浜松高等工業学校( 現静大工学部 )が出来たのは大正十一年、今の市立高校の所である。父は中学を出ていて英語が解るので、適任者として、谷島屋の高工売店の主任となった。広沢町に移ったのも、高工に近いためであった。父は誠実さを見込まれて、高工の多くの先生、職員から親しまれ、それは戦後、静大工学部となってからも続いた。
それを私が引き継ぎ、店をやめるまで三十年間、図書館・先生・職員方に本を届けるため通ったので、学校のすみずみまでを知っていた。
(十五) 藁葺きの古家うれし雨降れど 暁知らずねむりよりさむ
( 昭和八年 )
広沢町二五二番地より、少し南に下がったところの、谷島屋別荘内に移ったのは昭和八年である。別荘が出来たのは大正十年であった。「六谷荘」と名付けられ、本宅と従業員宿舎を造り、店と住まいを別にしたのである。店員もここから通勤することとなったが、抵抗があったのかいつの間にか、元通りになってしまった。その留守番役として、従業員宿舎だった建物に入居した。
玄関・出窓つきの三畳・六畳・八畳・十畳と土間があった。土間に炊事場と風呂場を作った。藁葺屋根だったので、時々天井のすきまからムカデがポトリと落ちて来ることがあった。
本宅と宿舎の間に大きなポプラの木が二本聳えており、砂場があって鉄棒が付いていた。本宅は十室もあって、日曜日には雨戸の開閉を手伝わされた。バス通りよりも、少し傾斜して高くなって、大きな木製の扉のついた門があり、玄関まで砂利が敷きつめられていた。南側は広い芝の植えられた庭で、大きな傘松が一本そびえていた。
東側は普済寺で、崖下から大きな椎の木が物置小屋の上まで蔽っていた。この樹の上で、夜「ふくろう」がほうほうと啼いて、夜のしじまを一層深くした。「いうことを聞かないとゴロ助(ふくろう)にやってしまうよ」が、母の口ぐせであった。
今この崖下は住宅がびっしりと詰まっているが、当時は大きな池があって、食用蛙が棲み着いていて、毎晩「グォー、グォー」と啼いた。もとは釣り堀だったかと思う。
(十六) 夕刊を読み居る夜半に下池ゆ 声太太と蛙啼きいず
( 昭和八年 )
私たち兄弟たちは、毎晩このゴロ助と食用蛙の合唱を聞きながら、眠りに落ちていった。
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編者注) この「落葉松」は雨宮智彦の父(今年91才)が執筆した著書『落葉松 ー自伝と文芸評論ー』(自費出版、2013年5月発行、253ページ)を1章づつ掲載しています。この章は、本ではp40です。
本で一気に読みたい方は、まだ若干本が残っていますので、希望者には贈呈いたしますので、メールをください。先着順、数名です。