雨宮家の歴史38 雨宮の父の自伝史「『落葉松』第4部 Ⅱ-37 台風」
台風というと、先ず思い出されるのは「伊勢湾台風」である。明治以後、最大の台風で、五千余人の死者、五十万戸の建物が被害を受けた。その他に「狩野川台風」「洞爺丸台風」「第二室戸台風」、戦前では大阪を直撃した「室戸台風」があった。
戦後の混乱期と占領軍の支配下にあって、余り知られていない台風があった。「枕崎台風」である。
敗戦直後の昭和二十年九月十七日、九州薩摩半島南端部の枕崎に上陸し、一晩で九州を横断して、瀬戸内海から中国山地を猛スピードで通り抜けた。枕崎測候所での最低気圧は,午後二時、九一六・三ミリバール(伊勢湾台風は九二九・五三ミリバール)であった。最大瞬間風速も六二・七メートルを記録した。五〇㍍を超すと屋根瓦が飛ぶというから、枕崎付近の家屋は殆んど倒壊した。
通信施設も途絶してしまって、中央気象台への連絡も出来ず、台風情報を一般に知らせることが出来なかった。戦時中は、気象情報の公開は一切禁止されていたから、その惰性も残
っていたのだろう。
速度も速かったから、アッという間に風が吹き、川が出水して氾濫して、山津波が起きるという情況であった。光でも島田川が氾濫して、宮本顕治の家も一階は水に沈んでしまった。この時の模様は「播州平野」に詳しい。ちょうど百合子が滞在していた時であった。
死者三七五六名のうち、広島県で三千余名にもなった。広島市も各河川が出水して、デパート福屋も地下一,二階も水に埋もれてしまった(「35 中村住宅二二六号」参照)鉄道も山陽線・山陰線・呉線など殆ど冠水したり、線路が流されて不通となった。
私が朝日塩業に赴任するために光市に行ったのは、ちょうど一年後だったから、枕崎台風の痕跡はもうなかった。
もう一つ、枕崎台風による思いがけない副産物があった。光の東に当たる室津半島の先端に長島がある(衣川さんの出身地、祝島の隣島である)。距離にして光より南東海上十五キロ、枕崎台風の二、三日後、その長島の岩場に一隻の魚雷艇が、海岸に突き刺さるように直角に乗り上げていた。干潮になって磯遊びに来た近在の子供たちが見つけた。光基地の残留隊員がかけつけてハッチを開けると。胡座(あぐら)をかき、眠るように死んでいる一人の人間を見つけた。艇内は機器で横にもなれなかった。人間魚雷「回天」である。
敗戦直前の七月二十五日、訓練中に大水無瀬島の近くの海上から消息を絶った海軍予備少尉和田稔であった。捜索作業が続けられたが見つからず,戦争が終わり、基地隊も解散してしまったので、和田は行方不明のままだった。それが九月十七日の枕崎台風の猛烈な波により、海底に突っ込んでいた魚雷が浮きあがり、波に乗って長島へ流れ着いたのである。残留隊員の手により、和田の遺体は荼毘(だび)に付され、遺骨は直属上官上山春平中尉によって、沼津の実家に届けられた。
「回天」研究は、戦後の私の根底思想の一つであり、和田稔『わだつみの声消えることなく』(角川書店)の私の感想文が、静岡新聞社より読書感想文コンクール入賞作品として受賞した。(「Ⅲ 2」所収)
帰浜してから、光は四回訪れているが、徳山沖の大津島にある「開店記念館」へ訪問がまだ残っている。しかし、健康上実現の可能性は少ない。
二十六年十月十四日、私の初めて体験する大きな台風が、山口県を襲った。「ルース台風」である。
昭和二十八年まで占領軍により、台風には女性の名前がつけられていた。風のかみさんである。キャサリン・キティ・ジェーンなどがあった。台風は決まって夜やって来るのも不気味であった。
この夜、私は四帖半の部屋の硝子戸が吹き飛ばされないように、必死で抑えていた。雨戸はなかったから、激しい風雨が硝子窓に叩きつける。硝子でも破られたらおしまいである。幸い無事だったけれども、長男は腰をぬかして、這っていた。子供心にもこわかったのであろう。
工場の方にも被害があった。これが会社の命取りになったのであるが、枝条架が一基、木柱が折れるなどしてぺしゃんこに潰れてしまったのである。枝条架は三基あったから、残りの二基で命脈は保っていたが、会社を解散せざるを得なくなるのは時間の問題であった。
私も、母が胃を患って入院する事態となり、父より帰浜を促されていたので、十月一杯で退社することに会社と了解がついた。
( 第5部に続く )