雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮家の歴史 41 父の自伝史「『落葉松』第5部 Ⅱ-40 長姉の空襲死」

2015年09月18日 19時30分37秒 | 雨宮家の歴史
雨宮家の歴史 41 父の自伝史「『落葉松』第5部 Ⅱ-40 長姉の空襲死」

 長姉綾子は、谷島屋別荘のお庭内で撮った姉弟一同揃った写真を見る限り、昭和八、九年頃までは家にいたようである。二十才の時、東京で結婚するため家を離れた。長兄と同じく東京・湯島天神町の生まれである。

 私は戦後朝鮮で、父の手紙から「綾子のみ消息不明」と知った。その時は、まだ東京大空襲で亡くなったことはわからなかった。引き揚げてから、初めてそのことを知った。

 父は、戦争が終わると早速、東京の次弟の孝男叔父のところへ綾子の消息確認を頼んだ。 その返事が届いていたので、市役所で綾子の戸籍抄本の写しを取った。籍はまだ浜松に残っていた.

 十月三日、末弟照男と共に上京、芝白金三光町(現・港区白金台)の孝男宅へ泊まって、十月六日午後、本所警察署へ赴き、綾子の死亡通知者を受け取った。これを持って、浜松市へ戦災死亡届を出し,正式に戸籍から抹消された。

 「父中谷福男、母里子(長女)綾子。東京市本郷区湯島天神町壱丁目八拾八番地ニテ大正参年貳月貳拾貳日生レ、昭和弐拾年参月拾日午前貳時(推定)東京都本所区緑町四丁目拾八番地々先ニ於テ死亡。本所警察署長曾我友次報告、
拾月拾貳日受付 浜松市長 藤岡兵一。」

 これより先、西来院の住職に依頼しておいた戒名が十月二十五日に届いた。「帰元 綾雲妙彩信女 霊位」。和紙短冊に達筆に書かれてあった。十
一月十一日。疎開先の近くにある、西来院と同系の曹洞宗の宝住院で法要を営んだ。奇しくも宝住院には、次弟菊男の墓が建てられ、眠っていて、今年七回忌の法要を済ませたばかりである。

 三月十日未明に来襲した米軍B29は、約三百機。投下焼夷弾一万二千発、死者八万四千人、負傷者四万一千人(合計死傷者十二万五千人)、被災者百万人、被災家屋二十七万戸(「朝日新聞 平成十五年二月二十六日」「声」欄「東京大空襲」)。主に当時の深川・本所・墨田・荒川・向島・下谷・浅草と隅田川周辺の下町一帯が被爆した。

 長姉最後の場所と推定される本所区緑四丁目は、奇しくも『ガラスのうさぎ』の著者高木敏子さんと同じ所であった。高木さんの家はガラス工芸品を作る工場で、陸軍衛生材料本廠の指定工場となり、注射器や血沈管など衛生関係のガラス製品を作っていた。本所や深川などには、このような町工場が集中していた。このことを米軍は集中攻撃の理由としたが、ドーナツ状に周囲に焼夷弾をバラ撒いて一般住民の逃げ道を塞いだことは非難されるべきであろう。

 私は平成八年(1996年)、一人で慰霊の旅に出た。両国駅で降りて京葉道路を東進すると、南側に本所警察署がある。綾子の死亡証明書を出した所である。その玄関の傍に由来碑が建っている。大正十二年の関東大震災と、今次東京大空襲で殉職した警察官と,犠牲になった一般住民の御霊永く安からんことを祈って建立されたものであると記されている。

 更に東進すると緑町四丁目となる。十八番地は、工具店らしく小型トラックや鉄枠の置いてある住宅であった。ここが綾子の最後の地であったとは、当時どんな情況だったのだろう。高木さんの家の焼け跡から出て来たガラスのうさぎの置物。「おまえの目の玉は、どうしてどうして濡れてるの、それはね、それはね、かなしいものを見たからさ」。

 高木さんの家族をはじめ、多数の人々が力尽きて無惨にも火の犠牲になった場所にしばらく佇(たたず)んだ。

 ここから、タクシーで江戸東京博物館へ行き、昼食をとりながら見学した。一休みの後、国技館北側の横綱町公園へ行った。ここは、大正八年赤羽倉庫と合併するまで、陸軍被服本廠のあった所で(「第一部 Ⅰ 6 東京開成中学校」参照)、大正十二年九月一日、関東大震災が起きた時以来、空き地となっていた。そこへ雛民が集まり、持っていた荷物などに火が移って、三万八千余人が焼死した。

 今ここに慰霊堂・復興記念館が建てられている。平成十三年三月には、公園内に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」が建てられ「東京空襲犠牲者名簿」が、この中に納められた。綾子の名も名簿に記載された。末安らかに冥福を祈る次第である。

 長兄と長姉だけでなく、義兄二人も南の島で帰らぬ人となった。次姉の夫小泉作太郎は、一男一女をもつピアノ調律師だったが、海軍横須賀海兵団に召集され、サイパン島で玉砕した。 私の妻の長兄安藤一雄は、総領であったが陸軍に入隊、ミンダナオ島で終戦直前の二十年八月九日戦死の公報が入った。


 ( 雨宮智彦 補註「奇しくも、この掲載日と、「安保感レ法案」「戦争法案」の参議院本会議採決の日とが重なりました。過去の悲惨な歴史は、過去を反省しない醜悪な自公政治に警告を発しているように思います。」 )




雨宮日記 9月18日(金)の5 則子さんが買ってきた巨大シュークリーム

2015年09月18日 19時25分20秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月18日(金)の5 則子さんが買ってきた巨大シュークリーム

 甘い物は、できるだけ食べないのが「方針」ですが時には方針に違反します。

 糖分・炭水化物も減らしています。

 則子さんは、枚食事時、「ご飯はいらないの?」と夫を太らせて殺す方針のようです。

 「いりません」


雨宮日記 9月18日(金)の4 夕方、北にでていた積乱雲

2015年09月18日 19時22分56秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月18日(金)の4 夕方、北にでていた積乱雲

 夕方、上島四丁目のサークルKへ買い物で車をはしらせたら、北に見えた積乱雲。
 
 昨夜は、夜中、ひどい落雷でした。

 浜松市浜北区では落雷から火事になったとニュースで言ってました。

 

雨宮日記 9月18日(金)の3 今日の夕食シリーズ 今日は則子さんが創ってくれました

2015年09月18日 19時18分20秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月18日(金)の3 今日の夕食シリーズ 今日は則子さんが創ってくれました

 今日は食事を、仕事が休みの則子さんが作ってくれたので、ぼくは楽でした。ありがとうございます。

 食事は平和でなければ。

雨宮日記 9月18日(金)の2 ビデオ編集・原爆展感想集編集を進める

2015年09月18日 19時14分24秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月18日(金)の2 ビデオ編集・原爆展感想集編集を進める

 ラブ&ピースの撮影ビデオ編集、原爆展感想集編集をすすめました。

 行きたかった東富士海兵隊砲撃演習監視には行けませんでした。

  ☆
 
 写真は晴れた空の雲。ひまわりから撮影した地球の海と白い雲みたいで。

雨宮日記 9月18日(金)の1 まだ参議院本会議続いています

2015年09月18日 19時05分33秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月18日(金)の1 まだ参議院本会議続いています

 緊迫の本会議続いているのに、午後、「みなさまのNHK」は大相撲中啓。大相撲はEテレへ移せばいい。

 保守なりの緊迫感がなさすぎる。

 報道すべき国会でしょうが。

 おそらく夜中までかかるだろうと民放でも言ってます。

 「大洪水」とか「大地震」に匹敵する政治的大地震でしょう。