雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

本と映像の森 316 テレビ「デス・ノート」11回で完結

2015年09月15日 19時20分59秒 | 本と映像の森
本と映像の森 316 テレビ「デス・ノート」11回で完結

 「コミック版」のことを前に書きましたが、これは9月13日(日)に完結した「テレビ版」。

 後半の3回位を見たのですが、Lの後を継ぐニアとメロの別の人間を、1つの人間の多重人格と設定しちゃうし、コミックとはストーリーまで、まったく違ってしまいます。

 最終回の終わり方は主人公ライト(キラ)の敗北と●で終わるのですが、「人間を支配する神」願望に固執するライトは人格まで変わってしまった描き方で、違和感がありました。

 血まみれの時間、火事の時間伸ばしすぎ。

 ライトの主張する「犯罪が激減しているから僕は正義なのだ」というのは結果論ですね。「① 殺人行為 → ② 悪人が死ぬ → ③ 犯罪がヘル」

 つまり、ライトの行為 ①②は正義ではありません。

 疑問の一つ。ライトは何故、自分で「死に神の目」を持とうとしなかったのか?Lやニアの本名を、すぐに知ることができたろうし、そうすれば簡単にライトの勝ちだった。

 そうしなかった理由は簡単。ライトの勝ちで漫画はすぐ終わってしまうから。

雨宮日記 9月15日(火) 浜岡原発パンフ編集でした

2015年09月15日 19時13分46秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月15日(火) 浜岡原発パンフ編集でした

 第1次原稿の直し。まだまだ続きます。

 会場は、ガラス戸の前が緑の森で、涼しい風が吹いていて極めて快適です。

 会場には大きなイチョウの木があって、いま、黄色いギンナンがいっぱい落ちています。

 ギンナンを拾いに来る人がいるそうです。

雨宮家の歴史40 父の自伝史「『落葉松』第5部 Ⅱ-39 長兄の戦時死亡宣告」

2015年09月15日 19時08分08秒 | 雨宮日誌
雨宮家の歴史40 父の自伝史「『落葉松』第5部 Ⅱ 39 長兄の戦時死亡宣告」


 (二十二)長男戦死長女爆死我は罹災
     尚神仏を信ぜよと言うか
  ( 昭和四十八年 )

 その日は、街路樹のニセアカシアの白い花から、甘い匂いが風に乗って店の中にまで漂って来る初夏の明るい日であった。遠縁の年配の女性が訪ねて来て、父にいわゆる新興宗教への入信を一生懸命勧めていた。二、三時間は粘っていただろうか。それに対する答えがこの歌である。長男も長女も、私の、もの心着いた頃には家にはおらず、その動静は戦後亡くなったということを知ってからである。

 長男英一に召集令状が来たのは、昭和十九年八月で、その時三十三才、三才と一才の男の子の父親であった。埼玉県与野(浦和と大宮の間で今はさいたま市になっている)の病院の介護士で、そこの看護婦の初野美(よし)と結婚していた。美さんの話では「浜松だというから東京の浜松町かと思っていた」と言う。

 英一は強度の近眼で、丙種の第二国民兵だった。四十五才まで召集される時代だったから、三十三才は若い方かも知れない。衛生兵で、豊橋陸軍病院へ入隊した。が、ここは集合地で、軍装を整えると北満へ派遣された。戦後「あなたのお兄さんの渡満の準備の服装などを手伝ってあげた」と言う、三方原在住の豊橋陸軍病院勤務だった人が訪ねて来たことがある。且ては精鋭を誇った関東軍も、殆どが南方戦線へ転出されて、その補充であった。

 「二十一年九月三十日 午後未知ノ人来リ英一ハ新京ノ病院ニ栄養失調デ入院中ノ事、ソシテ余リ軽クハナイトノ事ナリ」(父の日記より)

 私はその日の午前九時九分発の下り列車で、朝日塩業へ赴任のため出発したばかりであった。もしも私がその場におれば、もっと良く事情を聞けたかも知れないが、その事を知ったのは、光から帰ってからであった。

 北満にいる筈だった英一が、なぜ新京の病院に入院していたのであろうか。

 関東軍は、二十五万人の在満日本人の根こそぎ動員で、二十四ヶ師団と員数は揃えたが、老兵が多く銃剣なしの丸腰兵隊も十万人に及んだ。

 八月九日、ソ連軍の進入と共に、関東軍司令部は新京より南東方の通化に移転を決めた。このため奥地の開拓地や一般の居留民は置き去りになって、ソ連軍の暴行や略奪の犠牲となった。英一の所属する部隊も、南下の途中新京駅に到着した。英一は飲料水の補給のため、水筒を持って列車から出たが、殺到する一般市民を避けるため、列車はすぐに出発してしまった。英一が帰って来た時は、もう列車の姿は見えなかった。

 こうして英一の新京における放浪が始まった。ソ連軍は一般兵士をシベリアへ送っているが、英一はそれを免れているところを見ると、どこかの病院へもぐり込んでいたのかも知れない。

 二十年の十一月にソ連軍は引き揚げて行き、中国共産党の八路軍が入ったが、一週間程で替わりに国府軍が入って来た。

 年が替わり、二十一年の初頭以来、長春(新京)は国共内戦により両者が入れ替わっていたが、五月二十四日、米式装備のビルマ歴戦の精鋭部隊といわれた正規の国府軍が入城した。

 満州の政治情勢も安定したかに見えたこの時期に、日本人の故国への引き揚げが、故廬島(ころとう)経由で七月から始まった。この第一回引き揚げは十月まで続き、長春の日本人二十余万人は六千人にまで減った。全満では百五十五万人のうち、65%の百万人が帰国した。二十一年九月三十日に英一の消息をもたらしてくれた人は、実にこの時の引揚者だったものと思われる。英一は動けないほどの重体だったのだろうか。

 二十二年に入り、第二次送還を始め、長春の日本人は八百人程になった。それも二十三年夏頃までには、三分の一か半数は亡くなった。

 年が経って、日本政府は昭和三十四年「未帰還者に関する特別措置法」を制定し、生死が判別できない者に対し「戦時死亡宣告」を請求する権限を厚生大臣に与えた。実施は都道府県知事に委任した。実際に死亡した者ならいいが、これには多くの日本人残留孤児が含まれていた。

 英一もこれにより、昭和三十五年十月六日「戦時死亡宣告」が確定し、昭和二十三年八月十二日死亡と見なされると、戸籍から抹消された。国はこの死亡の日を、どういう根拠があって定めたのか分らないが、栄養失調で重態だと聞いた日から二年も生きていたことになる。

 二十二年十月、八路軍は日本人の強制送還が済むのを待っていたかのように攻勢を始め、長春を包囲し、吉林の豊満ダムの長春への送電線を切断した。長春は、電気・ガス・水道が止まり、二十万の国民党軍と一般市民は閉じ込められて陸の孤島となってしまった。長春市内では。あちこちに餓死者が出始めた。

 長春市内の国府軍と、包囲する八路軍の間に、約一キロメートルの幅でドーナツ状の真空地帯が出来ていた。これを「チャーズ」と呼んでいた。「チャーズ」とは、孔子の時代から軍隊が守る重要な関所のことである。

 国府軍の開門は割合自由で、簡単に出られたが、一度出ると再び入ることは出来なかった。反対に八路軍の開門は厳重で、殆ど出ることは不可能であった。このため、この真空地帯に十数万の市民がひしめきあい、食糧が無いため、三十万人ほどの人が命を落し、この世の地獄の様相を呈していた。

 「チャーズ」については、①遠藤誉、②武田英克、③同氏の私家版の三冊があるが、両氏とも、奇蹟的にチャーズを脱出出来た人である。その「チャーズ」に入った日が、③で八月十二日となっている。(因に盗作ではと裁判沙汰になった山崎豊子の『大地の子』では八月十二日に設定している。)英一の死亡推定日時が八月十二日であることは、因縁を感ぜざるにはおれない。

 長春はこのあと、十月十九日陥落し、中華人民共和国が二十四年十月一日成立した。

 なお、親戚の鈴木林太郎氏(「第二部 15」参照)も一年早く、昭和三十五年三月「戦時死亡宣告」が出されている。