雨宮家の歴史39 父の自伝史「『落葉松』第5部 Ⅱ-38 母の死」
第五部 肉親を送る
Ⅱ 38 母の死
私が朝日塩業を退職して浜松へ帰ったのは、前述の通り母の病気のためであった。塩業は結局、この後解散する運命にあったから、時期的にはよかった。
母は既に遠州病院に入院していた。院長はのちに東田町に小児科医院を開く詫間(たくま)先生であった。母は胃を患っていたが、胃は切らずに薬で散らす治療であった。その代わり、その度に輸血が必要で、末弟や静大教育学部の学生のアルバイトで賄っていた。大晦日には退院して、昭和三十九年まで保っていたから、効果はあったのだろう。
(二十) 癌とは知らずそそくさと病院へ
いで生きて遂に帰らぬ老妻あわれ
( 昭和四十年 )
その母が再び発病したのは昭和三十九年の六月九日であった(後述するが三十三年から松城町に移っていた)。近所の医師は「心配ない」の一言であったが、あまりあてにならないので、新町に住んでいた渡辺医師に来診を頼んだ。
新町にいた時、私はよく熱を出して寝込んだが、先生はいやな顔もせず、夕方外来が済んでから、医療道具の入った鞄を下げて、下駄の音をさせて気さくに立ち寄ってくれた。浜松でも指折りの名医で、待合室(診察室に続く廊下だったが)は、いつも混み合っていた。先生は、現在も健在のようで、平成十四年度の浜松の高額納税者にその名を連らねている。
六月十七日、レントゲンを撮るため、母は父とタクシーで渡辺医院へ向った。一週間後往診に来た先生は、母に手術を勧めた。この時、病名は分っていたと思うが、母には知らせなかったと思う。
「幽門閉塞」で胃と十二指腸を結ぶところが腫瘍で塞がってしまい、食物が通らなかったのである。それでも、私が光から帰って来た時から、十年近くは何ともなかったのだから、不思議なものである。日本人の通例で、塩気の多い漬物を好んで食べていたからかも知れない。
私は一週間毎に薬を取りにいっていた。先生は、盛んに手術を勧めるが,母は頑固に拒否していた。それはそうだろう。誰もお腹など切られたくない。私も前立腺ガンの時、切ると言われたら断ろうと思っていた(「49 ガンの発見」)
母は元気さを見せるためか、起きている方が多くなった。しかし、遂に躰がついて行かれず、観念したか梅雨の明けかかった七月二十二日、手術の決心をした。母にとっては死ぬ覚悟だった。
月末の七月二十九日午前十時、医師会中央病院(今の県西部医療センター)へ入院した。再発以来五十日目であった。
(二十一) 裏山に木を切る音し病室に
妻は額に手をあてており
( 昭和三十九年 )
その頃は、まだ病院の周りは自然のままであった。病院には、日中、父、私の妻、妹、弟夫婦たちと、誰かが交代で詰めていた。私は店番と配達に追われて、なかなか見舞いに行けず、やっと入院して十五日目の八月十二日午後行った。母は「わたしは畳の上で死にたい」とつぶやいた。私に返す言葉はなかった。
手術は美甘外科医の執刀で八月二十一日に行われた。胃の三分の二ぐらい取ったという。手術後は一進一退で、私が行った時、妻の押す車椅子で院内を廻っていた。医者から、いつまでも寝ていてはいけない、起きて動くように言われたという。しかし、手術は七十二才の母にとっては,心臓に多大な負担を与えたようである。
ちょうど、私の妻が付き添っていた九月七日の昼頃、母は突然「アッ」と虚空をつかむように手をあげて動かなくなってしまった。妻はとっさにベッドの枕元のブザーを押した。医局員がとんで来て、母の上に馬乗りになって心臓マッサージを始めた。しかし、母の呼吸は回復しなかった。
十二時四十分「危篤」の電話が入り、すぐさま父たちが病院へかけつけたが、間に合わなかった・臨終に立ち会ったのは私の妻一人であった。その妻が三十年後の平成七年、その同じ病院の副院長の金子医師に痴呆の診断を受ける身になるとは、夢にも思わざることであった。
斎藤茂吉の第一歌集『赤光(しやくこう)』(大正二年刊)に「死にたまふ母」五九首の一連作がある。私の父の歌とは比較にならないが、私の感動した二首を記して亡き母への餞(はなむ)けとしたい。
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にいゐて
足乳根の母は死にたまふなり
わが母を焼かねばならぬ火を待てり
天つ空には見るものもなし
九月九日、自宅で葬儀が行われ、初七日の一四日、西来院へ納骨された。二年前の三七年には祖母まつが八十九才の長寿で永眠している。
昭和三九年という年は、経済の高度成長期に当たり、店も順調に伸びて、今まで苦労した母を旅行にでも連れて行ってと思っていた矢先であった。十月十日に東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が大阪まで開通、東名高速道路建設など日本中が上向きの時代であった。病院への支払い代は八万七千余円であった。その年の私の市民税申告所得額は三十五万円だった。
(智彦注釈 「第5部 肉親を送る」という内容の必要から昭和39年(1964年)という年に叙述が飛んでいる。戦後すぐの苦労は「第6部 戦後の始動」で語られる。「第7部 (節三さんの妻・光子さんの)老人性痴呆」と「第8部 (節三さんの)前立腺ガン」で、『落葉松』は一応完結します。全53章です。
その後、父が毎年、浜松市の『市民文芸』に投稿し、入選が続いた「Ⅲ 後編 文藝評論」に続きます。)
第五部 肉親を送る
Ⅱ 38 母の死
私が朝日塩業を退職して浜松へ帰ったのは、前述の通り母の病気のためであった。塩業は結局、この後解散する運命にあったから、時期的にはよかった。
母は既に遠州病院に入院していた。院長はのちに東田町に小児科医院を開く詫間(たくま)先生であった。母は胃を患っていたが、胃は切らずに薬で散らす治療であった。その代わり、その度に輸血が必要で、末弟や静大教育学部の学生のアルバイトで賄っていた。大晦日には退院して、昭和三十九年まで保っていたから、効果はあったのだろう。
(二十) 癌とは知らずそそくさと病院へ
いで生きて遂に帰らぬ老妻あわれ
( 昭和四十年 )
その母が再び発病したのは昭和三十九年の六月九日であった(後述するが三十三年から松城町に移っていた)。近所の医師は「心配ない」の一言であったが、あまりあてにならないので、新町に住んでいた渡辺医師に来診を頼んだ。
新町にいた時、私はよく熱を出して寝込んだが、先生はいやな顔もせず、夕方外来が済んでから、医療道具の入った鞄を下げて、下駄の音をさせて気さくに立ち寄ってくれた。浜松でも指折りの名医で、待合室(診察室に続く廊下だったが)は、いつも混み合っていた。先生は、現在も健在のようで、平成十四年度の浜松の高額納税者にその名を連らねている。
六月十七日、レントゲンを撮るため、母は父とタクシーで渡辺医院へ向った。一週間後往診に来た先生は、母に手術を勧めた。この時、病名は分っていたと思うが、母には知らせなかったと思う。
「幽門閉塞」で胃と十二指腸を結ぶところが腫瘍で塞がってしまい、食物が通らなかったのである。それでも、私が光から帰って来た時から、十年近くは何ともなかったのだから、不思議なものである。日本人の通例で、塩気の多い漬物を好んで食べていたからかも知れない。
私は一週間毎に薬を取りにいっていた。先生は、盛んに手術を勧めるが,母は頑固に拒否していた。それはそうだろう。誰もお腹など切られたくない。私も前立腺ガンの時、切ると言われたら断ろうと思っていた(「49 ガンの発見」)
母は元気さを見せるためか、起きている方が多くなった。しかし、遂に躰がついて行かれず、観念したか梅雨の明けかかった七月二十二日、手術の決心をした。母にとっては死ぬ覚悟だった。
月末の七月二十九日午前十時、医師会中央病院(今の県西部医療センター)へ入院した。再発以来五十日目であった。
(二十一) 裏山に木を切る音し病室に
妻は額に手をあてており
( 昭和三十九年 )
その頃は、まだ病院の周りは自然のままであった。病院には、日中、父、私の妻、妹、弟夫婦たちと、誰かが交代で詰めていた。私は店番と配達に追われて、なかなか見舞いに行けず、やっと入院して十五日目の八月十二日午後行った。母は「わたしは畳の上で死にたい」とつぶやいた。私に返す言葉はなかった。
手術は美甘外科医の執刀で八月二十一日に行われた。胃の三分の二ぐらい取ったという。手術後は一進一退で、私が行った時、妻の押す車椅子で院内を廻っていた。医者から、いつまでも寝ていてはいけない、起きて動くように言われたという。しかし、手術は七十二才の母にとっては,心臓に多大な負担を与えたようである。
ちょうど、私の妻が付き添っていた九月七日の昼頃、母は突然「アッ」と虚空をつかむように手をあげて動かなくなってしまった。妻はとっさにベッドの枕元のブザーを押した。医局員がとんで来て、母の上に馬乗りになって心臓マッサージを始めた。しかし、母の呼吸は回復しなかった。
十二時四十分「危篤」の電話が入り、すぐさま父たちが病院へかけつけたが、間に合わなかった・臨終に立ち会ったのは私の妻一人であった。その妻が三十年後の平成七年、その同じ病院の副院長の金子医師に痴呆の診断を受ける身になるとは、夢にも思わざることであった。
斎藤茂吉の第一歌集『赤光(しやくこう)』(大正二年刊)に「死にたまふ母」五九首の一連作がある。私の父の歌とは比較にならないが、私の感動した二首を記して亡き母への餞(はなむ)けとしたい。
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にいゐて
足乳根の母は死にたまふなり
わが母を焼かねばならぬ火を待てり
天つ空には見るものもなし
九月九日、自宅で葬儀が行われ、初七日の一四日、西来院へ納骨された。二年前の三七年には祖母まつが八十九才の長寿で永眠している。
昭和三九年という年は、経済の高度成長期に当たり、店も順調に伸びて、今まで苦労した母を旅行にでも連れて行ってと思っていた矢先であった。十月十日に東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が大阪まで開通、東名高速道路建設など日本中が上向きの時代であった。病院への支払い代は八万七千余円であった。その年の私の市民税申告所得額は三十五万円だった。
(智彦注釈 「第5部 肉親を送る」という内容の必要から昭和39年(1964年)という年に叙述が飛んでいる。戦後すぐの苦労は「第6部 戦後の始動」で語られる。「第7部 (節三さんの妻・光子さんの)老人性痴呆」と「第8部 (節三さんの)前立腺ガン」で、『落葉松』は一応完結します。全53章です。
その後、父が毎年、浜松市の『市民文芸』に投稿し、入選が続いた「Ⅲ 後編 文藝評論」に続きます。)