雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮家の歴史39 父の自伝史「『落葉松』第5部 Ⅱ-38 母の死」

2015年09月12日 22時24分52秒 | 雨宮日誌
雨宮家の歴史39 父の自伝史「『落葉松』第5部 Ⅱ-38 母の死」

  第五部 肉親を送る

Ⅱ 38 母の死

 私が朝日塩業を退職して浜松へ帰ったのは、前述の通り母の病気のためであった。塩業は結局、この後解散する運命にあったから、時期的にはよかった。

 母は既に遠州病院に入院していた。院長はのちに東田町に小児科医院を開く詫間(たくま)先生であった。母は胃を患っていたが、胃は切らずに薬で散らす治療であった。その代わり、その度に輸血が必要で、末弟や静大教育学部の学生のアルバイトで賄っていた。大晦日には退院して、昭和三十九年まで保っていたから、効果はあったのだろう。

(二十) 癌とは知らずそそくさと病院へ
      いで生きて遂に帰らぬ老妻あわれ
( 昭和四十年 )

 その母が再び発病したのは昭和三十九年の六月九日であった(後述するが三十三年から松城町に移っていた)。近所の医師は「心配ない」の一言であったが、あまりあてにならないので、新町に住んでいた渡辺医師に来診を頼んだ。

 新町にいた時、私はよく熱を出して寝込んだが、先生はいやな顔もせず、夕方外来が済んでから、医療道具の入った鞄を下げて、下駄の音をさせて気さくに立ち寄ってくれた。浜松でも指折りの名医で、待合室(診察室に続く廊下だったが)は、いつも混み合っていた。先生は、現在も健在のようで、平成十四年度の浜松の高額納税者にその名を連らねている。

 六月十七日、レントゲンを撮るため、母は父とタクシーで渡辺医院へ向った。一週間後往診に来た先生は、母に手術を勧めた。この時、病名は分っていたと思うが、母には知らせなかったと思う。

 「幽門閉塞」で胃と十二指腸を結ぶところが腫瘍で塞がってしまい、食物が通らなかったのである。それでも、私が光から帰って来た時から、十年近くは何ともなかったのだから、不思議なものである。日本人の通例で、塩気の多い漬物を好んで食べていたからかも知れない。

 私は一週間毎に薬を取りにいっていた。先生は、盛んに手術を勧めるが,母は頑固に拒否していた。それはそうだろう。誰もお腹など切られたくない。私も前立腺ガンの時、切ると言われたら断ろうと思っていた(「49 ガンの発見」)

 母は元気さを見せるためか、起きている方が多くなった。しかし、遂に躰がついて行かれず、観念したか梅雨の明けかかった七月二十二日、手術の決心をした。母にとっては死ぬ覚悟だった。

 月末の七月二十九日午前十時、医師会中央病院(今の県西部医療センター)へ入院した。再発以来五十日目であった。

(二十一) 裏山に木を切る音し病室に
         妻は額に手をあてており
( 昭和三十九年 )

 その頃は、まだ病院の周りは自然のままであった。病院には、日中、父、私の妻、妹、弟夫婦たちと、誰かが交代で詰めていた。私は店番と配達に追われて、なかなか見舞いに行けず、やっと入院して十五日目の八月十二日午後行った。母は「わたしは畳の上で死にたい」とつぶやいた。私に返す言葉はなかった。

 手術は美甘外科医の執刀で八月二十一日に行われた。胃の三分の二ぐらい取ったという。手術後は一進一退で、私が行った時、妻の押す車椅子で院内を廻っていた。医者から、いつまでも寝ていてはいけない、起きて動くように言われたという。しかし、手術は七十二才の母にとっては,心臓に多大な負担を与えたようである。

 ちょうど、私の妻が付き添っていた九月七日の昼頃、母は突然「アッ」と虚空をつかむように手をあげて動かなくなってしまった。妻はとっさにベッドの枕元のブザーを押した。医局員がとんで来て、母の上に馬乗りになって心臓マッサージを始めた。しかし、母の呼吸は回復しなかった。

 十二時四十分「危篤」の電話が入り、すぐさま父たちが病院へかけつけたが、間に合わなかった・臨終に立ち会ったのは私の妻一人であった。その妻が三十年後の平成七年、その同じ病院の副院長の金子医師に痴呆の診断を受ける身になるとは、夢にも思わざることであった。

 斎藤茂吉の第一歌集『赤光(しやくこう)』(大正二年刊)に「死にたまふ母」五九首の一連作がある。私の父の歌とは比較にならないが、私の感動した二首を記して亡き母への餞(はなむ)けとしたい。

 のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にいゐて
       足乳根の母は死にたまふなり

 わが母を焼かねばならぬ火を待てり
天つ空には見るものもなし

 九月九日、自宅で葬儀が行われ、初七日の一四日、西来院へ納骨された。二年前の三七年には祖母まつが八十九才の長寿で永眠している。

 昭和三九年という年は、経済の高度成長期に当たり、店も順調に伸びて、今まで苦労した母を旅行にでも連れて行ってと思っていた矢先であった。十月十日に東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が大阪まで開通、東名高速道路建設など日本中が上向きの時代であった。病院への支払い代は八万七千余円であった。その年の私の市民税申告所得額は三十五万円だった。

 (智彦注釈 「第5部 肉親を送る」という内容の必要から昭和39年(1964年)という年に叙述が飛んでいる。戦後すぐの苦労は「第6部 戦後の始動」で語られる。「第7部 (節三さんの妻・光子さんの)老人性痴呆」と「第8部 (節三さんの)前立腺ガン」で、『落葉松』は一応完結します。全53章です。
 その後、父が毎年、浜松市の『市民文芸』に投稿し、入選が続いた「Ⅲ 後編 文藝評論」に続きます。)



雨宮日記 9月12日(土)の2 夜は次の朝の準備

2015年09月12日 22時12分50秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月12日(土)の2 夜は次の朝の準備

 夜、家へ帰ってきて台所に行ったら、炊飯器を次女が洗ってあったので、ボクが朝のためにお米2合を洗いました。水を入れて洗っているところに次女が来て、「お父さん、2合でいいよ」と言うので「2合だよ。すぐ炊いていい?」と言うと「予約で朝でいいよ」と。

 ぼくが「おじいちゃんのおかゆを作らないといけないのだけど」と言うと、冷蔵庫の中の残り飯を出してくれたので、その半分くらいで、ボクがオカユを作りました。

 翌朝の味噌汁は、お父さん1人だけなので手抜きして、インスタント味噌汁を準備しておきました。

 

雨宮日記 9月12日(土) 今日は午後から1日中、ビデオ編集

2015年09月12日 21時53分33秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月12日(土) 今日は午後から1日中、ビデオ編集

 今日は京夫妻宅で、午後から1日中ビデオ編集に没頭しました。

 午後は被爆者証言の第3巻です。4人目・5人目で初めてお二人とも女性です。しかも84才の同年令で、被爆当時は14才。2人同席して聞いたので、当時、広島の同じ近所に住んでいたことがわかりました。

 今でいうと中学2年生。中学1年生の年令が学校の授業で、14才の4月から工場に「勤労動員」で働きに行ったそうです。Sさんは飛行機の部品を作っていたそうです。

 しかも恐るべき事に、工場で働いているのに「給料」など1円も、いや一銭もですかでなかったそうです。日本全体が超ブラック企業、暗黒社会だったんですね。

 ボクがあらかじめ撮影テープを見て、「00分05秒から01分27秒まで」という挿入するデータを作っていきました。それを京くんに編集してもらうだけなので、1時半から4時前までに最初の荒編集を終えました。

 あとは補正するのと、場面転換の仕上げ、タイトルなどや地名や説明文字を入れる作業です。

 9月中には終えます。そうしたら、新たに第4回の撮影です。

  ☆

 父の夕食のために、いったん帰って、父の夕食の準備をして、また5時ごろ、京夫妻宅へ。

 今度は、9月5日の第3回「ラブ&ミュージック」の荒編集。冒頭の導入部(タイトルの前に入る印象的な映像、いわゆる見る人の心をとらえる「つかみ」です)には、1回目と2回目に使ったパーカッションのパレードではなく、「パフォーマンス」でぼくたちが印象に残った3つの演奏を使いました。

 平和の運動には、こういう「文化」があるけど「安倍」「戦争推進」の側には何の文化性もないと思います。「殺し屋賛美」は文化になりません。「反文化」です。

 最初に沖縄の「エイサー」(磐田の人です)、2番目に「純ギター演奏」、3番目に「よさこい」を使いました。

 今日は午後8時頃に終了、「パート 1 準備」の途中まで数分を編集。

 映像に幼い子供と犬の映像をふんだんに使えました。ビデオ撮影の教訓の1つ、やっぱり「子どもと動物の映像は最強」ですね。
 
 帰りがけ、京くんと「ビデオ撮影に適当な三脚とその値段」について論議しました。