雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 9月21日(月) 浜岡原発と避難の原稿資料を探す

2015年09月21日 15時36分49秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月21日(月) 浜岡原発と避難の原稿資料を探す

 ネットと文献で浜岡原発と避難の文献を探す。

 やはり、まず国と静岡県・そして浜松市の基本文献を骨格にすることにする。

 それから避難に必要な交通や南海トラフ巨大地震による道路寸断の状況。

 さらに浴びた放射能検査。

雨宮家の歴史 42「「父の自伝『落葉松』 第6部 Ⅱ-41 バラック住宅

2015年09月21日 15時17分15秒 | 雨宮家の歴史
宮家の歴史 42「「父の自伝『落葉松』 第6部 Ⅱ-41 バラック住宅

 第六部 戦後の始動

Ⅱ 41 バラック住宅

 昭和二十年六月十八日の浜松空襲で、新町の借家を焼失した。それを見越して浜名郡北浜村高畑(たかばたけ)(現浜松市浜北区高畑)の親戚の離れの六帖間一室の建物を借りて、祖母を先に疎開させておいたが、家族一同が揃って、ここで生活を始めることになった。

 遠州鉄道の西鹿島線が通じていたから、利便は良かったが、きぶね駅(現在の浜北駅)から三十分は歩かねばならなかった。最も当時は、歩くことが当り前の時代であった。

 新町の大家は、隣のK商店で小巾織物の卸しをやっていた。Kさんは焼けると、市の東部の下石田町(現在の東名高速道路浜松インターの近く)へ疎開した。この町内にはK姓が多いから、ここの出身なのであろう。

 父は焼けたあと、すぐ七月八日には、Kさんを自転車で訪問して罹災後の尽きぬ話をし、南瓜二個を頂いて帰った。自転車は、焼けた時弟が押して持ち帰った貴重なものであった。ゴムの無い時だったので、タイヤはすり減って、いつもパンクしていた。戦争が終わる八月十五日までに、更に八月三日、十日と計三回訪問している。

 下石田へは高畑から笠井街道を一直線に南下すればいいが、約一里はある。自転車で三十分以上はかかったであろう。パンクもあるし、空襲警報が出れば動けなくなる。それを見越しての訪問は、店子と大家との関係を維持させるためであった。世間話の中に、そのことを意識的に入れていたことは充分に考えられる。開店したのは昭和十三年であるから、七年間続いていた。両者の関係は大家と店子以上のものがあった。二人とも誠実な人であった。

 K氏の次男が、東京の大学受験の折り、頼まれて父がそこの教授に話をつけておいてやった事もある。K氏としても頼まれれば、断り切れないものがあったと思う。K氏も借家を建てることは不可能なので、借地を頼んでいた。その土地は、戦前とは反対側の、名古屋の松坂屋の所有している土地で、K氏が管理していた。

 敗戦直前の八月十三日、十四日は、舞阪町弁天島の自給製塩事業の作業に、北浜村の者一同で出かけ、その帰りの汽車の中で偶然、K氏に出会った。K氏は下石田より弁天に移っていた。 戦後は、世相の混乱でしばらく行けなかったが、十月十九日、弁天島にK氏を訪ねたが不在だった。帰途浜松駅で弁手島に帰るK氏に偶然出会い、重ねて借地の件を申し出たところ、あっさり承諾してくれた。もう仕方ないと思ったのかも知れない。月末の十月二十九日に再度弁天島へ出かけ、最終的に借地の件について相談して決定した。

 父が必死になって奔走したのは、疎開生活を早く切り上げて、本屋の仕事を再開させるためであった。僅かばかりの預金の食いつぶしは訳はなかったからである。六月には月三百円代だった家計費が、年末には二千円代になった。食費がその半分を占め、配給分は僅か三ー四%で、残りは買出し品であった。周囲は農家が多かったから、野菜類は割合手に入り易かった。

 参考に九月九日のわが家の食事のメニューを記載しておく。
 「(ご飯)、大豆、さつま芋、じゃが芋に配給米の混合色食。お菜は(朝)蜆汁。(昼)鯉の油煮(缶詰ー配給品)と茄子の煮付。(夜)すいとん(うどん粉、豆粕粉の団子南瓜、じゃが芋入り)」

 十一月に入り、早速地所の整理にでかけて地均しをし、奥の方には畑を作る用意もした。新町の町内会長にも挨拶に赴いた。十二月初め、建築許可申請書に捺印を貰うため、再びK氏を訪れた。住宅は、戦災用に復興住宅としてバラック建築の二千八百円分を年明け早々に富士産業に申し込んだ。商売用の本や家具などは、天竜の奥の犬居に疎開してあった。犬居が家とどんな関係だったのか、不覚にも知らない。

 二月末のある日、新町の町内会長から「バラック材料が配給されるから、至急来浜せられたい」と伝言があった。電話のない時代だったから、わざわざ使い走りが来た。早速出かけたが、結局材料が着いたのは三月二日であった。建築は他の大工に頼まねばならなかったが、バラックだけあって出来るのは早かった。

 四月二十二日には屋根葺をした。屋根はルーフィングといって渋紙にコールタールを塗った様なものであった。

 毎日、父や弟は金槌や釘を持って補修作業に出かけた。横の羽目板に「古本・貸本・文具」とペンキで書いたポスターを貼った。私が五月一日早朝に引揚げて来て、焼跡に建っているバラック住宅を見たのは、このような時であった。

 焼けた二十年六月から二十一年三月までの十ヶ月の疎開生活費は、総計一万四千円弱であった。これにバラックの住宅代、引越し代などで、預金の一万七千円はきれいに無くなってしまった者と思う。