雨宮家の歴史 43「「父の自伝『落葉松』 第6部 Ⅱ-42 林泉書房の再開・移転と長女誕生
店の再開といっても、バラックに店舗部分は付いていないから、最初は道路に面している窓側に棚を取りつけて、雑誌や本を並べた。しかし、雨が降ればお手上げで、開店休業である。晴耕雨読ならぬ晴開雨閉であった、寺島の方に疎開していた三省堂書店も、玄関を開けると、上がり框の室の畳の上に雑誌が並べてあった。
いつまでも天候相手の商売では、お手上げになってしまうので、六月に入りバラック住宅を買った東洋産業に、店舗増築の見積りを頼んだ。一坪か一坪半で、一八五〇円であった。一ヶ月の生活費に相当する。それも封鎖預金で無く、現金を要求してきた。資金の目当てはなかったので再考を約した。
店舗増築費用の目途に暗中模索で考えあぐねている時、思わぬところに救世主が現われた。疎開先の高畑の山田さんの当主の寿(すすむ)さんであっ
た。六月十二日、高畑を訪れ相談したところ、ポンと二千円貸してくれる話が決まった。ある所にはあるものである。「難問解決・曙光を見ゆ、誠に喜悦に堪えず感謝々々」と日記に見える。
増築は、月末の六月二十六日から二十九日迄かかり完成した。大工は浅田町に間借りしていた中谷市平さんで、大平(おいだいら)の関係かも知れない。六月三十日から開店し、客足は良かったが、英和辞典が一冊盗まれた。新規開店の店を狙っている常習犯がいたようである。
私は十月一日から山口県光市の朝日塩業に勤務することになるが(「第四部」参照)、それまでの間、八月十四日から船越町の川本染工場へパートで通った。染色は専門であったが、この工場は浴衣の注染工場であった。染色の技術がすぐ出来る訳はなく、染めた浴衣の糊を、水で洗い流して落とす作業で重労働であった。末弟も河合楽器に就職し、皆それぞれ本来の働き場所を得て、戦後の生活も徐々に本格的に動き始めた。
(二十三)借地して二〇年苦しみようやくに
二十四坪の地主となりぬ
( 昭和三四年 )
私が光市から帰ったあとの昭和三〇年頃から、借地についての話し合いが、家主のKさんと行われる様になった。借地料はKさんが受け取らないので供託していたが、地主の松坂屋とKさんと話がついたか、結局百五十万円の移転料で借地を明け渡すことになった。
早速、現在も浜松市役所の南側で営業している鴻の池不動産を仲介して、当時の動物園バス停前(現在は美術館前)の二十四坪の土地を購入することができた。(二十三)の歌はその時のものである。この土地は、戦後の都市計画で新しく出来た市役所から舘山寺行のバスが通る大通りで、まだ舗装されていなかった。私たちが移ってから、たしか自衛隊が舗装作業をしたと思う。
この土地は、紺屋町一二二番地の三と、高町六四番地の一〇の換地で、都市計画新坪の松城町六四番地の一〇として売主が所有していた。高町へ抜ける細い坂道に沿って三角地だったので、家居の設計には、ちょっと苦労した。
土地代に六十万円、家居建築に六十万円、計百二十万円かかった。残りの三十万円は、本の仕入や雑費に消えたが、三十年後、この土地が百倍の値段になるとは、夢にも思わないことであった。
この松城町の家で、昭和三十四年十一月二十五日、長女のいづみが生まれた。これでわが家は二男一女となった。
戦後は新刊書も扱い始めた。最初は駅南に新刊雑誌の卸店があったので、それを利用していたが、運ぶのが大変だった。まだ自転車の時代だったから、一度では済まず、二回も三回も運ぶ時もあった。支店を追分町に開いてからは、あの六間道路の坂も上がらねばならなかった。松城町も市役所の横の坂を上がることになった。
仕事量などを考えて、直接取次店からの仕入れを考えねばならなくなった。本の流通ルートは、出版社ー取次店(問屋)ー書店であるが、二大取次のニッパン(日販)とトーハン(東販)が全体の七、八割を、残りを二次取次店、三次取次店が占めていた。いきなり大取次は無理なので、二次取次の中から、本社が九段下にあっった太洋社を選んだ。大手の運送会社が、毎朝店頭まで配達してくれるから楽であった。最初は雑誌だけであったが、文庫の長期委託や、新刊書籍も入るようになってきた。
しかし、ここに困った問題が一つ起きてきた。得意先は静岡大学工学部・教育学部・各高等学校・工業試験場に浜松医科大学が新設されて、図書館への納入に成功した。工学部などは専門雑誌が多くて、大洋社では扱っていないものが多かった。それらは一次取次から仕入れて太洋社が回していたが、入ったり入らなかったりして、当店としても信用に関わる問題なので、遂に意を決して、取次を東販(トーハン)に切替えたのは昭和四十四年八月であった。
当時、売り上げの八割はこれら学校廻りの外売りで占めた。店売りは二割に過ぎなかった。
お世辞の一つも言えぬ私が、このあと昭和六十二年まで三十年間も、よく商売が出来たと思うが、その私が本屋をやめるかどうか、決断をせねばならない時がきた。
( 「Ⅱ 43 閉店」へ続く )
※雨宮智彦補註 「30年間」を1項目では、あまりに飛びすぎるので、「Ⅱ 43 閉店」へ続く前に、「落葉松 補遺」で少し補います。
店の再開といっても、バラックに店舗部分は付いていないから、最初は道路に面している窓側に棚を取りつけて、雑誌や本を並べた。しかし、雨が降ればお手上げで、開店休業である。晴耕雨読ならぬ晴開雨閉であった、寺島の方に疎開していた三省堂書店も、玄関を開けると、上がり框の室の畳の上に雑誌が並べてあった。
いつまでも天候相手の商売では、お手上げになってしまうので、六月に入りバラック住宅を買った東洋産業に、店舗増築の見積りを頼んだ。一坪か一坪半で、一八五〇円であった。一ヶ月の生活費に相当する。それも封鎖預金で無く、現金を要求してきた。資金の目当てはなかったので再考を約した。
店舗増築費用の目途に暗中模索で考えあぐねている時、思わぬところに救世主が現われた。疎開先の高畑の山田さんの当主の寿(すすむ)さんであっ
た。六月十二日、高畑を訪れ相談したところ、ポンと二千円貸してくれる話が決まった。ある所にはあるものである。「難問解決・曙光を見ゆ、誠に喜悦に堪えず感謝々々」と日記に見える。
増築は、月末の六月二十六日から二十九日迄かかり完成した。大工は浅田町に間借りしていた中谷市平さんで、大平(おいだいら)の関係かも知れない。六月三十日から開店し、客足は良かったが、英和辞典が一冊盗まれた。新規開店の店を狙っている常習犯がいたようである。
私は十月一日から山口県光市の朝日塩業に勤務することになるが(「第四部」参照)、それまでの間、八月十四日から船越町の川本染工場へパートで通った。染色は専門であったが、この工場は浴衣の注染工場であった。染色の技術がすぐ出来る訳はなく、染めた浴衣の糊を、水で洗い流して落とす作業で重労働であった。末弟も河合楽器に就職し、皆それぞれ本来の働き場所を得て、戦後の生活も徐々に本格的に動き始めた。
(二十三)借地して二〇年苦しみようやくに
二十四坪の地主となりぬ
( 昭和三四年 )
私が光市から帰ったあとの昭和三〇年頃から、借地についての話し合いが、家主のKさんと行われる様になった。借地料はKさんが受け取らないので供託していたが、地主の松坂屋とKさんと話がついたか、結局百五十万円の移転料で借地を明け渡すことになった。
早速、現在も浜松市役所の南側で営業している鴻の池不動産を仲介して、当時の動物園バス停前(現在は美術館前)の二十四坪の土地を購入することができた。(二十三)の歌はその時のものである。この土地は、戦後の都市計画で新しく出来た市役所から舘山寺行のバスが通る大通りで、まだ舗装されていなかった。私たちが移ってから、たしか自衛隊が舗装作業をしたと思う。
この土地は、紺屋町一二二番地の三と、高町六四番地の一〇の換地で、都市計画新坪の松城町六四番地の一〇として売主が所有していた。高町へ抜ける細い坂道に沿って三角地だったので、家居の設計には、ちょっと苦労した。
土地代に六十万円、家居建築に六十万円、計百二十万円かかった。残りの三十万円は、本の仕入や雑費に消えたが、三十年後、この土地が百倍の値段になるとは、夢にも思わないことであった。
この松城町の家で、昭和三十四年十一月二十五日、長女のいづみが生まれた。これでわが家は二男一女となった。
戦後は新刊書も扱い始めた。最初は駅南に新刊雑誌の卸店があったので、それを利用していたが、運ぶのが大変だった。まだ自転車の時代だったから、一度では済まず、二回も三回も運ぶ時もあった。支店を追分町に開いてからは、あの六間道路の坂も上がらねばならなかった。松城町も市役所の横の坂を上がることになった。
仕事量などを考えて、直接取次店からの仕入れを考えねばならなくなった。本の流通ルートは、出版社ー取次店(問屋)ー書店であるが、二大取次のニッパン(日販)とトーハン(東販)が全体の七、八割を、残りを二次取次店、三次取次店が占めていた。いきなり大取次は無理なので、二次取次の中から、本社が九段下にあっった太洋社を選んだ。大手の運送会社が、毎朝店頭まで配達してくれるから楽であった。最初は雑誌だけであったが、文庫の長期委託や、新刊書籍も入るようになってきた。
しかし、ここに困った問題が一つ起きてきた。得意先は静岡大学工学部・教育学部・各高等学校・工業試験場に浜松医科大学が新設されて、図書館への納入に成功した。工学部などは専門雑誌が多くて、大洋社では扱っていないものが多かった。それらは一次取次から仕入れて太洋社が回していたが、入ったり入らなかったりして、当店としても信用に関わる問題なので、遂に意を決して、取次を東販(トーハン)に切替えたのは昭和四十四年八月であった。
当時、売り上げの八割はこれら学校廻りの外売りで占めた。店売りは二割に過ぎなかった。
お世辞の一つも言えぬ私が、このあと昭和六十二年まで三十年間も、よく商売が出来たと思うが、その私が本屋をやめるかどうか、決断をせねばならない時がきた。
( 「Ⅱ 43 閉店」へ続く )
※雨宮智彦補註 「30年間」を1項目では、あまりに飛びすぎるので、「Ⅱ 43 閉店」へ続く前に、「落葉松 補遺」で少し補います。