雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

古代ブログ 36 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 20 北区引佐町の天白岩座遺跡<再録>

2018年03月20日 23時46分14秒 | 遠州古代史

古代ブログ 36 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 20 北区引佐町の天白岩座遺跡<再録>

「遠州の遺跡・寺社6 天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡
2010年04月11日 21時32分18秒 | 遠州古代史

 今日4月11日(日)は暖かくて、N子さんと2人で、お弁当(おにぎり)を持って北区引佐町まで出かけました。
 
 今日の一番の目的地は「天白磐座遺跡」です。数年前に初めて行ったことがあり、今回が2回目です。

 渭伊神社の駐車場に車を止めて、「むささびがいます」という看板を見て、ゲートボールをしているおじいさん・おばあさんたちの横を通り、渭伊(いい)神社の境内に入りました。
 N子さんは、ぼくの神社趣味を知っているので別に驚かないのですが、「ここが何か特別な神社?」と怪訝な顔でした。
 N子さんの前に立って、渭伊神社さんの前で(今日は裏を見せてもらいますよ、よろしくと)拝んでから、神社の横をすり抜けて裏山に登っていきました。
 
 急な山を登っていくと、現われました。
 山の途中に、いくつもの大きな石が土の中から露出していて、山頂(標高は約42m)にはひときわ巨大な岩が3つ、とくに2つの石が大きく、その真ん中が空間になっていて、異様な空間です。
 「すごい、なにこれ」とN子さんも感嘆し「誰かがこれ運んできたの?」と言います。確かに、まるでダイダラボッチか誰かが、大きな磐を3つここに運んできて置いたみたいな状況ですが、それはないだろう、むしろ、逆に、誰かがこの位置に埋まっていた巨石を土の中から掘り出したのではないか、と思います。

 辰巳和弘さんなどが、この遺跡を発見し発掘調査をした結果、周囲の土の中から、古墳時代を中心に、縄文時代から江戸時代までの祭祀遺物が発見され、縄文時代から江戸時代まで続く祭祀遺跡であることが明らかになりました。

 おもしろいのは、3つの巨磐に囲まれた山頂部分には、古墳時代の遺物は見つからないことです。つまり、最盛期の古墳時代には、この3つの磐に囲まれた地は、立ち入ってはならない神聖な空間だったということになります。

 全国でも数少ない、遠州地方でも画期的な遺跡です。
 何よりも、この大きな磐やたくさんの岩と、森と山がつくりだす異様な、結界のような空間は、まさに神が降りてくるにふさわしい、一人きりではこわくなるような「異界」です。

 それにしても、これほど重要な遺跡なのに、ほとんど人は来ません。僕たちがいた時間帯も、中年の男性が1人来ていただけでした。まあ観光地化して、人がこの神聖な結界をけがしても困りますが。
 
 山頂から南西部の山裾のぎりぎり、もう向こうは神宮司川という地点にも大きな岩とそれに重なって少し小さい岩があって、「鳴岩」というそうです。
 これは山頂の磐とは違って、磐と磐のあいだがほとんどありません。
 こちらは、小さめの厚みの薄い磐は、もしかしたら、運べた可能性もあるのではないでしょうか。
 2つか3つの磐またはその磐と磐のあいだの空間を神聖視するという基本点は変わらないとすれば、そういう空間を作り出すために、小さめの磐を運んだという可能性も考えていいのではないかと、思います。

 もちろん、事実に基づく考察の範囲内である考古学では、そういう空想や推理は範囲外ですが、僕たちがそれに縛られる必要はもうとうないので、思いきり空想の翼を羽ばたかせたいと思います。

 この山のすぐ北と西を青い水の神宮司川(じんぐうじがわ)が流れていて、まさに「引佐」町は、土着豪族の「井伊(いい)氏」が支配してきた「井(い)」の町であり、同時に「石(いし)」の町であることを痛感します。

 参考文献としては、辰巳和弘さん著『聖なる水の祀りと古代王権・天白磐座遺跡』<シリーズ「遺跡を学ぶ」033>、新泉社、2006年12月2日発行、定価1575円が一番でしょうか。

 もちろん、正式の発掘報告書も出ています。辰巳和弘さん編で『天白磐座遺跡』引佐町教育委員会発行、1992年刊、です。

 浜松市に問い合わせれば、まだ在庫があるかもしれません。私は数年前に旧引佐町役場で買いました。

 なお「磐座」という言葉がここで使われたかどうか明確でないことから、「渭伊神社境内遺跡(いいじんじゃ けいだいいせき)」と呼ぶ人もいます。

 蛇足ですが、木谷恭介さんが『遠州姫街道殺人事件』というのを祥伝社から出しています。まだ読んでいませんが、手に入れて読んだら「本と映像の森」にアップします。

 さて、まだ問題があります。それは「天白(てんぱく)」という地名です。この「天白」とは、静岡県から三重県にかけて「天白神社」という神社が分布していて、その関係かとも思います。
 中区十軒町のわが家のそばの上島5丁目にも「天白神社」があります。この「天白神社」について調べると、何か「天白磐座遺跡」の謎に一歩近づけるかもしれません。

 それと、やはり日本全体での、磐座信仰・岩信仰を調べないといけないということでしょうか。

 さっき書いた「井の国」と「石信仰」の結びつきという点では、やはり注目すべきは、あの有名な北九州の「磐井の乱」(乱なのかどうかは異説が出ていますが)の「磐井(いわい)」でしょう。
 記紀では、近畿天皇家に反抗した地方勢力で北九州の王、ということになっていますが。
 まさしく、水と石の信仰を体現した名前です。
 これ、どういうことなんでしょうか。

 半日の歴史ツアーから帰ってきて、上島の行きつけのコーヒ-(雨宮は)や紅茶(N子さんは)のおいしい喫茶店「シーン」で、N子さんいわく「自分の地域にいろんな,おもしろいものがあるのね。」
 これから暇を創って、いっしょに地域の歴史を回ろうという話になりました。

 今日の話の続き、まだアップします。
 次は「石庭」です。」


「遠州の遺跡・寺社9 天白岩座遺跡幻想
2010年04月23日 23時19分56秒 | 遠州古代史

 引佐町の「石の聖地」「天白磐座遺跡」に似たものは,実は日本列島内にもう1カ所あります。あると思います。

 それは、北九州の玄界灘にある、宗像大社の辺津宮にあたる「沖ノ島」の中腹にある古代祭祀遺跡です。
 別名「海の正倉院」と呼ばれています。 

 沖ノ島の中腹にある23の巨岩の岩上・岩陰・半岩陰・半露天・露天の遺跡から4世紀の古墳時代から10世紀の平安時代に至る、大量の祭祀異物が出土しています。

 さて問題は、この西日本の沖ノ島遺跡は航海の安全を祈った遺跡とされている点です。遺物の規模はともかく非常に似通った遺跡である東日本の天白磐座遺跡は、在地の「井伊氏」だけによる地元の祭祀であるといえるのでしょうか?

 いずれ報告書はきちんと読み込みたいと思いますが、類似性から行っても、沖ノ島遺跡が朝鮮海峡を渡る航海・敵地へ渡る旅の安全を祈願する遺跡であるなら、浜名湖から都田川・神宮司川とつながっている天白磐座遺跡が、たとえば尾張政権・たとえば大和政権、あるいは西日本との関連でもっと空想するなら筑紫政権のいずれかが「東海」の船旅、たとえば関東への旅を祈っておこなった祭祀の場であるとは言えないでしょうか。
 今のところは1つの可能性、雨宮の幻想ですが。

 沖ノ島遺跡については、正木晃さん著『宗像大社・古代祭祀の原風景』NHKブックス、日本放送出版協会、2008年8月30日第1刷、定価970円+消費税、205ページ、を参照しました。

 ネットで「沖ノ島遺跡」で検索すると「沖ノ島バーチャルミュージアム」や「沖ノ島・祭祀遺跡」などいろいろなサイトで、カラーでいろんな写真が見れます。

 記紀」にはヤマトタケルさんの旅が書かれていますが、あれは明らかに陸上ではなく、船による海上の旅(侵略の?それとも友好を求める旅?)です。
 ヤマトタケルさんは、名前は「ヤマト」と称しているのに、東日本から帰ってきて熱田の妻のところにいついてしまい、ヤマト天皇にまず報告にもいかないのはおかしいですね。
 ヤマトタケルさんの本拠地は熱田で、尾張政権の一員ではないでしょうか。

 偶然でしたが、今年は「井伊共保さん生誕1000年だそうです。もうすこし井伊氏や郷土の古代史を追いたいと思います。」