青い銀河とオレンジの花 断片資料 10 「勤通大 第2部 経済学へのコメント 20060129」 20210110
「勤通大 第2部 経済学へのコメント 雨宮智彦 2006年1月29日(土)
◎感想の都合上、第1部や第3部にも触れることになります。
ながいあいだ、教科書をきちんと読んだことがなくて、久しぶりでした。
◎全般的に リアルな事実と感覚から始めてその謎を解明する理論が求められる
残念ながら、資本論のような、良質の推理小説を読むようなときめきがない
ぎりぎりまでのつきつめた「ここで飛べ!」「飛んだ!」という飛躍感覚がない
解明ではなく、科学的社会主義の理論では「こうなっています」というだけでは
こちらとしては「ああ、そうですか」と答えるしかない。
◎社会移行、「社会発展の原動力」(第1部第3章第2節)は何か
p137「生産力は、総じてたえず成長し発展していく傾向をもちます。なぜなら、人間はふつう生活の向上のためにつねに生産の技術(技能)や組織に工夫と改良や発明を加え、それを社会的に蓄積していくからです」
たとえば縄文時代末期のような、とくに縄文文化の栄えた東日本で遺跡数が衰退していくことは、考古学では自明のことです。どうして「総じてたえず成長し発展していく傾向」「つねに」とか言えるでしょうか。
p137~138「その発展がある段階までくると、これまでの生産関係とくに所有関係は生産力発展の条件から桎梏(さまたげ)に変わります。こうして生産力と生産関係の矛盾は激しくなり、やがて生産力発展の桎梏となった生産関係、とくに所有関係の変更が歴史の課題として人びとの意識にのぼってくるようになります」
ぼくのいまの段階での結論はこうです。
石器時代の狩猟・採集時代から、農業が出現する時期の人類史の分析は、こうです。氷河時代の終了と小温暖期の急速な温暖化で、これまでの狩猟・採集の獲物が捕れなくなって、これまでの生産力と生産関係そのものが危機に面して、人類は新たな生産システムとして農業を採用した。
揚子江の場合には、周辺に生えていた実が落ちる野生の稲の中から、実が落ちないような品種を栽培で作り出した。栽培種かどうかは、これで判断できる。
人類のDNAは、チンパンジーのDNAに比べて、きわめて変異が小さい。
したがって、これまでのシステムに固執して滅亡した部族もあったし、この危機を生き延びた農業を営む人類が、また違う時期に、都市文明を築いた。
◎原始共同体から階級社会への移行
p143、生産力の発展と共同体同士の紛争が、私的所有と階級の発生をもたらしたのではなくて、逆に、たとえば3世紀の小寒冷期の危機が、近い共同体同士の連携と遠い共同体を従属させていく動きをつくりだしたのではないのか。
メソポタミアの都市国家発生も同じ。寒冷化の危機に対して、大きな灌漑施設の建設と共同管理に移らざるを得なかった。
◎p264「資本主義の基本的矛盾」、わかりにくい
「巨大な社会的生産力の発展と資本主義的生産関係の狭い枠内での矛盾」
「生産力を無制限に発展させる資本主義の傾向のなかに資本主義の没落の必然性が見いだされるということをしめしています」
このどこに危機があるのか?
のんきに聞こえる。
危機なしに、なぜ、社会移行が起こるのか?
第3部、p344~346で「資本主義社会の深刻な問題」として、次の3点をあげている。
「第1に、資本主義国は、恐慌・不況を乗り越えられない」
「第2に、南北問題が深刻になっている」
「第3に、地球の生命維持装置が危なくなっている」
ここでオゾン層などの破壊だけをあげているのは、もっと深刻な温暖化問題をのぞいている点で、のんきすぎるのではないか。
炭酸ガス濃度が上昇していけば、温暖化だけではなく、ほ乳類の呼吸困難になるということが明らかになっています。
いま、実際に目の前に起こっていることは、巨大な生産力の発展が問題なのではなく
環境問題をみても、温暖化による人類の生存の危機、絶滅の危機ではないのか。
◎第6章「現代の資本主義」は段階論がきわめてわかりにくい
どういう叙述構造になっているのか、とくに、第1節の最後、p297から「今日の独占資本主義の到達点とその特徴」が出てきて、そのあと、第2節の「国家独占資本主義」が叙述されているが、どういう関係になっているのか理解できない。
同じものなのか、違うものなのか。
純粋に経済的な話ではないのだから、「今日の独占資本主義の到達点とその特徴」は、第3部に移動したほうがすっきりするのではないか。
「現代の資本主義」より、不破さんのように、より広い「現代の世界」をきちんと叙述したほうが、わかりやすいのではないか。
◎第2部経済論から第3部政治論へ飛んでしまうので、マクロな社会論・運動論だけ
ミクロな人間論・集団論を媒介しないと、直接、階級闘争へは行けません。
人間論・組織論のない革命論はへんです。
若者論も当然、必要ですが、資本主義と現代資本主義が生み出す「消費人間」について、きちんと語り、その対局として、人間がほんらい持っている豊かな体とゆたかな人間関係、豊かな自然環境について語るべきです。
それがあって、はじめて、その豊かな人間集団が自発的に展開する革新的未来と資本主義の支配者達が対抗する日本政治の、第3部へ接続するのだと思います。
◎上記の対極として、資本主義社会が生む、資本主義的人間を対置するとわかりやすい
というより、順番が逆で、資本主義に操作され翻弄される「消費型」人間に対して、革新的な、というより本来人間が持っているよきものを発揮した個人と集団を対置しないと、人間論・組織論として、不完全ではないでしょうか。
それは、p167で,資本主義がきりひらいた進歩性で3点あげていますが、2点目の「人格的に独立した人間」が、いかに資本主義の教育やマスコミなどによって、ゆがめられ、操作されるかという叙述がありません。
よりよき人間的なものは、民主主義革命や社会主義・共産主義の社会でしか実現されないものではないのです。というより、現代資本主義社会と人間がもっているよい面をより大規模に実現するものということ。
◎社会と環境問題
生産・消費の観点だけではなく、廃棄物や社会循環の観点が、現代経済学には必要だと思います。
正確に言うと「真の循環型社会」への道ということになりますが。
( 以下は中断しました 20210110 )
「勤通大 第2部 経済学へのコメント 雨宮智彦 2006年1月29日(土)
◎感想の都合上、第1部や第3部にも触れることになります。
ながいあいだ、教科書をきちんと読んだことがなくて、久しぶりでした。
◎全般的に リアルな事実と感覚から始めてその謎を解明する理論が求められる
残念ながら、資本論のような、良質の推理小説を読むようなときめきがない
ぎりぎりまでのつきつめた「ここで飛べ!」「飛んだ!」という飛躍感覚がない
解明ではなく、科学的社会主義の理論では「こうなっています」というだけでは
こちらとしては「ああ、そうですか」と答えるしかない。
◎社会移行、「社会発展の原動力」(第1部第3章第2節)は何か
p137「生産力は、総じてたえず成長し発展していく傾向をもちます。なぜなら、人間はふつう生活の向上のためにつねに生産の技術(技能)や組織に工夫と改良や発明を加え、それを社会的に蓄積していくからです」
たとえば縄文時代末期のような、とくに縄文文化の栄えた東日本で遺跡数が衰退していくことは、考古学では自明のことです。どうして「総じてたえず成長し発展していく傾向」「つねに」とか言えるでしょうか。
p137~138「その発展がある段階までくると、これまでの生産関係とくに所有関係は生産力発展の条件から桎梏(さまたげ)に変わります。こうして生産力と生産関係の矛盾は激しくなり、やがて生産力発展の桎梏となった生産関係、とくに所有関係の変更が歴史の課題として人びとの意識にのぼってくるようになります」
ぼくのいまの段階での結論はこうです。
石器時代の狩猟・採集時代から、農業が出現する時期の人類史の分析は、こうです。氷河時代の終了と小温暖期の急速な温暖化で、これまでの狩猟・採集の獲物が捕れなくなって、これまでの生産力と生産関係そのものが危機に面して、人類は新たな生産システムとして農業を採用した。
揚子江の場合には、周辺に生えていた実が落ちる野生の稲の中から、実が落ちないような品種を栽培で作り出した。栽培種かどうかは、これで判断できる。
人類のDNAは、チンパンジーのDNAに比べて、きわめて変異が小さい。
したがって、これまでのシステムに固執して滅亡した部族もあったし、この危機を生き延びた農業を営む人類が、また違う時期に、都市文明を築いた。
◎原始共同体から階級社会への移行
p143、生産力の発展と共同体同士の紛争が、私的所有と階級の発生をもたらしたのではなくて、逆に、たとえば3世紀の小寒冷期の危機が、近い共同体同士の連携と遠い共同体を従属させていく動きをつくりだしたのではないのか。
メソポタミアの都市国家発生も同じ。寒冷化の危機に対して、大きな灌漑施設の建設と共同管理に移らざるを得なかった。
◎p264「資本主義の基本的矛盾」、わかりにくい
「巨大な社会的生産力の発展と資本主義的生産関係の狭い枠内での矛盾」
「生産力を無制限に発展させる資本主義の傾向のなかに資本主義の没落の必然性が見いだされるということをしめしています」
このどこに危機があるのか?
のんきに聞こえる。
危機なしに、なぜ、社会移行が起こるのか?
第3部、p344~346で「資本主義社会の深刻な問題」として、次の3点をあげている。
「第1に、資本主義国は、恐慌・不況を乗り越えられない」
「第2に、南北問題が深刻になっている」
「第3に、地球の生命維持装置が危なくなっている」
ここでオゾン層などの破壊だけをあげているのは、もっと深刻な温暖化問題をのぞいている点で、のんきすぎるのではないか。
炭酸ガス濃度が上昇していけば、温暖化だけではなく、ほ乳類の呼吸困難になるということが明らかになっています。
いま、実際に目の前に起こっていることは、巨大な生産力の発展が問題なのではなく
環境問題をみても、温暖化による人類の生存の危機、絶滅の危機ではないのか。
◎第6章「現代の資本主義」は段階論がきわめてわかりにくい
どういう叙述構造になっているのか、とくに、第1節の最後、p297から「今日の独占資本主義の到達点とその特徴」が出てきて、そのあと、第2節の「国家独占資本主義」が叙述されているが、どういう関係になっているのか理解できない。
同じものなのか、違うものなのか。
純粋に経済的な話ではないのだから、「今日の独占資本主義の到達点とその特徴」は、第3部に移動したほうがすっきりするのではないか。
「現代の資本主義」より、不破さんのように、より広い「現代の世界」をきちんと叙述したほうが、わかりやすいのではないか。
◎第2部経済論から第3部政治論へ飛んでしまうので、マクロな社会論・運動論だけ
ミクロな人間論・集団論を媒介しないと、直接、階級闘争へは行けません。
人間論・組織論のない革命論はへんです。
若者論も当然、必要ですが、資本主義と現代資本主義が生み出す「消費人間」について、きちんと語り、その対局として、人間がほんらい持っている豊かな体とゆたかな人間関係、豊かな自然環境について語るべきです。
それがあって、はじめて、その豊かな人間集団が自発的に展開する革新的未来と資本主義の支配者達が対抗する日本政治の、第3部へ接続するのだと思います。
◎上記の対極として、資本主義社会が生む、資本主義的人間を対置するとわかりやすい
というより、順番が逆で、資本主義に操作され翻弄される「消費型」人間に対して、革新的な、というより本来人間が持っているよきものを発揮した個人と集団を対置しないと、人間論・組織論として、不完全ではないでしょうか。
それは、p167で,資本主義がきりひらいた進歩性で3点あげていますが、2点目の「人格的に独立した人間」が、いかに資本主義の教育やマスコミなどによって、ゆがめられ、操作されるかという叙述がありません。
よりよき人間的なものは、民主主義革命や社会主義・共産主義の社会でしか実現されないものではないのです。というより、現代資本主義社会と人間がもっているよい面をより大規模に実現するものということ。
◎社会と環境問題
生産・消費の観点だけではなく、廃棄物や社会循環の観点が、現代経済学には必要だと思います。
正確に言うと「真の循環型社会」への道ということになりますが。
( 以下は中断しました 20210110 )