青い銀河とオレンジの花 断片 17 母が若い頃、差し入れ屋に勤めていてもらった帯留め 20210606
これは戦前の帯留めで、母の光子さんがもっていました。
母は、十軒町へ引っ越した後から,アルツハイマー型認知症になって入院してしまった。ゆっくり母の自伝を聞き取る機会がなくなってしまったのは、いまでも残念に思っています。
母が東京で空襲にあったときのはなしとか、東京のくらしとか、いっぱい聞きたいことがあった。ただ、父の節三さんが、自伝『落葉松(からまつ)』に、こんな一節を書いてくれている。
「私たち夫婦は、今年金婚を迎えたが、妻が入院中のため、式を挙げることが出来なかった。痛恨の一言に尽きる。入院は一二〇〇日を越えた。名古屋の長男夫婦が見舞いに来たのは、入院初期のまだ古い記憶は思い出せるときであった。
「わたし、刑務所におったときね」 と、突然、妻は長男に話しかけ始めた。
「おい、おい、どうなってんだ」と長男は、びっくりして私に聞いた。
「アッハッハ、それは刑務所ではない。差入屋のことだろう」
妻は何を言わんとしたのか、そのあと、何も言わなかったので分からなかった。妻が言った刑務所とは、現在、東京の池袋に六十階のサンシャイン・ビルが建っているが、そこに戦前からあった東京拘置所のことである。又は、巣鴨拘置所、地元の人たちは巣鴨の刑務所と呼んでいた。」
「刑務所には差入屋が付きものである。刑務所の未決因は、食物や日用品、衣類などの自弁が認められて、それらの品を家族たちの依頼によって、収監者に届けることを業としていたのが差入屋である。また、獄中で不要になったものを家族に返すことも仲介していた。刑務所と差入屋とは不離不即の関係だった。
妻はこの巣鴨刑務所の差入屋に勤めていたのである。
戦時中、徴用令というものがあった。辞書に〔国家が強制的に国民を動員し、一定の仕事に従事させること〕とあるが不要不急な仕事についている者や、定職のない者たちが対象となった。殊に、家事見習いと言われた嫁入り前の娘たちには恐慌をきたした。
妻は東京の本郷菊坂(樋口一葉が明治時代住んでいた)で生まれたが、戦時中は、父【安藤】は巣鴨刑務所の近くで印刷屋をしていた。三省堂の辞典などの印刷を手がけていた。その徴用を避けるために、差入屋に勤めたのである。近くであるし、伝手があったのであろう。差入屋に出入りしていた人の中に、作家の宮本百合子がいた。
妻は百合子を色の白いきれいな人だったと言うが、百合子から帯止めをもらい、今もそれを記念に持っている。百合子の夫が刑務所に入っていたのである。」
つまり、これは母の光子さんが宮本百合子さんから直接もらった帯留めです。
いまは則子さんがもっています。