古代史を考える 1 「卑弥呼の墓」について
魏志倭人伝には、倭国女王の卑弥呼の死について、こう書かれています。
「卑弥呼以て死し、大いに「ちょう」を作る。径百余歩。」(すみません。「ちょう」の漢字が今書いているソフト「一太郎」にありません。原文を見て下さい)
「径百余歩」とは何でしょうか。もし、ほんとうに箸墓が卑弥呼の墓であるなら、前方後円墳なのですから「幅○○歩、径○○歩」とか書くべきでしょう。
「径」という意味は、やはり「円墳」または「四角形の古墳」としか思えません。
そして問題は「百余歩」です。中国古代には「歩」は「里」の下の単位です。そして「1里=300歩」です。
「倭人伝」には、「1里」が何kmかを確定できるデータがあります。たとえば、以下のようになっています。
① 南朝鮮の狗邪韓国(今の釜山付近とされています)から「対海(対馬のことです)」まで「千余里」
② 対海国は「方四百里ばかり」
③ 対海から「一大国(当然、今の壱岐島のことです)」まで「千余里」
④ 一大国は「方三百里ばかり」
⑤ 一大国から「末廬国」まで「五百里」
「余」はどれくらいでしょうか?3割?2割?2割くらいと仮定してみます、
「方四百里」というのは四辺形で一辺が四百里という意味ですから、一辺の長さ分を計算に入れましょうか。
すると、1200里+400里+1200里+300里+500里=3600里
以上を実際の地図で確かめると、釜山付近から福岡県の東松浦半島まで、約200kmです(手許の『プレミアムアトラス 日本地図帳』平凡社)。
200km÷3600里=0.05555km/里=約55m/里
古田武彦さんの別の計算では、約75~90m/里としていますので、雨宮計算と古田さんの計算は誤差は3割くらいありますが、桁はあっています。
この「倭人伝」の数値から計算すると、1里=300歩ですから、卑弥呼の墓は、雨宮計算では、半径18m、古田さんの計算では25mから30mとなります。
どういう計算をするにしろ、同じ文章の中で、違う尺度体系が使われているようなことはあり得ないと思います。
もし、南朝鮮から北九州までの「距離」が何倍も過大であると仮定するなら、当然、卑弥呼の墓の「径」も何倍も過大でなければなりません。
私は、南朝鮮から北九州までの距離、倭人伝内の距離、墓の直径など、すべて実際の距離に近い適正な数字であると思います。
参考文献は、古田武彦さん著『「邪馬台国」はなかった ー解読された倭人伝の謎ー』ミネルヴァ書房、2012年(原著1971年)、p131~156、p231~240
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なお、卑弥呼は、倭国の女王であって、邪馬壱国(現代の通称では邪馬台国)の女王ではありません。邪馬壱国は、倭国の首都です。「邪馬壱国の女王」と呼ぶことは、「東京の天皇」と呼ぶような珍妙な言い方です。正しくは「倭国の女王」「日本国の天皇」です。
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歴史的人物である卑弥呼さんは、敬称(「さん」)を略させていただきました。