日本古代史を考える 「関東の銅鐸」の謎
遠州地方に多産する銅鐸の謎について書いてきましたが、今日は、きわめつけの謎について書きます。
過去の履歴は、「雨宮智彦のブログ 銅鐸」で検索するとヒットします。
銅鐸は近畿を中心に浜松付近まで分布する弥生時代の青銅器です。銅鐸に対立する西日本の青銅器が銅剣や銅矛です。
ところが、正真正銘の近畿の銅鐸そのものが、千葉県の房総半島の東京湾岸で見つかったのです。
学界の常識では東海地方の浜松付近が銅鐸分布の東端のはずです。
もちろん、もっと東でも「小銅鐸」や「鉄鐸」は出ますし、神奈川県や栃木県でも「小銅鐸」は出ていました。
千葉県で銅鐸?!
ぼくが知ったのは、森浩一さん著『古代史津々浦々』小学館、1993年発行、「私のみる東国の古代文化」(原著1991年)を、読んでからでした。
森浩一さんは、「なぜ」という解答を書いていませんが、ボクは、これは明らかだと思います。
つまり「近畿の崩壊した銅鐸文明」の住民あるいは村が、銅鐸文化を持ったまま、近畿から千葉県房総半島に船で逃亡してそこに住み着いた、そういう解釈しかあり得ないと思います。
なぜ銅鐸文明が崩壊したかというと、これは「神武東征」伝承にあるような西日本青銅器文明が、近畿などの銅鐸文明を滅ぼした、あるいは吸収合併したから、ではないかと考察します。
その弥生時代の西日本青銅器文明は、「銅鏡・銅剣・玉」を「3種の神器」とする文明で「古墳時代」に直接続き、近畿の銅鐸はすべて隠されるか、粉砕されたと思います。
ですから『古事記』にも『日本書紀』にも「銅鐸」の影さえ見えません。それは大和王権にとっての暗い「特定秘密」に指定され、それをしゃべる者はたぶん、逮捕され……。
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いま「千葉県 銅鐸」で検索してみたら、ほとんど情報がひっかかりません。
やりなおし。「関東 銅鐸」で検索したら、かなり引っかかりました。