古代ブログ 59 遠州古代史 銅鐸シリーズ ⑦ 銅鐸の出土村について、芝田文雄さんの考察<20131217再録>
「遠州古代史 銅鐸の出土村について、芝田文雄さんの考察
2013年12月17日 20時52分36秒 | 遠州古代史
天竜川平野の銅鐸出土地について、つい最近、「遠州の遺跡・寺社・地名 125 浜松・ツツミドオリ銅鐸出土地「碑」(南区安松町) 2013年11月22日 22時23分32秒 で書きました。
もう一つ、この天竜川平野での銅鐸出土地が、JR東海道線天竜川駅のすぐ北西にありますが、この天竜川平野と都田川流域の関係についての考察を紹介します、
むかし、手に入れた、郷土出版社の「ひくまの出版」から1979年に出版された『シリーズ遠州 1 遠江の里』(B5版、186ページ、定価2800円)の中に、考古学者の芝田文雄さんの「銅鐸の里 岡ノ平遺跡」という論考があります。
中央図書館の郷土資料室には、たしか置いてあると思います。
芝田さんは、都田川流域において「岡ノ平集落は、細江の銅鐸祭祀集団のうちでも中核的なものだったにちがいない」と推定し、さらに重大な事実を明らかにしています。
それは都田川流域における銅鐸出土地が、北西から南東へのラインの上に乗っているということです。つまり都田川から北の小野銅鐸、都田川付近の船渡銅鐸、そして都田川南の「銅鐸の谷」の「悪ヶ谷」「滝峯七曲り2号」「滝峯七曲り1号」「不動平」の4鐸です。
芝田さんは、このラインと、「岡ノ平遺跡」との微妙なズレについて書いてませんが、1979年当時、知られていた「コツサガヤ銅鐸出土伝承地」は、この岡ノ平遺跡と、現在までに発見された「穴ノ谷銅鐸」(1987年発見)、「滝峯才四郎谷銅鐸」(1989年発見)と同じラインに乗っています。
さらに、芝田さんは、この小野銅鐸ー船渡銅鐸ー「銅鐸の谷」の「この直線をさらに10キロ南東に延長すると、浜松市地内馬込川東岸の木船(2)芳川(2)の4鐸がのってくる。これはどういうことなのだろうか。約1700年前に、山や川を越えて十数キロにおよぶ方位測定の技術があったとしか思えない。またそれまでして北西~南東の方位を選んだとすれば、それは弥生人の聖なるラインではないのか。」と書いています。
ボクは、そのとおりだと思います。
芝田さんは、もっとおもしろい問題について、わずか4ページの論考で指摘していますので、ぼくも、また考えたいと思います。(続く、いつかね)。」