雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

浜岡原発ニュース 5月14日 浜岡原発停止から2年

2013年05月17日 06時03分52秒 | 浜岡原発ニュース

浜岡原発ニュース 5月14日 浜岡原発停止から2年

 浜岡原発停止から2年が過ぎました。原発問題ではいつも積極的な『中日新聞』ではなく、『静岡新聞』の特集が、浜岡原発再稼働についての県内自治体首長へのアンケート結果を報じていて、いちばん良かったです、

 浜岡原発が「新基準に適合した場合」に再稼働を認めるかどうか。35首長のうち9首長が「認めない」、22首長が「条件付きで認める(認めない)」、4首長が「認める」との判断でした。

   ☆

 中部電力は、浜岡原発の安全性強化の工事を2015年3月まで、つまり2年後までやると言っています。それで安全かどうかは別問題ですが。

 新基準をまだきちんと読んでいませんが、原発過酷事故を「想定」した基準だそうです。その時点で、すでに破綻しているのではないでしょうか。ぜったいに起きてはいけない「原発過酷事故」が起きる想定をするような原発は、というか新基準は根本で間違っていると思います。

 静岡県知事選が、5月30日告示、6月16日投票ですが、川勝県知事は、浜岡再稼働は、中電の工事が終わった後に「静岡県民の意向」で決めるべきと言っています。もちろん、それは民主主義社会では、一つの正しい見識でしょうが、川勝さん自身の「意見」をきちんと確定し表明することが,県民の代表である知事としては,最低限、必要であると思います。

 「わたしの意見はAですが、静岡県民の意見がBであれば、それに従います」というべきです。

   ☆

 『朝日新聞』の連載「プロメテウスの罠」では、2年前の菅首相の「浜岡停止」要請は,実は浜岡だけを捨てて,他の原発を救う意図だったという記事がありました。真偽は不明です。追跡します。

 

 


雨宮日記 5月15日(水) 青緑の葉の初夏で、葵祭の日

2013年05月16日 06時15分08秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 5月15日(水) 青緑の葉の初夏で、葵祭の日

 則子さんは毎日、朝から午後4時まで障害者就労支援施設「どなるどの家」へ行って、今日は畑の大根抜き、今日は事務室の片付け、今日は銭湯での物資販売と、日替わりで労働(労働指導)をしています。

 農作業が多いので、昨夜、則子さんは、カーマへ行って、ちょっとしゃれた水色の長靴と日よけの帽子を買って来ました。

    ☆

 午後起きて、一人で車を運転して領家の栄秀寺へ行きました。1ヶ月ぶりに来たら、なんと大イチョウの巨木が緑色に萌えていました。昨年は台風の塩害で南側が痛め付けられたのですが、今年は全方向が青緑色の葉っぱで埋め尽くされています。

 根元からは、周りにたくさんのひこばえが生えています。

 イチョウの生命力ってすごいですね。いや、そうじゃない。生命の生命力ってすごいと言わないといけないですね。

 樹齢数百年の、このイチョウは、1945年夏、6月18日の空からの浜松大空襲は直撃を逃れましたが、7月29日に、海からの艦砲射撃の直撃を受けました。

    ☆

 今日5月15日は、京都の賀茂神社の葵祭りの日です。平安時代の古典文学で「祭り」といえば、この葵祭りのことだったようです。

 賀茂神社のことは、別に調べたいと思いますが、この葵祭りの季節は、渡り鳥が南から割ってくる頃で、田植えが始まる季節です。とくにホトトギスが鳴き始める季節です。

 清少納言さんの『枕草子』では「211段 賀茂へ参る道に」で、目撃した女たちが「ほととぎす おれ かやつよ おれ鳴きてこそ 我は田植うれ」と歌っています。

 意味は「ホトトギスよ、お前が啼くから、私は田植えをしなきゃならない」ということです。

    ☆

 浜松でも田んぼに水が張られて、夜は一面にアマガエルとトノサマガエルの鳴き声です。

 いずみたくさん作曲の「筑波山麓男声合唱団」の歌を思い出しました。

 


遠州の遺跡・寺社・地名 105 浜松市中区の金山神社

2013年05月14日 06時26分41秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名 105 浜松市中区栄町(さかえまち)の金山神社

 浜松市役所からまっすぐ南に下りてくる細い道路は,途中で五社神社や今の「はまホール(むかしの浜松市民会館)」の東を通り、栄町で行き止まりです。

 その信号を東へ曲がると、すぐ目の前の信号の右側、つまり東西に走る道の北側、神さまの見る方向としては南に面して「金山神社」があります。つまり南向きです。

 金山(かなやま)神社は、「金山」というのですから、当然、金属技術者たちの神さまです。

 「金山」を訓読みすると「かなやま」、音読みすると「きんざん」になります。

 本来なら、鍛治町に祭られるべきと思いますが、なぜか「栄町(さかえまち)」に鎮座しています。

 ここも、日本神話に出てくる「金山彦命(かなやまひこのみこと)」と「金山姫命(かなやまひめのみこと)」のペアが祭られています。

 『浜松市神社名鑑』(1982年)によれば「当社の創立年代については不詳であるが、天正年中に再建されるとあり、美濃国南宮神社を勧請ありし」(p96)と書かれています。

 そして「昭和二十年六月十八日の戦災に罹り皆焼失し後に再建す。」(p96)とあります。

 コンクリの鳥居は、なぜか色が塗ってありません。予算がないのか、それとも予算はあるけど、別の理由なのでしょうか?

 ☆

 「金山神社」で検索すると、まず川崎市の金山神社、つぎに名古屋市の金山神社が出てきます。ボクは若い頃、名古屋に居たこともあるのですが、名古屋の「金山」は鉄道のターミナルになっていますね。

 「金山彦命」「金山姫命」や、金属神や、いろいろ追っていくと長くなるので、今日は、ここまで。

 写真は2013年5月14日(火)早朝、雨宮撮影。

 


雨宮日記 5月12日(日) まだ左の耳に異常が残ってますが

2013年05月13日 07時26分21秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 5月12日(日) まだ左の耳に異常が残ってますが

 今日は朝、仕事のない日なので、夜、じっくりお酒を飲める日です。でも、飲み過ぎて、何も記憶無しで寝てしまうのも、いやなので、微妙です。

 アルコール抜きで、夜中、目が覚めてしまい、ちょっと飲み直しました。

 朝、目が覚めると、則子さんは、自治会の「草刈り」ででかけるところでした。「いってらっしゃい」「いってきます」

 

 


古代史を考える 5月11日は岐阜・長良川の「鵜飼い」開きです

2013年05月13日 06時35分57秒 | 古代史を考える

古代史を考える 5月11日は岐阜・長良川の「鵜飼い」開きです

 馬込川を散歩すると、かなりの確度で、1羽の鵜が川面を沈んだり、浮いたりして魚を食べています。

 この鵜の習性を利用して、人間が「鵜」を使って魚を取るのが、有名な「長良川の鵜飼い」です。

 そこでは夜間に、かがり火をたいて、紐で首を結んだ鵜を使っています。

 高校教師で歴史学者の加藤文三さん(加藤さんは鬱になったので、ぼくは「同類」だと勝手に「仲間」扱いしてます…)の傑作『民謡歳時記 上』青木書店、p226~228によれば、夜ではなく昼、紐で結ぶのではなく放し飼いが鵜飼いの東アジア「古代」での姿ではないかと、しています。

 そして、そういう「鵜飼い」地帯は、日本列島から海を越えて、中国、ベトナムj、インドまで連なっている。

 「鵜飼いベルト」は、森林で「照葉樹林」地帯、穀物では「稲作ベルト」と三重に重なっている、と加藤さんは説いています。それ、正しいですね。

 日本列島の「鵜飼い」の北限は、秋田県の田沢湖と岩手県の雫石付近を結ぶ線で、それ以北は、稲作の普及が遅れたところです。

 世界最古の鵜飼いの記事は、なんと中国の7世紀初頭、『隋書』「東夷伝倭国条」に書かれた記事です。

 謎なのですが、朝鮮には鵜飼いの記事がありません。沖縄にも、台湾にもありません。

 記事がないのは「鵜飼い」がなかったからだと、誰か証明しませんか?

 デューク・エイセスの「にほんのうた」の岐阜で「マンボ鵜」がありましたね。

 「ユラユラ メラメラ
 キラキラ ブラブラ
 長良川の屋形船 ユラユラユラユラ
 舳先のかがり火 メラメラメラメラ
 波にうつる火 岐阜提灯
 キラキラキラ ブラブラ
 鵜匠があやつる 鵜
 僕はあなたの 鵜
 夜は二人で ウッ!…」

 


雨宮家の歴史 10 父の『落葉松』第1部の7 谷島屋書店

2013年05月12日 00時38分20秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 10 父の『落葉松』第1部の7 谷島屋書店

  福男が開成に入学した明治三十三年、祖父卓二は陸軍軍属になっていた。明治三十三年三月三日付で、経理局長の野田男爵(野田中将は日清戦争従軍の功により男爵を授けられていた)から授与された技倆証明書に「現役中行状端正勤務ノ結果優秀ニシテ其技倆文官ノ任務ニ適スル者ト認定ス」とあるように、現役から文官に移った者を属というのであろう。

 それにしても長い現役であった。明治十七年に会計卒に任ぜられているから、十四年間の現役であった。被服廠の創設に関わった者として、致し方なかったであろう。四十三歳になっていた。明治三十六年に退官するから、現役・属の期間併せて二十年間の陸軍生活であった。

  明治二十三年の陸軍被服廠定員表では、(主管)一等軍吏一、(被服官)二・三等軍吏二、一・二・三等書記五、属四等以下三、計十一名となっていた。

 判任官俸給令(属は判任官であった)によると、属の四等から六等までは三十五円より十二円と幅があった。しかし卓二の俸給辞令は、八級俸より六級俸となっており、調べたが金額は分からなかった。

  文官になると年末に賞与が出た。即ち(三十二年)三十七円、(三十三年)四十円、(三十四年)不明、(三十五年)三十七円。賞与が一ヶ月分とすれば、約四十円が月額となる。

 明治三十三年の個人消費支出は一人当たり年百二十三円五十六銭となっている(『明治・大正家庭史年表』河出書房新社)。月にすると約十円である。卓二は五人家族であるから、五十円必要となる。平均であるから一概には言えないが、四、五十円の収入はあったのであろう。日清戦争従軍で勲八等五十円、朝鮮に於ける再軍務により四十円など臨時収入もあった。

  私が今でも疑念を持っているのは、父福男がなぜ開成に入ったかということである。開成と言えば、昔も今も名門校である。誰でも入れる所ではない。福男に学力があり、親の期待があったのであろう。福男の成績表、学籍簿が学校に残っているが、非公開で別の機会にと、見ることが出来なかった

 開成に入ることは、高校・大学(旧制)へと進学することが常識である。遊び友達だった末広巌太郎氏は、一高・東大へと進み、東大法学部長になっている。無論福男も開成だけで終わるつもりはなかった。

 開成の授業料は明治三十四年九月の時点(福男一年生の時)で、月額二円七十五銭であった。樋口一葉一家の毎月の米代が二円五十銭(渡辺澄子ー『中日新聞』平成十四年八月十三日夕刊)だったというから、三人分を一介の書生が消費した。その他を含めて教育費として、月五円を必要とすれば、五十円の収入に対して十%の支出となる。卓二一家の生活費が、余裕あったかどうか甚だ心許ない。

 明治三十八年四月に開成を卒業した福男は、一高受験の準備をしていた。卓二は既に三十六年に二十年間の陸軍生活を退官して、浜松に移っていた。福男はまだ四年生であり、内山太郎なる人の家に書生として住み込み、通学していた。

 戦後のある春の日、私は父と一緒にその人の疎開していた、茨城県の筑波山麓の柿岡町の家に一晩厄介になったことがある。内山氏は父のパトロン的存在だったようである。

(六) 東京の吾を呼びよせし父の電報
                   危篤の父が駅に待ちおり    (  昭和四十六年  )

  ところが、ある日浜松から「 チチキトク  スグカエレ 」という電報が届いた。これには福男も驚いた。更に驚いたことは、その危篤の父が浜松駅に、出迎えに出ていたことである。まだ弟妹は小さくて生活が苦しかったのである。福男は進学をあきらめるしかなかった。 

 「私が東都で学を卒えて、両親のもとに帰ったのが、明治三十八年、縁あって谷島屋へ入店した 」(「福男文集」) 

 後年、業者の集いで父が歌うのは、きまって一高の寮歌「ああ玉杯に花うけて 」であった。いつまでも、あの時の無念さをあきらめることが出来なかったようである。 

 谷島屋は明治五年創業の書店で、新刊書・教科書を扱う、浜松は無論のこと、静岡県下でも最大の本屋であった。文学少年だった福男にとっては最適の職場であった。しかし、幼少年期を過ごした東京への望郷の念が強かったか、四、五年して又東京へ戻ることになってしまった。このことは、祖父卓二が養家先の中谷家を飛び出して上京し、陸軍へ入った事とよく似通っているのを感じる。 

 店主夫妻の見送りを受けて上京し、落ち着いた先は湯島天神町で、店主の知人の洗濯屋の権利を譲り受けたのであった。資金は全部店主が負担した。私が考えても、父に洗濯屋の商売が出来るとも思えず、加えて、洗濯物に赤いシミの付いているのが分からず、色盲とわかり、洗濯屋をやめてしまった。

 「実を申しますと、谷島屋へ入店前、東京で古本屋の露天営業をやり、神田の市会へも出入りしましたが、何しろ失意当時の私、資本も無くシッポを巻いて、田舎へ帰った次第です。」              (福男文集)

 ちょっと話が矛盾しているが、失意当時というのは、洗濯屋をやめた時のことであり、この後古本の露天営業をやったのである。

  湯島天神町は一丁目八十八番地で、湯島天神の前である。ここに大正七年まで、二男二女を育てながら約九年間住んだ。

 古本の露天営業は、東京大学赤門前でのことである。神田の市会へ出入りしたというから、古物の鑑札を取ったのであろう。母は幼い娘を背負って夜店の番に立った。その本郷通りに棚沢書店という古書店がある。

 浜松で昭和五十年十月七日から八日朝にかけて、最多雨量三百三十二ミリメートルという大雨が降った。私の家は高台だったので被害は無かったが、下町は出水した。この時、棚沢書店から見舞いの葉書が寄せられた。

 「拝啓  中秋の候ですがお変りありませんか。新聞で浜松地方の大雨を知りましたが、お店はいかがですか。浜松も暫くご無沙汰致し申し訳ありません。一日も早く回復なさるようお願い申しあげます。私どもも昨年、父が亡くなりましたが、他は変わりありません。右お見舞いまで  敬具
    文京区本郷六ー十八ー十三   東大正門前     十月九日 」

 手紙の主は娘さんで、亡くなられた父は勝造さんといい、九十一歳であった。
 私の父も同じように、昨年八十六歳で亡くなっていた。私の父はこの勝造さんに、古本の手ほどきを受けたのである。勝造さんは困苦勉励の人で、十三歳の時から古本屋に奉公して、独立開業したのが丁度そのころであった。誠実、堅実、ある意味で頑固、本当に古本屋として、その名に恥じない人であった。

  父福男にとって、湯島天神町時代の九年間のブランクは、その後の進路にどんな影響を及ぼしたであろうか。


雨宮日記 5月11日(土)昼間 雨宮日記も「雨」です

2013年05月11日 14時11分59秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 5月11日(土)昼間 雨宮日記も「雨」です

 今日は昨日の夜から雨です。ときどき止んだりしますが、今2時15分、降っています。まだ喉の奥が痛くて、頭の中の芯がチクッと痛むので、カゼが残っているようです。

 「あまみや」のペンネームは、元々は「雨」とは関係なくて、始まりは「天宮」でした。つまり、遠州森町の「天宮神社」と同じ漢字です。

 「天」の「宮」は、あまりに恐れ多いかとも思って「雨宮」に変えたら、女性評論家の「雨宮かりん」さんや、長編マンガ(まだ続いてます)の「ピアノの森」の副主人公雨宮修平など、わりあい雨宮という名字があるのに気づきました。

 ☆

 写真は「庭の傘」、庭と言うほど広くありませんが。傘と言っても今日の雨に撮った写真ではなくて、数日前、日が照っているときに、則子さんが「日射しが強すぎて、木が元気なくなる」と言って立てた日傘です。


雨宮日記 5月10日(金) すごい!「アトランティス」大陸か?だそう(笑)です

2013年05月11日 05時34分32秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 5月10日(金) すごい!「アトランティス」大陸か?だそうです(笑)

 雨宮ブログ開設から1278日、だそうです。つまり365日の3倍は1095日、4倍は1460日で、3年と数ヶ月、よく書いてきたな、と思います。

 ブログのいいところは、紙の「日記帳」と違って、ネット上で「単語」をいくつか入れて「検索」すれば、自分がそのことを書いたかどうか、すぐわかるということです。

 さて、ラジオニュースや新聞では、ブラジル沖に「かって陸地だった大陸の証拠」発見とあり、しかも、それがプラトンで有名な「アトランティス」大陸に関連づけて、報道されています。

 最初にボクが聞いたNHK①のラジオニュースでは、ご丁寧に、プラトンに始まって、ジュール・ヴェルヌ「海底2万里」や、日本の現代アニメ「不思議の海のナディア」まで語っていました。

 そもそも、年代が違う!プラトンのいう「アトランティス」文明は、1万2千年前の話で、ブラジル沖の「かって陸地だった大陸地殻」が海に沈んだのは「5千万年前」です。

 つまり、ほ乳類の「新生代(7千万年前から)がようやく始まった時代の「陸地」です。人類の始まりは、せいぜい数百万年前、クロマニヨン人の新人類は数万年。とても無理です。

 理路整然と言うと、ブラジル沖「海底大陸」の発見と、アトランティスとは、何の論理的つながりもない、論理的つながりはありえない話なのです。

 でも、こういう話は大好きなのは、「市民科学者」「市民ジャーナリスト」としては不謹慎でしょうか?

 SFとマンガの融合の傑作、というよりSF作家の原作を見事に漫画家がコミックで描いた傑作「百億の昼と千億の夜」を思い出しました。

 原作はボクのだいすきな光瀬龍さん、そして漫画化も、ぼくのだいすきな萩尾望都さん。

 まあよくよく考えてみれば、とんでもない小説で、主人公は3人、ギリシアの哲学者プラトンとインドの宗教者シッタータ(つまり仏陀)とインドの伝説の悪神阿修羅(興福寺の阿修羅像そっくりです)の3人が歴史とは、神とは、正義とはを探索する3人組で、この3人に敵対する悪神の手先がなんと、あのイエスキリスト、というのですから奇想天外です。

 光瀬龍さんは、よく「冒涜罪」「侮辱罪」で仏教国やキリスト教国で裁判にかけられなかったな、と思うし、ひそかに「死んでもらいやす」と暗殺者が深夜来てもおかしくないくらいだと思います。あの、「裁判」や「暗殺」が正当、と言ってませんよ。それくらい、光瀬龍さんの精神が、何も恐れない、大胆不敵、ということを高く評価して言ってます。

 SF作家というのは、本来、そういうものです。小松左京さんが同じSF作家の星新一さんのことを書いた小説で、星新一さんの話芸、というより風刺・皮肉・批判は、ものすごい絶品で、話の対象にされた人や団体が実際にそれを聞いたら、「死んでもらいやす」と刺客を送ってくるくらいの、ものすごいものだった、と。

 当時、関西にいた星新一さんが、東京にたむろしていた、売れないSF作家たちのところに上京してくると、みんな、最優先でかけつけたといいます。つまり、その場にいないと、星さんの絶妙の揶揄・風刺・批判の対象にされてしまうので、みんな、必死にその場にかけつけたといいます。

 かなり、話がそれました。おやすみなさい。

  ☆

 補足。細身だし、若いことは確かだけど、少年とも少女ともわからないのが、興福寺の「阿修羅」像だと思います。この阿修羅像をモデルに、萩尾望都さんは、魅力的な「阿修羅」を描きました。

 マンガ版を読めば、仏陀が天界を訪れて逢った、天界の軍神帝釈天が語った「この荒廃の原因は阿修羅」という話に「阿修羅と対話することができないのですか」と反問し、実現したのが、仏陀と阿修羅との「邂逅」です。

 萩尾マンガでは、どうみても少女阿修羅は、天界の軍神帝釈天のかっての恋人です。帝釈天は夜空に輝くオーロラを共に見ながら、釈迦に言います。「美しいものであろう。あのものの心のように揺れ動く」(というようなボクの記憶です)

 天界のなかで阿修羅だけが、天界に外からやってきて支配していく「弥勒」に疑問をもち、軍をあげて抵抗している、という設定です。

 日本人、とくに青年の必読書だと思います。

 

 

 

 


雨宮日記 5月9日(木) 平和行進の届けで浜松中央署へ

2013年05月10日 05時44分41秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 5月9日(木) 平和行進の届けで浜松中央署へ

 午後、起きて台所に行くと、お鍋が焦げていました。あ!また、則子さん、やったか!則子さんの、すぐどっかへ飛んでいってしまう行動力も困ったものです。

 夕方4時前に帰って来たので、「原水爆禁止平和行進」の届けで、いっしょに高林の浜松中央署へ。ここ数日間、お互いに叱咤激励、優しく罵倒しながら、なんとか完成した5コースの書類を警備課と相談しながら、完成させます。

 ちょっと恥ずかしかったのは、「核兵器廃絶」の「廃」の手書き漢字が違っていて、警察の方から指摘されたことです。原水協事務局としては、ちょっとねえ!

 大声で言うのは恥ずかしいので、ここにコッソリと書いておきます。

 湖西の「このお店は名前が変わりました」というのもありました。

 4Fの警備課の小さな会議室で2時間、悪戦苦闘したり、ひたすら待っていたり、ひたすら普通の会話をしたりして、6時過ぎになんとか終わりました。

 対応してくれたおふたりは、今年初めてなので、毎年交代してたいへんです。

 ☆

 ボクはなんだか疲れて、夕食のあと「会議時間まで寝てるね」と言って寝ました。ところが調子が戻らずに、奥歯もシクシクするので、則子さんに「ごめーーん」と謝って、則子さんだけ行ってもらいました。ぼくは夜中、仕事に行くまで、布団にくるまって七転八倒、ゴロゴロして、寝ていました。やはり、熱がありそうです。

 

 


古代史を考える 日本の神さまと仏さまと世界の神さま

2013年05月10日 05時34分34秒 | 古代史を考える

古代史を考える 日本の神さまと仏さまと世界の神さま

 Eテレで日本の仏像を探訪する番組を見ていて思ったこと。日本も中国も、いろんな「仏像」がありますが、日本の八百万(やおよろず)の神さまの神像は、あまり見たことがありません。

 則子さんに「なぜでしょうね」と言って、「ボクに何故か聞いて見て」と言ったら

 則子さん「なぜ」と言うので

 ぼく「さっぱりわからん」と言うと則子さんは笑って、「その決めセリフを言いたかったの」と。はい、そうです。テレビドラマ「ガリレオ」の物理学者湯川学准教授の、番組の半分くらいで必ず言う、おきまりのセリフです。ボクも、いっぺん言ってみたかったんだ。

 神社に行っても、スサノオ神やアマテラス神など、神さまの像はおがめません。つまり、日本の神さまは「見えない神さま」「不可視の神さま」なんです。

 ところが西洋では、ギリシアの神さまは、ちゃんと神の像があります。キリスト教では「神(ゴッド)」の像はなくて「神の子」であるイエスさんの像や、神のみ使いである「天使」の像はあります。

 日本で言うと、神社の狛犬や、お稲荷さんの狐は像があるようなものでしょうか。

 


雨宮日記 5月8日(水) 歯が痛み出した、虫歯?

2013年05月10日 05時26分49秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 5月8日(水) 歯が痛み出した、虫歯?

 すみません。6日から10日朝まで更新していませんでした。

 8日の夜中から左の奥歯が痛み始めて、それが上も,下も、で、これってもしかして、むし歯ではなくて、発熱?ともかく様子見です。

 ボクは元々、滅多に発熱することはなくて、発熱しても医者にもいかず、仕事中は車のヒーターをがんがん効かせて、寝ているときに厚着して汗をかいて治してしまうのがいつものことです。

 9日の早朝、白々と明けてきたビル街の上から「ショウチュウ、イッパイ、グイー(焼酎、一杯、グイー)」と聞こえてきました。ホオジロです!

 


雨宮家の物 11 きれい好きの則子さん、台所のテーブルクロスを変えました

2013年05月06日 06時24分54秒 | 雨宮家の物

雨宮家の物 11 きれい好きの則子さん、台所のテーブルクロスを変えました

 大げさな理念や、崇高な目標もだいじですが、理念や目標や観念を実現するための物質的なもの、日常的な「物」がだいじと思い、この「雨宮家の物」コーナーを書いています。

 きれい好きで、片付け大好きの雨宮則子さんと、きれいとかせいけつとかごみとかあまり気にしない雨宮智彦くんが、30数年間も同じ家で、同じ部屋で、なぜいっしょにいられるのか、破断にならないのかは、「雨宮家の7不思議」の第1です(第2から後が何かは知りませんが)。

 夏になるのを前にして、4月末に、台所のテーブルクロスを新調しました。

 こういう視点は、ボクにはないんですね。尊敬します。(うわ、「尊敬してないで、早くゴミを捨てなさい!」と言われそう)。

 そうだ!目の前の事態から行動を起こしていく則子さんと、自分の根源的なと思う思考から自分の行動を起こしていくボクでは、そもそもの方向性が違うんですね。

 だから、二人の人生の違いがあまりにおもしろくて、夫婦生活が30数年、成り立ってるのでないかという「仮説」が立ちます。

 目の前の事態から行動していく則子さんは、過去の事態や現実にあまり気にしないので、家で炊事をしていて、玄関に誰かが来ると、そっちに意識が飛んでしまい、自分が台所で鍋をぐつぐつしていたのは忘れて、新たな事態に全面的に意識を向けてしまえるんですね。

 則子さん、何度、お鍋をこがして、危うく「火事」になりかけた、ことか。

 過去から未来へ時系列で考えている、めんどくさい考え方のボクは、過去にぐつぐつ煮ていた「過去」「お鍋」が気になって、則子さんのように未来へ全面的に身を投げ出すことはできなくて、どうしよう、過去か未来か、いったりきたりするんですね。

 白いメーヴェに乗って、風の谷からどこまでも飛んでいくナウシカのように、則子さんは、白いバイクに乗って、どこまでも飛んでいきます。

 ぼくは、必死になって飛翔するナウシカの後を追っていく、工房都市ペジテのアスベルでしか、ありません。

 宮崎駿さんがマンガ版「風の谷のナウシカ」の中で、ナウシカの相手を、当初のアスベルから、「森の人」に変更したことは、一部のファンにはすごく不評でした。ぼくも、そうです。

 ボクは人類の未来を行動で救おうとするナウシカ=則子さんの後を追って、ナウシカ=則子さんと共に生きようとするアスベルです。

 自分の「思考」の力でも、すこしはナウシカの「行動」の助けになるのではないか、と思いながら、生きてきた30数年、それを書いていけたらと思います。

 仮称『銀河とタンポポ ー雨宮智彦自伝ー』を、近いうちに始めます。則子さんとぼくの物語です。

 


雨宮日記 5月5日(日) 「端午の節句」「薬狩」「子どもの日」でした

2013年05月06日 05時50分39秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 5月5日(日) 「端午の節句」「薬狩」「子どもの日」でした

 浜松まつりの最終日、今日もいい天気でした。浜松市では「浜松まつりの3日間のうち1日だけ必ず雨が降る」という「都市伝説」があるのですが、今年はノストラダムスの預言のようにハズレでした。

 今日、次女のアイさんは、昨夜から実家に1人で行って、実家の一家(誰が行ったのかは不明)と則子さんの妹とその娘で、中田島の凧あげ会場に行きました。

 夜は、中心街の今年初めて(今年限りか?)の「ディズニー」パレードと屋台を見たようです。

 午後9時頃に帰って来て、則子さんに「凧は一度は見といたほうがいいよ」と言ってましたから、良かったのでしょう(2度は見なくてもいいという意味か?)。

 ボクが「ディズニーは見えた?」と聞いたら、「ビルの谷間から一瞬見えた」と言ってました。「すごい人で動けなかった」そうです。

  ☆

 全国的にいうと「子供の日」という祝日です。民俗学的にいうと「端午の節句」で、5月5日は、野に出て薬草を摘む「薬狩(くすりがり)」の日です。

 『日本書紀』の推古天皇の19年に「夏五月五日、菟田野(うだの)に薬狩す」とあります。

 「背比べ」は1919年に作られた、海野厚さん作詞、中山晋平さん作曲の童謡ですが「柱の傷はおととしの 五月五日の背比べ ちまき食べ食べ 兄さんが測ってくれた 背のたけ」と歌っています。

 5月5日に「ちまき」や「柏餅」と食べるのは、「ちまき(茅巻)」の「ち」である茅(ちがや)の葉や柏の葉」が薬であり、霊力があるとされていたからです。

 つまり「古代科学」であり、今でも東洋・中国の「漢方薬」になっています。

 ボクの師匠の一人(逢ったこともないですが勝手に「師匠」とさせていただいてます)である加藤文三さんは、この叙述の種本である『民謡歳時記(上)』青木書店(今はもう倒産してないようです)、1980年、の中で「私たちが、なにげなく守ってきた古い行事には、昔からの人びとが病気とたたかうために見つけだしたクスリが、目に見えない形で生かされいるのがわかる」(「17 菖蒲湯」、p217)と書いています。同感です。

 わが「師匠」の人たちについては、「雨宮自伝」のなかで書きたいと思っています。


本と映像の森 252 小川一水著『ここほれONEーONE!』集英社スーパーダッシュ文庫

2013年05月04日 20時24分13秒 | 本と映像の森

本と映像の森 252 小川一水著『ここほれONEーONE!』集英社スーパーダッシュ文庫、2001年10月30日第1刷発行、文庫版、221ページ、定価本体514円+消費税、浜松市立中央図書館蔵書

 現代日本のSF小説です。小川一水さんは1975年生まれですから、今年で38才、まだ若いですね。以前に小川一水さんの『時砂の王』を紹介したつもりだったのすが、今検索したらひっかかってこないので、してないんですね。また後でします。

 この「ここほれ、わんーわん!」は少し軽いタッチの、でも内容は重いSFです。雨宮智彦くん、お勧めです!

 日本海に面する白穂県(しらほけん)の県庁所在地の井立市(いだてし)で物語は始まります。

 物語の中で要平くんのお祖父さんの要蔵さんが暗唱していた伝承に「出羽白穂の国」(p91)という文章があるので、リアル地図でいうと山形県という感じでしょうか。

 井立市の中心街の雑居ビルの1階にある小さな会社「山水ジオテクノ」社のドアを2人の高校生が叩くところから物語は始まります。

 まん丸いTシャツにジーパンは渡拓丸(わたりたくまる)という機械オタクで、背の高い作務衣(さむえ)にわらじ履きは竹葉要平という地質オタク。

 山水ジオテクノ社の「社長」と自己紹介する若い、どうみても10代の少女「山水備絵(さんすいそなえ)」と出合うことから、物語が火花をスパークさせます。

 つまり、この3人とも10代ということで、どう見ても「青春小説」です。そして「恋愛小説」です。

 要平が家に昔から伝わる謎の地点を描いた地図と、山水備絵たち「山水ジオテクノ」のメンバーが追い求める、謎の「鉄床石(かなとこいし)」とが一致してしまい、若い男子高校生2人と「山水ジオテクノ」の共同探索が始まります。

 まだ謎解きには早いので、それは2巻に譲って,今は名言集です。

 「大地は過去を隠します。しかし、消し去ることはないんですよ」(靜堀老人、p123)

 「あなた(要平のこと)は本当に,地上に縛られていないんだ。普通の人間は、目に見える地上に世界のすべてがあると思っているのに。だったらこの意味もわかるよね」備絵は腰をかがめてささやいた。「土の塊は地球だけじゃない」(p134)

 備絵と要平のいのちの危機を脱した後のふたりの会話。

 「おれがいてもいなくても、たいして変わりないだろう?」(要平)。「そんなこと言うの?拒まなかったくせに」(備絵)。「なにを」と言いかけて、要平はピタリと口を閉じる。やや赤くなっている。

 2巻に続きます。


雨宮日記 5月4日(土) 浜松まつりなのに静かな夜…

2013年05月04日 20時05分54秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 5月4日(土) 浜松まつりなのに静かな夜…

 浜松祭り2日目というのに、則子さんは普通に午後4時までの仕事に行きました。「ニラの仕分けでずっと立ちっぱなしで疲れたあ」。

 次女のIさんが今夜は実家に泊まって、明日、則子の妹(アイさんからは「おばさん」)とその娘(アイさんからは「いとこ」)と一緒に「たこ」を見に行くというので、車で送りました。

 「たこ」を見に行くというのは、水族館へ行くのではなくて、中田島の海岸へ「凧揚げ」を見に行くのです。浜松の凧揚げは「けんかだこ」と行って,他の町のたこの糸に自分の町の糸をからませてこちたの糸を高速で上下させて摩擦熱で相手の町のたこ糸を焼き切るのです。

  ☆

 今、夜20時5分頃、わが家の前を「初練り」の隊列がラッパとともに、リズミカルなかけ声と共に通り過ぎました。昔にくらべ、夜は早めに静かになるし、どうしようもない酔っぱらい達も少なくなりました。でも、いまでも、深夜、建物の陰や道路に気持ちよさそうに眠り込んでいるはっぴ男達がいます。

 ☆

 ぼくと兄の小さい頃の、たぶん和地山公園(戦前の和地山練兵場)での写真があったのでアップします。町は中心街の「新町」です。ぼくが小学校1年まで新町にいました。

 今は「中央何丁目」になってしまって町名からはきえてしまい、「新町」バス停としてのみ名前が残っています。

 兄が口にくわえているのは、たぶん食べ物ではなくて、ピッ!ピッ!と鳴らす祭りの笛です。