雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮家の歴史 9 父の著『落葉松』 第1部の6 東京開成中学校

2013年05月04日 20時01分06秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 9 父の著『落葉松』 第1部の6 東京開成中学校

( 五 ) 朝富士夕筑波を眺め通いし
             少年時の墨堤(ぼくてい)今も眼に見ゆ
                    (  昭和四十六年  )

  「私は小学校を赤羽(あかばね)と向島(むこうじま)の二校で過ごしたが、いわゆるよそもので、同級生はおろか学校そのものの、その後も知らない」と、福男は回想している。赤羽は赤羽小学校であろうが、向島へはいつ移ったのであろうか。

 「赤羽倉庫在勤被差免    本廠附被申付
       明治三十年十一月十一日
               陸軍被服廠」

  被服廠は、日清戦争が始まると、麹町区霞ヶ関、京橋区築地その他に派出所・倉庫を建てて戦用被服諸品の調達、補給に任じた。戦後その内の本所区横網町の倉庫所在地に、被服廠庁舎を移して本廠とし、赤羽を支倉庫とした。それが明治三十年三月であったから、向島へは辞令の日付のように、その年の十一月であったろうか。

   本廠は、両国国技館の北に当たり、今は墨田区である。しかし、本所と赤羽の二っにわかれていると、いろいろと不便があった。その為赤羽に集中することになり、大正八年八月本所の本廠全機関も赤羽に移った。こうして被服廠は終戦まで赤羽にあった。もし本所に残っておれば、関東大震災時の被服廠跡の惨事は起こらなかったであろう。


  「大正十二年九月一日、旋風の大きさは国技館ぐらい、百ないし二百メートルという高さだったという。間もなく横網町の河岸に上陸した。被服廠跡の空き地に避難していた群衆の荷物、着物に燃え移り、火の海となった。たちまち、一場の焦熱地獄を現出し、三万八千余人の命を奪い去ったのである」(『墨田区史』)
  今、この跡地に、震災慰霊堂や今次の東京大空襲慰霊堂が建っている。

  向島は向島小梅町一九五番地で、言間橋(ことといばし)と吾妻橋の間の東岸に当たり、今は向島一丁目で、牛島神社がある。ここに陸軍官舎があった。小学校はその北側に現在ある墨田区立小梅小学校である。            

  福男は明治三十三年四月、東京開成中学校に入学した。              

 「私の住んでいた明治三十五、六年ごろは、隅田川の水もきれいで、冬の朝など霧が立ちこめて対岸が見えず、桜の名所の向島の堤の下では(天気がよければここから向こうに筑波山が見えた)小舟が三角形の網を使って小魚を捕っていた。また冬の天気の良い日には、遙か西空に白く雪の覆われた富士山が王者のように控えていた。

 隅田川を渡るには吾妻橋が一番近く、これを渡ると浅草観音で、有名な駒形どじょう汁の店も近い。当時の少年の私には、榎本武揚(えのもとたけあき)の存在が大きかった。屋敷もどこだか分からぬが、兎に角向島より奥の方である。(長命寺の近くであったー筆者)

 朝、神田の学校へ通うので、向島の堤を吾妻橋の方向かって行くとき、二頭仕立ての馬車に悠然と乗ってあごひげを左右に分け、風になびかせて行く姿には、あれが五稜郭の戦いで有名をとどらかせた人かと、仰ぎ見たのであった」(福男雑文集)。
 
 開成中学校は当時神田の昌平橋にあった。まだ市電も無く歩いて通った。一時間ぐらいかかった。その時見た筑波も富士も今は見ることが出来ない。神田の校舎は関東大震災の時焼けて、今は西日暮里に移った。
 

 神田の淡路公園に「開成学園発祥の地」と書かれた石碑がある。公園といっても、子供のブランコや滑り台のある遊園地で、その草むらの奥の方に埋もれている。校長は田辺新之助(おでこだったのでデコ新と言われた)、同級生にのち東大法学部長となった末広巌太郎がいた。ガンちゃんといって一緒に遊んだそうである。

  開成の校友会誌第三十号(明治三十六年二月)に「天竜川の夕」と題して福男の文が載った。

  「天竜川は洋々として、北より南に向かって流れている。向岸には面白そうな歌をうたっている船人が、一列になって、夕日にきらきら光っている小石をふみながら、綱で船を引っ張っている。川の中流には、船の割には大きい白帆を、北風に孕ませながら、一帆の舟が走っていたが、流れが早いためか、たちまちかくれてしまう。すると間もなく又、山と山の間から、夕日を浴びて見えてくる。

 日は今、西の森に沈もうとして、一筋の光が樹の間から洩れてくる。やがてその光もうすらいで、山寺の鐘が余韻を曳いて鳴りひびくと、山家の子どもが足でもそそぎに来たのであろう、熊笹を押し分けて降りて来た。其衣服は木綿のきれぎれを綴りあわせたものであるが、顔にはどことなく愛らしい影が宿っていた。」(現代仮名づかいに直してある)。

  卓二の生家、天竜市船明を訪れた時の事だと思うが、当時の天竜川の状景が鮮やかに浮かび上がってくるようである。

  福男が入学した時に、最上級生に斉藤茂吉がいた。無論その時は知る由もなく、後年アララギに入会した折りに知った。伊藤左千夫を中心にアララギが創刊されたのは明治四十一年であり、茂吉が東京帝国大学医科大学を卒業したのは四十二年、四十四年一月からアララギの編集を担当するようになった。


  向島にいたころ『少年世界』の愛読者で、毎号博文館から配達されてくるのを待ち続けた思いは今も忘れない、と言っている。『少年世界』は巖谷小波(いわやさざなみ)が童話の世界を開拓して創刊した雑誌である。

 開成の校友会誌の文章といい、文学少年だったようで、後年の書店勤め、アララギ入会、古本屋開業も、皆その尾を引いている。
 福男は、明治三十八年蛍雪の功なり、開成を卒業した。

 「 第八七四号     卒 業 証 書
          静岡県平民     中 谷 福  男
                     明治二十一年八月生
   中学ノ学科ヲ修メ成規ノ試業ヲ経テ正二
  其業ヲ終ヘタリ  ヨッテ此証書ヲ授与ス
       明治三十八季四月十五日
   東京開成中学校長    田辺新之助 」

  福男の卒業証書は先年、開成学園に寄付した。開成にも無いそうで、大判和紙づくりの立派なものであった。戦前には、平民という訳の分からない言葉があった。私たちも履歴書の名前の筆頭には必ず書かされたものである。この風習は昭和二十年八月の敗戦まで続いた。

 


雨宮日記 5月3日(金) 則子さんの実家で伊藤一族の飲み会

2013年05月04日 05時50分09秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 5月3日(金) 則子さんの実家で伊藤一族の飲み会

 妻の則子さんの実家は現在の北区初生町です。福岡にいる則子さんの妹のM子さんとその娘のMさんが「浜松祭りをちゃんと見たい」と来るので、久しぶりに伊藤一族で集まりました。

 ボクと則子さんの娘のT夫妻と、アイさんも、なんだか初生になじんでいて、当然のように参加しました。

 ボクは夜、仕事なので飲めないのでお茶とコーヒーでガマンしていました。いろいろ今の「嵐ファン」の話とか、昔の伊藤家の家の柿の木とかで盛り上がりました。

 則子さんは長女なのですが、昔のことはあまり覚えていなくて、次女のM子さんが昔の伊藤家の家や敷地をイメージ的に覚えていて、それを描いてくださいという話になりました。

 そしたら「お姉さん(則子さん)は、家にいたことがなかった」「お姉さんは家にいないので、一番下の弟のAは、私(次女のM子)の上にお姉さんがいるのを小さいとき知らなかった」という話になって、みんな大笑いしました。

 ぼくは納得しました。結婚して雨宮家にくる以前から、則子さんは「家にはいない人」だったんですね。ぼくは「お嫁さん、いつもどこに隠しているの」と近所の人に言われましたから。「いえ、隠しているんじゃなくて、毎日どっかに行っていて、いないんです」

  ☆

 もうすこし話していくという長女夫妻と次女を置いて、則子さんと9時前に車で帰りました。十軒橋を渡ったら、早出町の屋台でいつも曲がる角から入れないので、もうひとつ前の細い道から入って家へ戻りました。

 わが家は、十軒町でも、すぐ早出町になるので、毎年、早出町の屋台を見ることができます。十軒町は屋台がありません。新しく作るのは、数千万円かかるので、大変なんです。

 


雨宮家の歴史 8 父の著『落葉松』 第1部の5 日清戦争

2013年05月03日 06時15分55秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 8 父の著『落葉松』 第1部の5 日清戦争

 Ⅰ 5 日清戦争

 (四) ランプのもと征でゆく父の 軍服姿幻のごと幼き記憶

  ( 昭和四十六年 )

  この歌の創られた時、父は八十三歳であった。日清戦争の起きた明治二十七年は六歳であるから、実に七十七年前の記憶になる。私の自分史の原点の「まっ黒なかたまり」の記憶は七十年前であるから、それより更に古い記憶である。電灯はまだ一般家庭には高嶺の花で、ランプ生活が主であった。

 吊るされた薄暗いランプの光に映し出された、父卓二の軍服姿が、異様に脳裏に灼き付けられたに違いない。

  明治二十七年六月五日の夕刻、広島市民は城内にある第五師団司令部の方から、三発の号砲の轟くのを聞いた。やがて市内の各所の半鐘が、けたたましく非常呼集の合図を鳴らし、非番の巡査がサーベル(編注①)をがちゃつかせながら本署へと急行した。

 大本営がこの日設置されて、午後四時、第五師団に対し動員令を下したのである。師団長野津道貫は、広島・尾道・松江の各大隊区司令部を中心とする、管下二二九〇名の予備役軍人に、充員召集を命令した。(広島県庁編『広島臨戦地日誌』一八九九年)

  卓二は、この動員下令された第五師団衛生隊付の経理官として、七月二十三日に発令された。これは野戦監督長(軍需物資調達の最高責任者)野田中将の命令だったのである。

 衛生隊付で第一線には出ないであろうとはいえ、戦地となれば一応最悪の覚悟はせねばならない。出征するに当たり、卓二には解決しておかねばならない問題があった。後妻まつの籍のことである。先妻しまは他家へ嫁いで、中谷家の籍から消えていたから、まつの入籍に支障はなかった筈であるが、養父との間に感情的なものがあったのかも知れない。

 そのため、福男と孝男の二人は、まつの二俣の実家の天井家の戸籍に私生児として置かれていた。出征するに当たり、どうしても解決して置かねばならない問題であった。

 出征中の「二十七年九月二十九日  母まつ携帯入籍ス  婦まつ私生児ヲ養嗣子卓二ニ長男ニ引直ス」と、やっと中谷家の戸籍に入った。次男孝男も同様であった。

 携帯入籍とは子連れ入籍のことであろう。引直スとは改める、作り替えるこであるから、私生児を長男、次男に改めることになる。ややこしいことであったが、万一の場合に、父無し子にならないで済むことになった。

 卓二は七月二十五日に東京を出発(二日間しか猶予がなかった)二十七日広島着、衛生隊編成のため八月十四日まで軍吏(将校)の命を受け、経理諸務に従事した。以下、戦後叙勲のために書いた経歴書より朝鮮における卓二の行動は次のようであった。

 「一、八月十五日渡韓の命を受け、宇品港乗船出帆。釜山港を経て二十三日仁川港上陸。直ちに出発、二十四日龍山着。三十一日まで滞営、経理諸務に従事す。

 一、九月一日出発北進、十三日大同江を渡り、平壌に向け昼夜兼行し、十五日平壌付近に包帯所を開設し、負傷者治療す。午後二時平壌入城の命を受け、出発平壌に宿営す。

 一、南部兵法監部仁川病院付命ぜられ、十月二日平壌出発、六日仁川港着、経理一切の事務に従事する。  

 一、十二月二十五日、陸軍一等書記(経理曹長)に任ぜられる。

 一、二十八年四月二十日、龍山兵法司令部勤務を命ぜられ、二十六日仁川出発、同日龍山着、同司令部経理事務に従事する。
   上の通り相違之無候也
     龍山兵法司令部付   陸軍一等書記
               中 谷 卓  二
   明治二十八年十月七日
    静岡県遠江国麁玉村大平六十番地
    東京府下北豊島郡岩渕村袋百十三番地」

  広島大本営も二十八年五月二十九日に東京に帰った。卓二も経歴書の日付が十月七日であるので、それまでに帰ったものと思われる。

 しかし、明治三十年四月一日付で「明治二十七、八年戦役ニ継キ再ヒ朝鮮地方ニ於テ軍務ニ服シ其功不少ニ付金四十円ヲ賜フ」と賞勲局から褒賞されているので、再渡鮮して残務整理の任に当たったようである。私も先の大戦で、朝鮮軍の残務整理に当たり、父子ならぬ祖父、孫二代(在鮮記で後述)の因縁を感ずる次第である。

 明治二十八年三月二十四日から、下関で日清講和会議が始まり、四月十七日に講和条約が調印された。しかし、独・仏・露の三国干渉により、遼東半島を還付せざるをえなくなり、「臥薪嘗胆」なる言葉が流行した。

(編注①)「サーベル」 軍人や警官が所持した刃にそりのある細身の西洋剣。 

 


雨宮日記 5月2日(水) GWというのに北海道では雪!太陽異変?

2013年05月03日 05時49分44秒 | 雨宮日誌

 雨宮日記 5月2日(水) GWというのに北海道では雪!太陽異変?

 11年周期で増減する太陽黒点が「異常」で、太陽黒点がほとんど見られない「太陽活動極小期」に入ったのではないか、ともいわれています。

 昔の「マウンダー極小期」にはロンドンでもテムズ川が凍ったと書かれています。

 今年も、また、北アルプスや富士山で、雪崩や滑落者が出ています。まあ、これは異常気象が原因ではなくて、きちんと装備をしていない登山者が原因かもしれませんが。

 ☆

 富士山の「世界遺産登録」は、「三保の松原を除外して」という条件ですが、登録になりそうです。

 富士火山の「噴火」が間近に(たぶん1~2年?)迫っている緊迫した状況ですが、「世界遺産登録」に関連してマスコミで、富士山噴火に触れた記事・コメントがまったくないのは、なにか変です。

 富士山噴火に触れると「世界遺産登録」が怪しくなるかも、という暗黙の了解でもあるのでしょうか。

 もし富士山噴火があるとすると、可能性の高いのは、9世紀の貞観噴火のような「溶岩」流出ですね。宝永噴火のような火山灰ではなさそうです。違っていたらごめんなさい。

 そして、たぶん、富士山の東北から南西の線上で起きそうです。今起きている地下活動が富士山の北東の地下で起きているのと、「地下水異常」が富士山の南西で起きているからです。

 貞観噴火は、北西=南東の線で起きましたから、それとは180度ずれるのかも知れません。

 ☆

 5月2日の訪問者は160人、閲覧数(ヒット数)は575回です。つまり160人が見にきてくれて、1人あたり4.0回の閲覧です。

 順位はgooの186万6019ブログの中の6548位です。

 


遠州の遺跡・寺社・地名 104 浜松市東区西ヶ崎町の八幡神社

2013年05月02日 06時35分46秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名 104 浜松市東区西ヶ崎町の八幡神社

 遠鉄電車西ヶ崎駅から少し西にあります。

 車で通りかかって、大きな森があったので、「あ!これは神社だな」と思って、車を走らせました。

 この八幡神社は、ほぼ東向きです。正確には参拝者が神社に正対すると、287度(現地で雨宮が測定)ですから、神社の祭神から見ると真東は90度、真西は270度ですから、それからずれるので、祭神から見て17度北へずれています。

 こういうことの意味は、すこし考えます。

 祭神は、応神天皇(男性)・玉依(たまより)姫(女性)・神功皇后(女性)の男性1人・女性2人です。

 玉依(たまより)姫は、九州の土着の女性で、伝承では神武天皇の父の「うがやふきあえず」の妻とされる。

 横に児童公園があって、若いお母さんと小さい子どもが遊びに来ていました。

 


雨宮日記 5月1日(水) 則子さんが障害者就労支援施設に働きに

2013年05月02日 06時24分19秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 5月1日(水) 則子さんが障害者就労支援施設に働きに

 5月です。英語で「メイ」です。次女のIさんの勤務先は浜松駅前の「メイワン」ビル内の本屋さんです。

 5月は「さつき」で田植えの月、アマガエルが水を入れた田んぼで鳴き始める月です。

 則子さんは5月1日から、「9時~4時」勤務で新しい勤め先に正式に勤め始めました。「正式に」という意味は4月末から「早く来てほしい」というので、午前中だけ行っていたからです。

 今は、東区小池町の株式会社「ドナルドの家」本部に行ってます。

 初めて「ドナルドの家」という名前を聞いて、ぼくが言った一言。「前のような、責任者が「どなるぞ!」の家じゃなくてよかったね!」。則子さんは苦笑いしてました。

 


雨宮日記 4月27日(土)夜② 父の90才お祝い会②(写真追加)

2013年05月02日 05時55分16秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 4月27日(土)夜② 父の90才お祝い会②(写真追加)

 ぼくは、だいたいカメラマンで、撮影をしています。父の卒寿お祝い会の写真を、やっと長女から電話で「お父さん、3日の伊藤家に集まるときには、写真持ってきてね」と言われて、長女の言うことですから断れず「はい」と。

 則子さんと2人で,コンビニへ何回か行き、集合写真と個別写真を選んでプリントしました。昔と違って写真屋さんは近くになくなっちゃったので、コンビニで「マルチコピー機」で自分で選んで、これは何枚、これは2枚と決定してプリントします。1枚30円です。

 かなり時間がかかるのと、もし、その店へちょうどコピーしに来た人がいると、待ってもらわないといけないので、たいへんです。

 なんとかプリントアウトしました。則子さんが2500円くらい支出しました。

 『落葉松』の索引作成は、5月1日夜現在で、200ページまでいきました。あと50数ページです。「人命索引」「地名索引」など細かく作って、A4の2段組で5~6ページになります。こういう作業は、考えなくてよくて、目で見て指先で打っていくだけの仕事なので、どっちかというと好きですね。

 指先の体操ですから、ストレス解消の、気晴らしになります。


雨宮家の歴史 7 父の著『落葉松』 第1部の4 陸軍被服廠

2013年05月01日 06時46分44秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 7 父の著『落葉松』 第1部の4 陸軍被服廠

 Ⅰ 4 陸軍被服廠

  卓二は名古屋鎮台の歩兵六連隊付となったが、すぐ福井大隊区司令部付となって、福井に赴任した。父福男の誕生は前章で書いたが、「明治二十三年九月四日  第三師団附差免  被服廠附申付  陸軍省」なる辞令を受けて、三年余りの福井勤務を終えて、古巣の東京に帰ることになった。福男も二歳になり、既に東海道線も全線開通していた。

  陸軍被服廠は、卓二が会計卒になった時、配属された服庫課が明治十九年三月に被服廠条例が施行されて昇格したものである。庁舎は麹町区有楽町にあり、倉庫が築地明石町と深川大工町にあった。この二っの倉庫を赤羽に一本化する事になり、明治二十四年二月一日完了した。卓二はこの仕事に関わったのである。

 赤羽倉庫は北豊島郡岩渕村赤羽(今の赤羽台一、二丁目)に設けられ、卓二はこの赤羽倉庫勤務となった。なお、階級が上って二等書記(経理軍曹)となった。

(三) わが育ちし 家あとも無く 枯桑畑の しらじらとして 亡き父思う ( 昭和三十六年 )

  卓二は住まいを赤羽倉庫に近い岩渕村袋に持った。現在、地下鉄南北線の始発駅である、赤羽岩渕駅と荒川の間に位置する赤羽二丁目であるが、当時は農家の点在する田畑であった。

 明治初年、新政府は東京を朱引内(旧市内)と朱引外(新市外)とに分け、朱引外では空き地を開墾して、桑や茶の植え付けを奨励した。このため岩渕辺りでも桑畑が多かった。陸軍官舎といっても、農家を借り上げたものであり、藁屋根の家で、縁側に糸車が見え、子供たちは着物姿であった。

  後年、明治三十六年のこと、東北線を走っていた機関車の煙突よりの火の粉が、岩渕村の農家の藁屋根に飛び火して火事となり、近隣にも燃え移って、赤羽駅・岩渕小学校・陸軍官舎など二百余戸を焼失した。

  この陸軍官舎は、卓二たちの住居だったと思われるが、その時は本所の本廠勤務で、向島小梅町に移っていたので、災害は免かれた。

  この岩淵で福男の弟・次男孝男(芝区白金三光町)、妹・次女花(本郷区菊坂町の安藤家に嫁す)が生まれた。この間に日清戦争が起こり、卓二も出征することになった。

 


雨宮日記 4月30日(火) ぐたっと「くつろぐ」豆子(雨宮家次女兎)

2013年05月01日 06時20分55秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 4月30日(火) ぐたっと「くつろぐ」豆子(雨宮家次女兎)

 くつろいで,足を投げ出して休んでいる、次女の兎「豆子」です。

 つねに生命の危険にさらされている「野生」動物としてはあり得ない、「しどけない」姿ですが、「ペット」「家畜」としては、まあしょうがないかと、苦笑してしまいます。

 好物は、ニンジンとチンゲンサイなどの野菜です。普通は、近くのストアで買ってきた野菜なのですが、ときどき、妹夫婦(農家)が野菜を持ってきてくれると、新鮮で農薬が少ないので「すごくおいしい!」のがわかるのか、夢中で食べ始めます。

 何か不満・不安があると、足で床をコン!と蹴って知らせます。何が言いたいのか?口がきけないので、わからないんですね。

 今日は、いつもは丸薬状のコロコロしたウンチなのが,少しネバネバしたウンチだったので、飼い主の次女は心配しています。暑くなったからでしょうか?

  ☆

 父の本『落葉松』の「索引」を作り始めました。「索引」が完成したら、父のともだちや、ぼくや則子さんのともだちに発送します。それまでお待ちください。いま、80ページ付近までいきました。たぶん、連休明けには完成すると思います。

 

 


雨宮日記 4月29日(月) もらい物で料理…

2013年05月01日 06時07分27秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 4月29日(月) もらい物で料理…

 夕食で、頂いたものがおいしかったです。

 土曜日の父の90才お祝い会で久しぶりに会ったM家のYさんは年上で、ぼくのおばあちゃんの実家のM家の人で、ボクが小さい頃から雨宮家に出入りしていて、「Yちゃん」「Yちゃん」と呼んで、ずっと親しくしていた人です。浜松北高の先輩になります。

 最近は畑仕事をしていて、ときどき野菜をもらいます。写真は、Yさんからもらった「エンドウとわかめ」です。エンドウはYさんが畑でとったエンドウで、ワカメは「御前崎灯台の下の岩場」でとったワカメです。おいしかったです。

 写真のもう一つのアサリは、長女夫妻が里帰りして岡崎市で潮干狩りしてきた「アサリ」です。浜松の人はご存じのように、浜名湖のアサリは今年「不作」で、「潮干狩り中止」という事態になりました。やはり、温暖化などによる自然の危機でしょうか。

 岡崎のアサリも、おいしかったです。Tさん(長女)、Tくん(長女の夫)、ありがとう。