駿 府 は 96 か 町

駿府はちぃっと覇気がないけぇが,御所(ごせ)っぽくていいじゃん【ごせっぽい≒平穏でせいせいしている様】

ちぃと前の紺屋町

2008年08月31日 05時01分40秒 | 街かどのメヌエット
<ひとあし先(9/3)にオープンの再開発地区の駐車場棟>

◆ 現在の紺屋町の静岡駅寄りの地域は、
かつては「南安東村 字足名」で駿府市中ではありませんでした。
「かねやすより外」どころではない本当に田舎だったのでしょう。
そんな昔の状況は知る由もありませんが、
1960年ごろからのことならかなり記憶に残っています。

現在、紺屋町の最も駅寄りの街区には2年後の完成を目指し
25階建の再開発ビルを建設中ですが
ここには日興会館がありました。

1959年ごろだと思いますが、この日興会館内に西武百貨店が進出してきました。
当時、西武は沼津店があり「沼津で東京のお買いもの」と
さかんにラジオでCMを流していましたが
それが「静岡で東京のお買いもの」のCMも流されるようになりました。
でも、たしか1年くらいで業績不審で撤退してしまいました。
当時はまだ、静岡で東京風は時期尚早だったのでしょう。

そのころ、現在の静岡パルコのところには
わさび漬けの田丸屋が主婦の店を営業していました。(いつからかは記憶にないです)
建物は平屋で、食料品スーパーの主婦の店のほかにテナントなども入っていましたが
子どもだったせいか喜久屋や扇子屋などのお菓子屋しか覚えていません。(笑)

1970年、その主婦の店のあった場所に西武百貨店が再び進出してきました。
(ビルのオーナーは主婦の店で、当初、近隣商店街への影響を配慮して
  近い将来8階建てに増築することができるようにした7階建でした)
西武としては前回の屈辱を晴らすべく、かなり力コブを入れた進出だったと思います。
(当時、よくクワイ河マーチが流れていて、この曲がよほど好きなデパートなんだなぁ
と思っていました、それは当日の売り上げが目標に達したときに
店員に知らせるためのものだったようです)

2005年、その西武も撤退、歴史は繰り返すの実例を目の当たりに見る思いでしした。
(結局、西武のことばかりになってしまいました。(笑))
それはともかく、静岡市当局も関与する再開発ビルの完成を楽しみにすることにいたしましょう。(やや冷笑)


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紺屋町(こうやまち)

2008年08月30日 22時16分08秒 | 駿府96か町のいま


<古くからの店もある、平野屋の創業は1637年とか・・・>


<御幸通り方面へは見通せない>


<慶喜公屋敷跡の浮月楼>

旧【紺屋町】は碁盤の目地区最東端に当る町
(というより碁盤の目地区から東へ張り出した地区と言った方が正確かもしれません)で、
江川町通りのひとつ東側に平行する南北の道沿いの町(丁目は付かない)でした。

今は「紺屋町通り」というと呉服町通りの延長部分である東西の道(パルコの前の通り)を言うことが多いのですが、
もともとは南北の通り沿い(中島屋玄関前の通り)で2丁を超える長さがあったようです。

静岡駅の開業により駅方向への道が次第にメインとなったため、
本来の紺屋町通りは「通り」としてのまとまりは失われ、
「横丁(関西で言う筋)」的になってしまったといえます。

碁盤の目地区の「1町=1丁」の原則からはずれているのは、
東側は代官屋敷等で実質的に西側に町が偏っていたからではないかと推測されます。

この紺屋町通りの北側は直線でなくやや東へ曲っていますが、
これは都市計画で御幸通りができたとき、御幸通りとの接続の関係で曲げられてしまったようです。
(曲った道を直線にされる例は多くても、もともとまっすぐな道を曲げてしまう例は少ないような気がします。)

紺屋町の読み方は、一般には「こうやまち」と読むのが主流なのでしょうが、
高齢者を中心に「こんやちょう」という言い方をされることもあります。
(二通りの読み方が混在していたという事実は興味深いのですが、
 その昔は地名に使う漢字もいろいろな当て字が使われていたように、
 地名の読み方も今日のように厳格性が求められるものではなく、
 通じればよかったのかもしれません。
 あるいは明治になって多くの幕臣が静岡へきたため、
 江戸の町名の読み方「こんやちょう」が広まったのかもしれません。←と思ったのですが、
 古い地図に「コンヤ丁」と記したものがありましたのでちょいと違うかもしれません。)

旧紺屋町を現在の町名で言うと
紺屋町2~4、6、7、11、12番地の各一部(現在の紺屋町の静岡駅に近い部分は、江戸期には駿府市中ではなかった。)
(町名変更は1945年)


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方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、
ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって両替町通りは東西、江川町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。
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下桶屋町(しも おけやちょう)

2008年08月27日 09時14分04秒 | 駿府96か町のいま
この建物は、かつてビアホール(ニューキラク)として有名だったが、
今では転売されて業態が変わってしまった

このあたりにしてはめずらしく普通の民家もある

荷居屋のおじいさんも健在(?)

◆  地名に付く「下」「裏」「四」などは嫌われがちのようです。
例えば「四」については、新しく住居表示を実施しようとするとき、
たいてい「四丁目」や「4番」はいやだと地元から言われるらしいです。

実際、住居表示地区の地図をよく見ると、街区符号の「4番」や「42番」は、
意図的に欠番とされたり、
公園や公共施設しかない街区に振られていることも多いようです。

東京・銀座で賑やかなのは四丁目交差点付近ですですし、
 京都も四条通りが代表的な繁華街だったりします。
 また、江戸の「通(とおり)四丁目」にあった
 海苔問屋・井上海苔店(現在は小舟町)など
 「シチョウメ」が屋号のごとく使われたと言った事実もあるのですが・・・

駿府城下の「下」が付く町名はことごとく消滅してしまっていますが、
「下桶屋町」も 「上桶屋町」は現存するのになくなってしまっているというのは、
そんな世間の風潮と無関係とは言えないのでしょう。

特定の字にマイナーなイメージを重ねてこだわったりするのは、
個人的にはどうも納得がいきませんし好きではありません。
むしろ、過去にそういう字が付けられた経緯を考え
誇りに思うべきだとさえ思います。

それはともかく、旧「下桶屋町(丁目は付かない)」は、
鍛冶町で行きどまりになっていた南北の江川町通りの南端から
東西に広がる町でした。
(現・玄南通りから東へ江川町通りを越え、
旧紺屋町通り(中島屋ホテルの玄関がある南北の通り)まで)
碁盤の目地区の南東の端であるためか、この町は約2丁近くの長さがありました。

この下桶屋町だった通りは
現在裏通り的な感じで特別注目されることもほとんどないようです。
(個人的には、町名を失ってしまったことも大きいような気がするのですが・・・・)

◆ 下桶屋町(江戸期における)を現在の町名で言うと
常磐町一丁目1・6番地の一部
昭和町1・2・3・4番地の一部
紺屋町13・14番地の一部
(町名変更は1945年)



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◆ 方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、
JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、
ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって呉服町通りは東西、江川町通りは南北の通りということになります。

◆ その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。
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静岡駅前広場<suite>

2008年08月25日 21時28分29秒 | 街かどのメヌエット


工事中の地下広場部分の囲いがとれた。
政令市の玄関口にふさわしいものをと足かけ5年(2005年6月~すべて完成は2009年3月とか)の歳月をかけて意気込んだにしては、浜松駅前のそれにそっくりのような気がします。(笑)
この地下広場とここから地上を結ぶ取り付け部が利用できるのは9月9日夕方からとか・・・


掲出がちょいと早すぎるような・・・


▼追記
ここの工事現場の囲いの前にいたホームレスのおじさんは、引越し先がみつかったのかなぁー
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旧町名復活と「○○台」など

2008年08月24日 00時33分27秒 | ナイーブなモノローグ
<駿府城中堀取水場、かつて枯れていた中堀は井水により満たされている。(本文とは関係ありません。)>


◆ 旧町名復活
旧町名の復活で有名なのは金沢市ですね。(ほかに長崎市などもあり)
すでに主計町、下石引町、六枚町、袋町などが復活し、なお作業を継続中のようです。

金沢市の旧町名復活では注目すべき点があります。
というのは、新住居表示制度では町の界を必ず道路や鉄道・河川などの恒久的施設とするよう定めているのですが、金沢市では旧町名復活にあたって、必ずしもこれにこだわらず、町界を背割方式(道路に沿って建ち並んでいる家の背面側を町界とするもの)とすることも容認している点です。

住居表示の実施により、各地で町名が全く変わってしまった例が多いのは、背割方式を自治省(当時)が認めなかったことが元凶のひとつなのですが、この「住居表示に関する法律」違反を問われかねない金沢市の英断は、称賛に値すると思われます。
(今では総務省も容認か?)


<伝馬町・静岡109横のけやき通り、ケヤキがあることはあるが・・・・>

◆ 「○○台」など綺麗系地名
私鉄沿線などの地名でおなじみですね。
やはり不動産開発業者のイメージ先行なのでしょうね。
(あとから正式な地名となることが多いようです。)
「通り」の愛称は、いい加減な例もありますね。

市内の具体的例では・・・
▽「御門台」については、団地造成に伴って付けられたのではないので(当初は駅名のみ、のち住居表示にも採用)、個人的にはあまり抵抗感がないのですがどうでしょうか?
▽駿河区の「富士見台」については、近くのトロ(もともとは小字)という地名が示すように、台地というより、どちらかと言えば湿地帯なのに、地理を全く無視したおかしな命名だと思っています。
むしろ、その昔に付近の俗称として使われていたという「富士見ガ原」の方がましだと思うのですが・・・

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「マチ」か「チョウ」か

2008年08月22日 09時16分46秒 | ナイーブなモノローグ

<駿府城 本丸堀(内堀)と二の丸堀(中堀)を結ぶ水路、さらに三の丸堀(外堀)、横内川、巴川へと続く。(本文とは直接関係ありません)>


★磯波さまから「町」の読みについて、コメントいただきましたので、こちらにちょいと書いてみます。(答えにはなっていませんが)

▽戸籍の名前については、使われる漢字そのものの扱いについて非常に厳格なのですが、その読みについてはなんら規定がなく、読み方は自由とされています。
(住民票などは、市町村によっては読みを載せてある場合もありますが、いつでも訂正の請求ができるようです。もっとも、静岡市は住民とのトラブルを恐れてか、住民票の名前の読み欄そのものをなくしてしまっていますが)

地名についてもほぼ同じような考え方を踏襲しているように思われます。
マチかチョウかも含め、読み方について明文化した規定などはないのかもしれません。
(役所のしかるべき部署に聞けば分かるのでしょうが、今の私にはそこまで元気がないので・・・(笑))

静岡市のHPの統計欄(町別の人口など)には、現存する町名・字名については、一応参考の読みとして“ふりがな”が出ていますが、これも他の読み方を排除するといった性格のものではないようです。
(ただ、最近の住居表示の街区表示板には、たしかに“ふりがな”がつけてあり、一般的にはこれが正しいものと認識されてしまいますね!)
住居表示の施行で全く新しい町名がつけられたりする例では、語感や口調が非常に悪い例が多かったりするのは、お役人が字面だけでしか考えないせいかもしれません(笑)。

したがって慣用にまかせるということなのでしょうが、失われた地名などは日常使っていた人が少数派になってしまうと、マスコミなどで間違って読まれたりしたものが、そのまま広まってしまうこともあり得ますね。
(失われた地名の例ではないのですが、「シロウマ」が「ハクバ」になってしまったなんていう例もありますね。)

ただ、実際に使っていた人(知っている人)からすると、「マチ」か「チョウ」の違いでも非常に耳障りで気になりますね。
市のHPの参考の読み方や、住居表示の街区表示板の“ふりがな”でもそれが指針となってしまうので、その扱いについては慎重さが必要だと思います。
少なくとも、学識経験者と言われる人だけに御意見拝聴してすませるということだけはしてほしくないです。
こういうことは、学識未経験者(?)の方が正しかったりしますから(笑)

関連で、放送局のアナには(特にNHKのアナには)、富士川・安倍川は「ふじかわ」「あべかわ」と読んでほしいです。
もし「ふじがわ」「あべがわ」でいいのだということなら、荒川も「あらがわ」と読むべきです。
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鍛冶町(かじちょう)

2008年08月22日 04時37分27秒 | 駿府96か町のいま

(雑居ビルが立ち並ぶ)

(静清信用本店)

旧【鍛冶町】は、江川町の南端(両替町との交差点ー県警はなぜか紺屋町交差点としている)から静清信用金庫本店のあるブロック南端までの一丁(60間、約109m)の町(丁目は付かない)でした。
(真ん中を横切る静清信用本店横の小路は静岡大火後の区画整理で設けられたもの)
現在、江川町通りはこの先の川辺町(かわなべちょう)まで伸びていますが、かつてはこの鍛冶町で終点でした。
ここに料亭喜楽があったのも遠い過去になってしまいました。

なお、静岡市の大御所400年祭関連のHPでは、この鍛冶町の読みを「かじまち」としていますが、鍛冶町があったころを知っている人がまだ多く存命の時代、「かじまち」と言っている人は皆無でした。
したがって、「かじちょう」が正しいのではないかと思っています。


そのほかの市のHP上の読みと私見(?)との相違
藤右衛門町、とうえもんもち(市)→とうえもんちょう
鷹匠町、たかじょうちょう(市)→たかじょうまち
札之辻町、ふだのつじまち(市)→ふだのつじちょう


鍛冶町を現在の町名でいうと
紺屋町12番地付近、昭和町1・2番地付近
(町名変更は1945年)



方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって両替町通りは東西、江川町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。

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江川町(えがわちょう)

2008年08月20日 11時29分15秒 | 駿府96か町のいま



旧【江川町】は、おおむね江川町交差点から両替町通りまでの
いわゆる江川町通り沿いの町(丁目は付かない)です。
(うち、呉服町スクランブル交差点までは旧東海道です。
また中島屋ビル横の※東西の小路は静岡大火後の区画整理で設けられたものです。)

駿府の碁盤の目地区では、ひとつの町が原則として1ブロック、
つまり1丁(60間、約109m)ごとに名付けられているのですが、
駿府の東はずれに当るこのあたりの江川町、紺屋町、下桶屋町などは
やや変則的になっていて2丁近い長さの町となっています。

また、現在は旧東海道(伝馬町通り)とは江川町交差点で五さ路となってつながっていますが
御幸通りが開通するまでは江川町通りとは直角につながっていました。


「江川町」は1945年消滅しているのですが、
江川町通り、江川町交差点、江川町地下道というように江川町の名が使われているため、
失われてしまった町名の中では最もよく知られている町名かもしれません。
江川町の名は、一説によると今川時代からあったとも言われています。

なお、江川町の“旧町名の碑”が江戸期にはなかった御幸通り側に設置されているのは、ちょいと疑問に思われます。
たしかに、土地としては御幸通りの一部も江川町でしょうが、
城下の町名の付け方の基本は通りに沿って付けられたのですから、
当然に江川町通り側に設置すべきものでしょう。
(多分、御幸通り側の方が設置する土地の確保がしやすかったのでしょうが、
 これではせっかくの碑も誤解を与えるもとです。)


江川町を現在の町名で言うと
御幸町4番地付近、紺屋町1・3・4番地付近
(町名変更は1945年)


明治期の地図
赤線沿いが江川町(一部横丁を含む)
緑線は、附近の新設された道路



方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、
ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって両替町通りは東西、江川町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。
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常慶町(じょうけいちょう)

2008年08月16日 13時29分45秒 | 駿府96か町のいま

<瀟洒なたたずまいを見せる鉄筋の教覚寺―もちろん1940年の静岡大火後の区画整理で大幅に境内地が削られていると思われる。>



大阪城下では、城から垂直に西方向に伸びる東西の通り沿いに町名がつけられていて、通りには城下町特有の“間口狭小奥行長大”な家々が建ち並んでいました。
この東西の通りと直角に交差する南北の道は、角地の家の側面となり、原則として入口はなく、単なる横丁でした。
そのため、南北の道は「通り」ではなく「筋」と呼ばれるようになったということです。(したがって、大阪人は合理的なので『東西は「通り」』、『南北は「筋」』というように分かりやすく区別しているというのは、あまり正しい理解ではないということになります。)

一方、駿府の碁盤の目地区でも、城から垂直に伸びる本通・上石町・人宿町・七間町・下石町というように、やはり南北の通り沿いに町名が付けられてはいましたが、城下を東海道がクランク型に抜けているためか、変則となっており呉服町・両替町通りなどは城と平行な東西の通り沿いに町名が付けられています。

七間町などの南北の通りと交わる東西の通り(呉服町・両替町などを除く)は、原則として家の入口がない横丁であり、町名が付けられてはいませんでしたが、変則であるがゆえに例外もあります。
碁盤の目地区最南端の東西の通りである寺町通り一つ手前の通り沿いの常慶町もその例外に当てはまるものと思われます。

旧【常慶町(じょうけいちょう)】は、下石町三丁目の南端の角から東へ一丁までの通り沿いの町(丁目は付かない)なのですが、実質的は通りの南側のみで、しかも教覚寺の境内地だけだったという変則的な町です。

教覚寺は、静岡では珍しい浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺であり、向えの真宗大谷派(お東さん)の常光寺と向かい合っています。

なお、「常慶町」の名の由来は、教覚寺の境内地が松下常慶の屋敷跡だったからだと言われています。
また、「常慶町」の名は1945年消滅して現在は常磐町二丁目の一部となっています。
(1寺で1町では行政効率が悪いということでしょうか。でも住居表示町名としての「駿府公園」や用宗漁港の「港」なども人口ゼロなのですが・・・・)

余談ながら、戦後できた常磐町一丁目~三丁目の「常磐」は、一種の瑞祥地名だと思われますが、この常慶町から1字拝借したのではなんて個人的には思ったりします。

常慶町を現在の町名でいうと
常磐町二丁目7番地付近
(町名変更は1945年)



方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって両替町通りは東西、下石町通り(青葉通り)は南北の通りということになります。

その他
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静岡駅前広場

2008年08月12日 05時04分40秒 | 街かどのメヌエット
<吹き抜け部分の屋根:黒金町官有無番地>


<やっと囲いがとれた地下通路部分ーなりわいを終え家路を急ぐ>


<まだ囲いがある地下広場吹き抜け部分>

◇5年の歳月をかけ、JR静岡駅前の広場・公共地下道が整備されている。
(工事の案内看板の「政令市にふさわしい・・・」というのはちと恥ずかしい)
今月中には、ほぼ完成する予定らしく、ようやく全貌が見えてきた。
でも、その長い年月の割にはそれほど代り映えがしないように思うのは、見方が偏屈すぎるだろうか?
条件が違うので単純な比較はできないが、金沢駅は、公共交通の乗客を増やすため、バスやタクシーは広場隣接地に通路を確保し東西自由に(静岡駅で言えば南北自由に)往来できるようにするそうだ。
そんな大胆な発想が静岡には不足しているように思う。
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バスデザインコンテスト

2008年08月11日 09時29分11秒 | 電車・バス
<08年8月10日、26系統大浜行き、新静岡センター(鷹匠一丁目1番1号)にて>

◇ かなり前だが清水区のW氏が話題にしていた、しずてつジャストライン・バスデザインコンテストのグランリプリ作品をラッピングしたバスに出会ったたので、いささか旧聞ながらここに載せてみます。(07年秋に募集し、08年春ごろから走り始めた)

バス車体右側(写真に写っている方)の絵は清水江尻小学校の山口葵くん、左側は県立静岡ろう学校の生徒さんによるものだということです。
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下石町三丁目(しもごくちょう さんちょうめ)

2008年08月09日 14時01分35秒 | 駿府96か町のいま
<青葉通交番―最近は遠方から静岡おでんを求めて訪れる人も多いためか、
 入口に青葉おでん街と青葉横丁への案内が貼ってある。>

<別雷(わけいかずち)神社―96カ町の町頭がここに集まり駿府の自治を担っていた。
戦前はもっと大きな境内だったものが、静岡大火後の区画整理の結果
現在の敷地となったようだ。狭い敷地に無理やり押し込められたような印象もある。>

<交番からは至近距離の通り東側にある青葉おでん街>


旧【下石町三丁目(しもごくちょう さんちょうめ)】は、現在の青葉通りの昭和通り交差点から南へ2筋目(一丁)までの南北の通り沿いの町でした。
(一丁の真ん中を横切る小路<別雷神社横>は、静岡大火<1940.1.15>後の区画整理でもうけられたもの)
当然のことながら、一、二丁目同様かなりの面積が道路になってしまっていて、通り沿いの西側が七間町、東側が常磐町二丁目に再編され(1945.9)、下石町三丁目は消滅してしまいました。

なお、南端に接する東西の通りを東に入ったところにある常光寺は、
宝台院(常磐町二丁目13番地の2)で謹慎していた慶喜の護衛のために
静岡に来ていた江戸の町火消し、新門辰五郎が投宿していたということです。


下石町三丁目を現在の町名でいうと
七間町の一部、常磐町二丁目の一部
(町名変更は1945年)


方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって両替町通りは東西、下石町通り(青葉通り)は南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。


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静岡夜店市

2008年08月09日 01時09分15秒 | 街かどのメヌエット

<七間町名店街:七間町13番地付近>


<呉服町名店街:呉服町一丁目5番地付近>


<呉六名店街:呉服町二丁目7番地付近>


<紺屋町名店街:紺屋町7番地付近>


◇静岡名店街(七間町・呉服町・呉六・紺屋町)の「第46回夏まつり(夜店市)」が8月8日(金)~10日(日)の日程で開催されている。
この“まつり”は、初期には“かっぱまつり”と言って産業会館(現在の葵区役所呉服町口の葵スクェアのところにあった)で細々とやっていたものが今日の夜店市主体のものに変わったものだと思う。

昔と違って、静岡駅からやや遠い七間町や呉服町一丁目の普段の人出は比較的少ないのだが、このときばかりは、数十万人はいるのではと思われるほどの人出となる。
この人出を見ると、両親から聞かされていた戦前の「七ぶら」のにぎわいは、このようなものだったのだろうかと脳内にイメージしたりしてみる。

ただ、七間町名店街は、呉服町二丁目や紺屋町以上に、もともとの店は商売をやめてしまって貸店舗化し、半ば不動産業に徹して楽をしている(?)ところが目立つ。(七間町通りから本屋やお菓子屋は絶滅してしまった。)
そのためか、夜店市に出店している店も他地区から出張販売のものがほとんどとなってしまっているのは、少々残念な気もする。


ちなみに各商店街を駿府96カ町の旧町名で表すと次のとおりです。
七間町名店街=札之辻町、七間町一丁目、七間町二丁目
呉服町名店街=呉服町二丁目、呉服町三丁目、呉服町四丁目、呉服町五丁目
呉六名店街=呉服町六丁目
紺屋町名店街=紺屋町(但し静岡駅に近い地域は南安東村足名)
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下石町二丁目(しもごくちょう にちょうめ)

2008年08月06日 03時40分02秒 | 駿府96か町のいま
▽青葉通り・旧下石町二丁目にあたる部分には
ふらんすのベルナール・ジトン作の「ZEN」というオブジェ(噴水彫刻)が設置されて
朝8時から夜10時(冬季は9時)まで、一日中ゴロンゴロンとパフォーマンスをしています。



旧【下石町二丁目(しもごくちょう にちょうめ)】は
現在の青葉通りの明治安田生命ビルのある交差点から昭和通りまでの間の両側
南北1丁(1丁≒109m)の町でした。
(一丁の真ん中を横切る小路<杉山翠雲堂ビル横>は、静岡大火<1940.1.15>後の区画整理でもうけられたもの)
当然のことながら、一丁目同様かなりの面積が道路になってしまっていて
通り沿いの西側が七間町、東側が常磐町一丁目に再編され(1945.9)、下石町二丁目は消滅してしまいました。

昔、NHKの女性手帳などを担当していた、所作や言葉遣いが上品な感じの原アナウンサーはこの町の生まれとか・・・・

なお、南端に接する東西の通りの昭和通り(国道362号)は
昭和初めに3~4間の幅員が12間(約22m)に拡幅されたもので
建設された当時は静岡で最も広い道路だったようで「12間道路」という言い方もされていました。
昭和通りは、都市計画上25mに拡幅予定があるため建築の制限がされているらしく
現在この通り沿いの建物は道路に接した部分はすべて2階建以下になっており
(1.5mほど後方部分から3階以上になっている。)
高いビルなどはあらかじめ後退して建設されています。
(都市計画決定から半世紀以上も放置したまま、住民に制約を課しているのは、ちとひどすぎるような気もします。)


下石町二丁目を現在の町名でいうと「七間町の一部」「常磐町一丁目の一部」
(町名変更は1945年)



方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているのでJR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが
ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって、両替町通りは東西、下石町通り(青葉通り)は南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。
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下石町一丁目(しもごくちょう いっちょうめ)

2008年08月04日 06時42分48秒 | 駿府96か町のいま
▽呉服町ふしみ屋西横から南へ伸びる「旧下石町通り(現青葉通り)」、一番手前の一丁は、町名のないいわゆる横丁だが「中之店(なかんたな)」と呼ばれていて静岡大火前までは魚屋などが集中していたらしい。その先の一丁ごとに「下石町一丁目」「下石町二丁目」「下石町三丁目」と三つの町が寺町通りまで続く(安倍川方向を望む)


▽毎日江崎ビル


▽青葉通りで8月3日まで開かれていたストリート・ジャズ
 

旧【下石町一丁目(しもごくちょう いっちょうめ)】は、現在の青葉通りの両替町通りとの交差点から南へ二筋目までの両側、南北1丁(1丁≒109m)の町でした。
(一丁の真ん中を横切る小路<江崎ビル横>は、静岡大火<1940.1.15>後の区画整理でもうけられたもの)

上石町(かみごくちょう)があって、なぜ下石町がないのか不思議に思っていた方もいたかもしれませんが、現在の青葉通り沿いの町が下石町なのです。

下石町通りは、それまでの3間程度の幅の道が静岡大火後に防火路として36mに拡幅されたため、町のかなりの面積が道路となってしまいました。
下石町一丁目の残った部分は、北側は両替町二丁目、南側は通りの西側が七間町、東側が常磐町一丁目に再編され(1945.9)、下石町一丁目は消滅してしまいました。

青葉通りという名称は必ずしも悪いとも思いませんが、「下石町」という由緒ある町名を通りの名称として活かさずに打ち捨てて、わざわざとってつけたような名を通り名とする必要があったのでしょうか。
単に「しも」というのがマイナスイメージとして嫌われたのでしょうか。

なお、下石町の名の由来は、江戸の本石町と同じで、米・穀物商などが多く居住していたことによるものです。

下石町一丁目を現在の町名でいうと
七間町の一部、常磐町一丁目の一部
(町名変更は1945年)


方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって両替町通りは東西、下石町通り(青葉通り)は南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。
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