駿 府 は 96 か 町

駿府はちぃっと覇気がないけぇが,御所(ごせ)っぽくていいじゃん【ごせっぽい≒平穏でせいせいしている様】

四足町(よつあしちょう) その2

2010年04月22日 07時00分00秒 | 駿府96か町のいま
四足町 その1のつづきです。

▽ 四足御門跡



 
四足町の町名の由来である四足御門跡です。
 門はこの正面ではなく(正面には石垣があった)
左手に、名前のとおり四足の御門が東向きに建っていたということです。
 (つまりクランク型に進路をとることになる。)

このあたりは明治期から堀が埋められてしまって
写真右手の石垣手前のお堀だったところにはビルが建っています。
 まあ、左手の新中町ビルから市立静岡病院玄関あたりは
石垣も撤去されてしまっているので 石垣の一部だけでも残されたのを
よしとするしかないでしょう。

 なお、駿府城への登城口は、追手門(県庁東側)のほか
 横内御門(北街道、市民文化会館入口)、草深御門(東草深町、草深橋)
この四足御門の4箇所だったということです。

また、このあたりには今川氏の居館があったということですが
 詳しいことは分かっていないようです。


▽  本 通 (安倍川方向を臨む)

本通(ほんとおり)の起点でもある中町(なかちょう)交差点から
安倍川方向を見たところです。
本通は現在でこそ幅員30mの幹線道路ですが
江戸期には東海道であった新通
(しんとおり)よりも狭かったようです。

かつて走っていた静岡鉄道の市内電車の
鷹匠町(たかじょうまち) ~ 中町(新中町ビル前附近)は1925(T14)開通
呉服町
(静銀本店のある呉服町一丁目交差点) ~ 安西(安西二丁目交差点)
1926(S1)年の開通でした。
途中の中町(停)と呉服町(停)の本通を走る区間(約100m)が開通したのは
1929(S4)年のことでした。
 

 
この区間をどうしていたかというと徒歩連絡していたのでした。
どうしてわずか100mの区間の開通が遅れたかというと
本通があまりに狭く線路を敷くことができなかったということです。

 
おそらく5mほどしか幅がなかったのではないのでしょう。(もちろん歩道などない)
なお、本通や昭和通が拡幅されたのは昭和始めです。


▽ 静岡天満宮


中町といえば静岡天満宮を思い浮かべる人も多いかもしれません。
本通沿いの左手
(安倍川方向を見て)の中町の町域には
この天満宮のほか、岩市
(いわいち)そば店、農林中金静岡支店があったのですが
数年前撤退し、 現在は静岡赤十字病院の拡張用地として空き地となっています。

また、静岡天満宮も土地の一部が呉服町一丁目にまたがっているためか
所在地表記に呉服町一丁目を名乗っていますので
本通の左手には土地の表記としては中町が存在しても
実質的に中町がなくなってしまっています。
 

▽ 飯田旗店 



中町といえば天満宮と並んで
昔からこの飯田旗店があり変わらぬ佇まいがなつかしいです。
 
(もちろん大火や空襲を受けている地域ですので戦後の建物でしょうが)

この旗屋さんは創業100年を超え
旗やトロフィーなどのほか、最近は、くす玉の販売に力を入れているようです。
また、日の丸と同じ素材で作られた男を上げる“ふんどし”もあつかっているとか・・・
この前を通りかかったらのぞいてみるのも楽しいかもしれません。


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四足町(よつあしちょう) その1

2010年04月19日 06時00分00秒 | 駿府96か町のいま
四足町は四ツ足町とも表記され、本通四足町、尼ヶ崎町とも言われたようです。

本通四足町という言い方があったことからも分かるように
 本通
(ほんとおり)沿いの町で、本通ゼロ丁目というべく
本通一丁目の手前、現在の中町交差点から呉服町通までの通り沿いの両側の
一丁が四足町です。
と言えばお分かりのように四足町は、ほぼ現在の中町
(なかちょう)の町域で
1915年(T4)に四足町という町名を中町に変更し現在に至っています。

四足町とは駿府城の四足御門
(よつあしごもん=4脚の門)の門前であることからの
命名なのですが
明治に入り、食肉習慣が一般化すると
四足と言った場合、四本足で歩く動物を指すことが多くなり
そのイメージを嫌って「中町」に変更されたようです。


 ▽ 江戸初期の四足町の位置
(四足町とは直接関係ないが、この地図上の安西寺の境内は現在富士見町となっている。
安西寺は浅間神社北側の丸山町に移転したので、現在は安東寺と名乗った方がいいような
位置にある)



 ▽ 現在の中町の町域(赤線内)
  この附近は住居表示制度
(※1)が実施されていないため、
  武家地
(※2)との界がそのまま変わらず現在の中町に引き継がれていて(※3)
 興味深いです。



 ※1隣接する追手町は住居表示地区であるが県産業経済会館がある一角のみ
 地番表示地区
  ※2江戸や駿府では武家地には原則として町名は設定されていなかったため、
   1873年
(M6)この附近の武家地であった地域を追手町と命名
 ※3=行政効率を主眼にした住居表示制度が実施された場合、原則として道路が
 町界となるため江戸期の町域の痕跡はことことぐなくなってしまうのが通例

 <「その2」へつづく>


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御器屋町(ごきやちょう) その2

2009年12月18日 16時00分00秒 | 駿府96か町のいま
「御器屋町 その1」の続きです。

↓ ピンクの線の部分の道路がなくなってしまっている。


↓かろうじて残った現在の御器屋町通り(地図の赤線の部分)



駿府城下の96カ町の町名は原則として通り沿いに町名が付けられており
この御器屋町もその例外ではありませんでした。

現在、区画整理で御器屋町通りの半分はなくなってしまっていて
御器屋町がどのあたりだったかが分りづらくなってしまっています。

駿府96カ町のうち、町名を失い
なおかつその通りまで失ってしまったのは、ほかには例がないかもしれません。
新谷町(しんがいちょう)も道路が付け代えられてはいますが)

御器屋町の名称がなくなってしまった理由は、以下の理由が考えられます。

1 通り沿いに付けられていた町名であるため
  町界は、当然道路ではなく背割式(家の裏側が町界)であったため
  住居表示が実施される際、障害になったこと。
 (住居表示制度では、町界を道路等の恒久的施設であることが求められている。) 
 
2 駿府96カ町の町のほとんどが
  1町が道路沿いの1丁程度の大きさであったが
  御器屋町もその例外でなく
  行政側が管理しやすいと考える町の大きさからすると小さすぎること。
 (住居表示制度の実施基準では、当初、一つの町の面積や世帯数まで
  例示されていたため、全国的に小さな町がなくなってしまった。
  東京23区では住居表示が全域完了している区も多く
  江戸期からの多くの町名が失われてしまったのですが、
  新宿区の牛込地区では、いまだに昔ながらの町名が残されているのは
  都区内では希有な地域でしょう)

3 地元で強力に反対する声があれば避けられたかもしれないが
  たとえ反対する人がいても、小さな町であったがゆえに
  大きな声に集約することが困難だったことが考えられる。

それはともかく
本通から安西通りにかけては
いまも小さな町が現存するのですが
ぜひとも御器屋町のような例にならないように願いたいものです。


↓ 御器屋町を名乗り、意地をみせる店

御器屋町(ごきやちょう) その1

2009年12月18日 15時00分00秒 | 駿府96か町のいま
浅間神社近くにあった
「御器屋町」という町名は
雅な、なかなかいい町名だと思います。
なんでも、城中に納める椀や杯などをつくる
職人がいた町だと言われています。

静岡以外では京都市の大宮通七条(西本願寺の西側)に
この町名があるようです。

残念ながら静岡の御器屋町は
1969(S44)年4月1日の住居表示の実施で
西草深町に併合され消滅してしまいました。



↓ 安西通りの延長上とも言える御器屋町の通り
  左:1889年ごろ、右:1926年ごろ(オレンジ色の通り沿いが御器屋町)

 


「その2」へ続きます。

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上魚町 (現・金座町) その2

2009年07月11日 16時00分00秒 | 駿府96か町のいま
こちらの上魚町からの続きです。


▽ 左:敷地が本通一丁目と金座町(きんざまち)にまたがる日本銀行静岡支店は
  建物の正面が本通を向いているにもかかわらず所在地に金座町を名乗る。
(本通は「ほんどおり」ではなく「ほんとおり」。 アクセントは「高低低低低」)

▽ 右:同じく、中町(なかちょう)と金座町にまたがる清水銀行静岡支店(元、中部銀行本店があった場所)も同様に金座町所在を名乗る。
銀行にとって相性のよい町名ということも言えると思われる。
 (金座町は 住居表示未実施で「番地表示地区」)
 


▽ 安西・茶町の製茶問屋への通り道であるこの通りは
 かつてお茶の見本缶を持った「さいとりさん(お茶のあっせん業者)」
   静岡駅から自転車で争うようにここを通ったという。
 そのため自転車の修繕需要も高く自転車屋さんが多い通りだったという。
 
    この先、土手通りの向こう側は茶町、当然にお茶屋も何軒かある。
 (これらのお茶屋はさりげない店構えでも江戸期からの創業もめずらしくない。)
 お茶屋の隣りは金座稲荷でその前に金座跡の記念碑がある。


▽ 左:マンションなどが増えつつある金座町の通り、電柱の看板にもあるようにお茶の関連産業の事業所も多い。
▽ 右:金座町の横丁(土手通り)にはこんな店(量り売りの味噌屋)もある。
 



 
大正時代に静岡で初めての歩道付きの道路となり
 小間物屋であった“千代鍛冶”が勧工場 (
かんこうば:こんにちのデパートに当る)
なるとなるなど 常に話題を提供していた上魚町が
昭和の時代になると その繁華性をしだいに失ったのは
1889(M22)年の鉄道の開業により
静岡市の町の重心が徐々に静岡駅方面に移っていったことが大きいのでしょう。


 また、中心地点であるがゆえに
この地域(上魚町・旧呉服町一丁目、旧呉服町二丁目)
銀行(安倍銀行・三十五銀行・静岡銀行など)や会社が進出し
商店街が虫食い状態のようになってしまったことも
人通りを少なくしてしまった大きな要因として
否定できないようです。

その“上魚町”が「金座町(きんざまち)」と改称したのは
1928(S3)年11月10日のことです。

これは言うまでもなく
 駿河小判をつくった金座がここにあったことにちなむものです。


家康の側近であった
後藤庄三郎光次(京都の御用調金師の後藤宗家の女婿)という人が
大御所となった家康とともに駿府へ来て
ここに3000坪近い屋敷を得
江戸と駿府の二元体制である大御所政治が終わるまで
ここで金座を統括したということです。

場所は現在の日銀静岡支店の敷地を含む
通りの南側(静岡駅方面を背にして左手)のようです。

その金座も大御所政治の終えんにより
 江戸(現・本石町一丁目の日銀本店のあるところ)へ移されました。


なお、銀座は旧両替町二丁目にありました。
 銀座跡の碑についてはこちらの両替町二丁目をご覧ください。




▽ 街路樹に埋もれるように佇む金座跡の碑(1955年設置)
 昔見た記憶では、もっと立派な碑だったような記憶があるのだが・・・(笑)
 (他都市ならもっと誇らしげにきちんとした掲示板など設けるところだろう。)
 なお、このちょいと先(安西寄り)に静岡市内線の「金座町電停」があった。
 子どものころ「金座町」の町名もこの電車で覚えたのだった。


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上魚町(かみうおちょう)

2009年07月09日 14時50分00秒 | 駿府96か町のいま
▽ 呉服町側から上魚町(現金座町)方面をのぞむ
 左が日本銀行静岡支店、右が清水銀行静岡支店
 右の角(現駐車場)にあった創業百十数年という奈良屋文具店(所在地としては中町)は昨年閉店してしまった。

▽ 小川龍彦著「続 思い出のしずおか」からの碑
  (静岡駅方向を描いていると思われる。)
 大正時代に静岡で初めて車道と歩道の区分のある道路となった記述がある。



 
上魚町は、現在の金座町(きんざまち)のことで
 別称 「上之店(かみんたな)」 とも言われるとおり
商家が立ち並ぶにぎやかな町だったようです。

江戸期から明治・大正ごろまでは
静岡で商家が立ち並ぶ最も繁華な通りは
 この上魚町から呉服町一丁目・二丁目・三丁目(現在の呉服町一丁目)
札の辻あたりまでで
呉服町も四丁目・五丁目・六丁目(現在の呉服町二丁目)
現在の静岡駅方向に進むにつれ
しだいにその繁華性は尻すぼみのような状態であったということです。
(上魚町と呉服町一丁目の間には本通があるが、
  昔の本通は数間程度での幅員で
新通などより狭い道だったようです。)

つまり、通り沿いの繁華性の程度が現在とは全く逆進行だったわけです。
(七間町も繁華な通りだったのでしょうが
  性格的には盛り場という言葉が似合う娯楽や飲食の街だったようです。)


上魚町が栄えた理由は
徒歩による交通が当たり前だった時代には
市中からはもちろん
安倍街道筋、藁科街道筋、麻機街道筋からも人が集まりやすい
地の利を得ていたということだったのでしょう。

こちらへつづく




▽もともとの上魚町は土手通りから呉服町一丁目交差点までの両側町だった。


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寺町四丁目(てらまち よんちょうめ)

2008年12月12日 03時43分05秒 | 駿府96か町のいま
▽常磐公園の噴水(周囲も人工的で無機質な雰囲気)


▽あまり手を付けられていない公園の東側では毎日青空将棋が・・・
(たしか、その昔にはこのあたりに相撲の土俵もあったような気がする)


▽公園と反対側の北側の街並み(戦前は商店が建ち並んでいたのだろう)


旧「寺町四丁目」は、現在、通りの南側はすべて常磐公園になっています。
現在の公園には、多くの寺院が立ち並んでいた様子をしのぶこようなものは全くありません。
強いていえば、噴水の上のカリオンがやや寺院風に造られていることでしょうか。

常磐公園はすべて寺院跡であるので、
20年ほど前、常磐公園の再整備の工事の際、かなりの遺骨が出てきたことが話題になりました。
もうここが寺町だったという認識がない人がほとんどとなってしまい、
市民のなかには、遺骨が出たことを空襲の犠牲者ではと勘違いしている人もいるようです。
(そういう例も皆無ではないとは思いますが)

現在の常磐公園及び真正面に市庁舎まで延びる青葉通りは、あまりに人工的すぎるように思われます。
噴水もただ金をかけて作ったという感じでくつろげませんし・・・
せっかくの植栽も噴水の裏側に追いやられているので目だたつ、当然噴水との一体感もありません。
夜間の噴水の光のパフォーマンスも、まあきれいなことは確かですが、何度も見たいというほどのことはありません。


旧「寺町四丁目」は、現在の駿河町、常磐町二丁目の各一部、常磐町三丁目1番の大部分で、東西の通り沿い約1丁半の町でした。(町名変更は1945年)


寺町四丁目(赤線の部分)には五つの寺があった。


▽こちらは、青葉通りと似た性格の大阪市の都心に帯状に広がる「うつぼ公園」
このように、噴水はただ大きいばかりでなく周囲と調和していた方が心がなごむ



寺町三丁目へ


方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、
JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、
ここでは(特に碁盤の目地区)、より実際の方位に近い
「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって寺町通りは東西、七間町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。

寺町三丁目 (てらまち さんちょうめ)

2008年12月05日 15時30分30秒 | 駿府96か町のいま
▽戦前、右手のマンションのあたりに「若竹座」があったという。(国道1号方面を臨む)
(戦後、映画館(国際劇場)ができ、その後静岡で最初のボウリング場となり、閉鎖後長らく空き地となっていた。)


旧「寺町三丁目」は、七間町通りと丁字路(ていじろ)となっていたため、
寺が立ち並んでいた反対側(北側)は、かなり繁華な町だったようです。

寺町三丁目と四丁目は原則からはずれた約1丁半の町となっています。
これは三丁目と四丁目の南側に多くの寺院が集積していて、
実質的に北側だけの片側町となっていたためかもしれません。

また、現駒形通一丁目1番のマンションが建っているあたりには、
戦前は若竹座という芝居小屋があり賑わったということです。
芝居小屋の発生は、
江戸期に寺の境内を使って見世物などを行っていたものが
恒常的になっていったものなのでしょうか。

これらが寺町から七間町通りにかけて見世物小屋や芝居小屋ができ、
さらにそれらが昭和の時代になり
七間町通りに映画館が集積することにもつながっているのでしょう。

往年の、寺町三丁目とそこから丁字型に延びる七間町通り界わいは、
東京の浅草のような静岡一繁華な町だったことが想像できます。


▽寺町附近には菓子屋がたくさんあったという。
創業が1830年代という馬場製菓(現:駿河町7番地の1)は、現在は「茶飴」の店としてが有名だが、
かつてはいろいろな菓子を製造し市中の菓子問屋などに卸していたのだいう。

▽安立寺のあった附近を貫通する現駒形通一丁目の通り(安倍川方面を臨む)
駒形通りが七間町通りとつながったのは大火後かと思っていたが、1935(S10)年ごろのようだ。
右手、奥の現しずてつストアのあるところには、戦後、マルというダンスホールがあってにぎわったとか


▽明治期と思われる寺町附近の地図
地図は重要な情報だが手作業であるがゆえに間違い等も散見される。
寺町四丁目の四が抜けているのは単なる脱落か、はたまた寺近くゆえの意図的なものなのだろうか?
(四が死に通じるなどという迷信は明治期以降だと思われるが、すでにそういう考え方が
この地図にも反映されているというのは考えすぎかもしれないが・・・)
平屋町・江尻町の表記はあきらかに1ブロックずれている。
平屋町は1丁先のブロックで、平屋町とあるは江尻町、
江尻町とあるは下魚町(下魚町は1丁より長い町だった。)の誤りである。
寺の境内の広さは地図どおりというより、位置を示す程度にとらえた方がいいのだろう。
ピンクの部分が三丁目、青緑の線は現在の駒形通り


旧「寺町三丁目」は、現在の駒形通一丁目1番~4番、常磐町三丁目1番、駿河町の各一部
で東西の通り沿い約1丁半の町でした。(町名変更は1945年)



方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、
JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、
ここでは(特に碁盤の目地区)、より実際の方位に近い
「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって寺町通りは東西、七間町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。

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寺町二丁目 (てらまち にちょうめ)

2008年11月26日 09時13分31秒 | 駿府96か町のいま
▽日蓮宗・感応寺(本堂では、ときおりコンサートが開かれているようだ。)



「寺町二丁目」は、新通りとの交差点から通り沿いに東へ1丁の町でした。
ここには、日蓮宗・感応寺が残っています。
10月13日は日蓮上人の命日ということで、
今でも東京の池上・本門寺などでは
飾万灯(かざりまんどう)を威勢よく振りかざす“お会式”が行われるということですが、
ここ感応寺でも同様の行事が行われ、
戦前は日蓮宗の信徒だけでなく多くの人が集まって賑やかだったそうです。
東京では格調高く「お会式」と言うのに対し、
静岡ではややひなびたた感じで「お命講」といい、
子どもたちは飾りのミニ万灯(かんざらし)を振りかざして
「お~めいこうのかんざらし~、そういったらすっこんだ」とか言ってぞろりぞろり歩きまわったとか・・・・
(参考:渡辺茂男著「寺町三丁目十一番地」福音館書店)


▽家康の100カ日の際、お万の方(家康側室)により放生会が行われた池
・放生会(ほうじょうえ)=捕らえた魚や鳥などを解き放つ仏教行事
・区画整理で境内地が半分に減らされたため元の池は失われ、現在あるものは縮小再現されたもの





「寺町二丁目」は、現在の駒形通一丁目5番、新通一丁目1番、梅屋町、駿河町の各一部
で東西の通り沿い約1丁の町でした。(町名変更は1945年)



寺町一丁目へ
寺町三丁目へ


方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、
JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、
ここでは(特に碁盤の目地区)、より実際の方位に近い
「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって寺町通りは東西、七間町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。

寺町一丁目 (てらまち いっちょうめ)

2008年11月24日 00時43分21秒 | 駿府96か町のいま
▽今も残る浄土宗 善然寺


寺町を冠する町名は、「寺町一丁目」「寺町二丁目」「寺町三丁目」「寺町四丁目」の4町でした。
(他に本通を挟んだ西側に「西寺町」もありました。)
この寺町4町は、通りの南側が文字通り寺町で多くの寺院が並んでいて、北側は町屋だったということです。

1940年の静岡大火後、ほとんどの寺が都市計画により沓谷(くつのや)地区などに移転させられ、
寺がほとんどなくなってしまったことにより、町名もことごとく変更されてしまっています。

この通りの南側のお寺が立ち並んでいた部分は、
新通一丁目、駒形通一丁目、常磐町三丁目などに再編、
北側の町屋部分は梅屋町、常磐町二丁目などに再編され、残った部分は「駿河町」に町名が変更されています。
(したがって、慶喜関連の「葵町」と違って、「駿河町」には特別意味合いはないと思われる。)


たとえ寺がなくなったとしても、
町名まで変える必要があったのか疑問に思うところですが、
当時は町名も文化財などという考え方など全くなく、
寺がなくなったのだから“抹香臭い町名”は変えてしまえと言った程度の発想しかなかったのでしょう。

せめて通りの名前に生かしてほしかったと思うのですが、
これも安易に駿河町通りと名付けられています。
(但しこの「通り名」、あまり定着していないようです。)


「寺町一丁目」は、本通五丁目交差点から新通一丁目交差点までの通り沿いで、
現在はほとんど特長のない通りなのですが、
南側には善然寺が移転をまぬがれて残っています。


▽現在は裏どおりのような普通の街並み



「寺町一丁目」は、現在の本通五丁目の一部、梅屋町の一部、新通一丁目2番の一部の東西の通り沿い約1丁の町でした。(町名変更は1945年)
 (地図では分かりにくいが、善然寺の入口は寺町通りに面している。)



多くの寺院が移った沓谷地区


寺町二丁目へ


方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、
JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、
ここでは(特に碁盤の目地区)、より実際の方位に近い
「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって寺町通りは東西、七間町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。

呉服町六丁目(ごふくちょう ろくちょうめ)

2008年10月20日 15時17分29秒 | 駿府96か町のいま

 △呉六にもチョコクロが・・・   △今年の大道芸ワールドカップは10月31日から11月3日まで




△ハンガリー風の外観の旧六丁目


「旧 呉服町六丁目」は、呉服町通り沿いのうち、玄南通りとの交差地点から江川町通りとの交差地点までの1丁(約108m)の町(いわゆる両側町)でした。
(呉服町の六丁の中でも一番はずれにある町ということになるが、現代の感覚では最も静岡駅に近い町と言うことになる。)


この旧呉服町六丁目は、旧二丁目から五丁目までの「呉服町名店街」とは別の商店街組織となっていて「呉六名店街」を名乗っています。
町並も呉服町名店街とはちょいと趣が変わっていて、独自の商店街づくりをしています。

なお、この旧呉服町六丁目の一画は、県の地価調査で常に県内一の地価と発表されています。(税務署の路線価では、1ブロック先の紺屋町が基準地に選定されている。)
地価が高いということは、資産価値の面でいえばたしかにメリットがあるのでしょうが、反面、相続税や固定資産税も高くなるので、地道な商売はできにくいということなのでしょう。(昔からの和菓子屋や漆器店がなくなり、宝石店やドラッグストアが増えたりという傾向と無関係ではないような気がします。)


▽駿府浪漫バスが通る。


▽呉六では、いろいろな意味でこの店ははずせないでしょう。
「ツヒノスミカ」のおばあちゃん、いつまでも元気でいてください。)



旧呉服町六丁目を現在の町名で言うと・・・呉服町二丁目6番地、7番地、8番地(町名変更は1945年)



アクセント
「呉服町」の伝統的地元アクセントは、「低高高低低」です。(「チョウ」が東京の有楽町と同じシラフ))
呉服町は、静岡市の代表的繁華街ということもあり、放送などで取り上げられることも多いのですが、
最近は地元放送局のアナウンサーも静岡育ちでない人がほとんどのためか、
ゴフクチョウを「低高高高高」と「チョウ」を大福帳のようなアクセントで読むことが多いようです。
そのせいか、最近は若い世代を中心に「低高高高高」というアクセントで話す「大福帳病」が蔓延(?)しており、
伝統的地名アクセントの破壊が進行しているようです。

方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、
JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、
ここでは(特に碁盤の目地区)、より実際の方位に近い
「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって呉服町通りは東西、七間町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。




呉服町五丁目(ごふくちょう ごちょうめ)

2008年10月19日 15時15分15秒 | 駿府96か町のいま
▽五丁目のオブジェ
「かんざし」をモチーフにしたベンチ、歩道は赤色の御影石を使って「格子織」を表現しているとか・・・

▽3・4階に統一されている商店街のなかで、9階建ての“ふしみや”のビルが目立つ。
(この場所は70年ごろまで三菱銀行があった。ふしみやは現在の静岡谷島屋のB館(向って左側)のところにあった。)


「旧 呉服町五丁目」は、呉服町通り沿いのうち、下石町通り(現青葉通り)との交差地点から玄南通りとの交差地点までの1丁(約108m)の町(いわゆる両側町)でした。

呉服町通りでは老舗の和菓子屋などがなくなり、ドラッグストアなどが増えているとはいえ、この五丁目には今でもかなりの老舗があります。
1607年創業の伏見屋(ふしみや)
1687年創業の三保原屋
1781年創業の竹茗堂(江戸期は七間町だったようだ)
等が代表格でしょうか。

なお、1945年の静岡大火を受け、耐火建築促進法(現:防災建築街区造成法)の適用により
呉服町通りの不燃化が積極的に進められましたが
この五丁目の南側のブロック(三保原屋・竹茗堂・タカラ堂がある側)の不燃化が
1957(S32)年に最も早く完成しています。


【1927(S2)年発行の地図、旧呉服町四丁目・五丁目・六丁目あたり】
 一丁目、二丁目、三丁目同様、銀行と呉服屋が目立つ。
また、北側は用水路を境に武家地だった場所(現:市庁舎等)には戦前まで御用邸があった。
(呉服町に接する追手町が必ずしも碁盤の目状になっていないのは武家地であったため)


橙枠:現在もある店
黄枠:現在は別の場所にある、又は最近(10数年以内)まであった店。
<1927(S2)年発行「大日本職業明細図之内静岡市」木谷佐一編、東京交通社発行(静岡市立図書館蔵)>


▽間口狭小・奥行長大の城下の典型的な店構えの三保原屋
(余談ながら、よく「静岡の商店は殿様商売で愛想が悪い」などと言う人がいるのですが、この三保原屋の接客態度などみると一概にそうばかりではないと思うのですが)

▽五丁目の街並み(南側)



旧呉服町五丁目を現在の町名で言うと・・・呉服町二丁目3番地、4番地、5番地(町名変更は1945年)


アクセント
「呉服町」の伝統的地元アクセントは、「低高高低低」です。(「チョウ」が東京の有楽町と同じシラフ))
呉服町は、静岡市の代表的繁華街ということもあり、放送などで取り上げられることも多いのですが、
最近は地元放送局のアナウンサーも静岡育ちでない人がほとんどのためか、
ゴフクチョウを「低高高高高」と「チョウ」を大福帳のようなアクセントで読むことが多いようです。
そのせいか、最近は若い世代を中心に「低高高高高」というアクセントで話す「大福帳病」が蔓延(?)しており、
伝統的地名アクセントの破壊が進行しているようです。

方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、
JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、
ここでは(特に碁盤の目地区)、より実際の方位に近い
「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって呉服町通りは東西、七間町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。

⇒ 呉服町六丁目へ

呉服町四丁目(ごふくちょう よんちょうめ)

2008年10月16日 04時05分06秒 | 駿府96か町のいま

▽四丁目のオブジェ
    
上は天秤(?)、下はかんざし(?)をモチーフにしたベンチ
       
▽1826年創業の唐木屋薬局:ここが四丁目であったことが分かる
 
▽ここを本来の目的に使っている人を初めてみた。(雨上がりで座面が濡れていたため反対側に座っている)このベンチのモチーフは・・・う~~ん(!!!)
 


「旧 呉服町四丁目」は、呉服町通り沿いのうち、七間町通りとの交差地点(いわゆる札の辻)から下石町通り(現青葉通り)との交差地点までの1丁(約108m)の町(いわゆる両側町)でした。

上方方面からの旧東海道は、七間町通りを北進して札の辻交差点で直角に東へ曲がります。
したがって、旧呉服町四丁目以東は当然に旧東海道ということになるのですが、この当り前のことだと思っていたことも、最近は知らない人もけっこういるようです。
それというのも、七間町通りもそうなのですが、呉服町通りには旧東海道であることを表示するものがいっさいないので、知る機会もないのかもしれません。

それはともかく、静岡の繁華街は旧人宿町三丁目、七間町通り、呉服町通りと旧東海道沿いに繁華街が形成されています。
(静岡の中心商店街は、個人的には東海道沿いの繁華街がたまたま静岡駅方向に延びたにすぎないと思っているので、TVなどで駅前の紺屋町以外の七間町や呉服町も含めて十把一絡げに「駅北の繁華街」という言い方をされるのには多いに違和感を感じています。)

このうち、旧呉服町四丁目~六丁目は1960年ごろいっせいに不燃化対策として共同ビルに建て替えられました。
(建て替え中に、青葉通りに仮店舗が作られていたのは覚えているのですが、建て替え前の呉服町通りの様子は、残念ながら明確な記憶がありません。)

この不燃化対策が短期間にいっせいに行われたということは、商店街の振興ということはもちろんなのですが、1940年の静岡大火が、中心部からはやや離れた場所(新富町一丁目28番地の馬力屋)で発生した火災にもかかわらず、その飛び火によって中心部が全面的に焼けてしまったということが、当時はまだトラウマのようになっていたのではと思われます。

この呉服町の近代化を契機として、七間町と呉服町の地位が逆転したような気がします。
当時としては画期的な不燃化対策でしたが、商店街としての統一感は見事に図られているものの、現在の感覚からすると各商店が没個性化しているのも否めないような気もします。


▽インテリアの八幡屋の店先はいつも楽しい

▽北側の角はかつて協和銀行が、その向こうの5風来館の場所には70年ごろまで静銀呉服町支店があった(その後ユニー等を経て、現在は無印良品・スルガ銀行)



旧呉服町四丁目を現在の町名で言うと・・・呉服町二丁目1番地、2番地(町名変更は1945年)


アクセント
「呉服町」の伝統的地元アクセントは、「低高高低低」です。(「チョウ」が東京の有楽町と同じシラフ))
呉服町は、静岡市の代表的繁華街ということもあり、放送などで取り上げられることも多いのですが、
最近は地元放送局のアナウンサーも静岡育ちでない人がほとんどのためか、
ゴフクチョウを「低高高高高」と「チョウ」を大福帳のようなアクセントで読むことが多いようです。
そのせいか、最近は若い世代を中心に「低高高高高」というアクセントで話す「大福帳病」が蔓延(?)しており、
伝統的地名アクセントの破壊が進行しているようです。

方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、
JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、
ここでは(特に碁盤の目地区)、より実際の方位に近い
「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって呉服町通りは東西、七間町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。

⇒ 呉服町五丁目へ

呉服町三丁目(ごふくちょう さんちょうめ)

2008年10月11日 21時00分00秒 | 駿府96か町のいま


<旧UFJ銀行跡も雑居ビル風に>

 
<すみやも今では楽器部門を除いてツタヤの傘下>
<旧富士銀行跡の戸田書店仮店舗、その隣は池田屋と偶然にも清水組が並んだ>


「旧 呉服町三丁目」は、呉服町通り沿いのうち、人宿町(ひとやどちょう)通りとの交差地点から七間町通りとの交差地点までの1丁(約108m)の町(いわゆる両側町)でした。

現在、この街区の南側1ブロックすべてが静岡伊勢丹となっています。
(かつての田中屋百貨店時代は、西側半分を占めるにすぎませんでした。)

北側の一画の中央の“すみや”の前身である角屋の創業は1896年とか、木造であったころ、西側の楽器売り場側の入口にはビクターのニッパー犬が鎮座していたのは、もう本当に遠い昔のことになってしまいました。


▽三丁目のオブジェ【天秤(?)をモチーフしたベンチ】

▽南側の一画すべてを占める静岡伊勢丹


【1927(S2)年発行の地図、旧呉服町一丁目・二丁目・三丁目あたり】

三丁目には愛知銀行(東海銀行前身)・すみや洋品店・シャツの田中屋などの表記が・・・
(一丁目の北側、東から2軒目は見づらいが「谷島書籍店」)

橙色:現在もある店(静銀本店の建物は「三十五銀行新築地」になっていてまだできていない)
黄色:現在は別の場所にある、又は最近(10数年以内)まであった店。

<1927(S2)年発行「大日本職業明細図之内静岡市」木谷佐一編、東京交通社発行(静岡市立図書館蔵)>


旧呉服町三丁目を現在の町名で言うと・・・呉服町一丁目6番地、7番地(町名変更は1945年)


アクセント
「呉服町」の伝統的地元アクセントは、「低高高低低」です。(「チョウ」が東京の有楽町と同じシラフ))
呉服町は、静岡市の代表的繁華街ということもあり、放送などで取り上げられることも多いのですが、
最近は地元放送局のアナウンサーも静岡育ちでない人がほとんどのためか、
ゴフクチョウを「低高高高高」と「チョウ」を大福帳のようなアクセントで読むことが多いようです。
そのせいか、最近は若い世代を中心に「低高高高高」というアクセントで話す「大福帳病」が蔓延(?)しており、
伝統的地名アクセントの破壊が進行しているようです。

方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、
JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、
ここでは(特に碁盤の目地区)、より実際の方位に近い
「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって呉服町通りは東西、七間町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。

⇒ 呉服町四丁目へ

呉服町二丁目(ごふくちょう にちょうめ)

2008年10月09日 13時08分23秒 | 駿府96か町のいま


<呉服町二丁目にあるアーチ>

ここで言う呉服町二丁目は、現在の呉服町二丁目ではなく 「旧 呉服町二丁目」です。
「旧 呉服町二丁目」は、呉服町通り沿いのうち、上石町(かみごくちょう)通りとの交差地点から人宿町通り(静岡伊勢丹西角)との交差地点までの1丁(約108m)の町(いわゆる両側町)でした。

旧呉服町二丁目の西側には、商店街の入口を示すアーチがあり、呉服町名店街(旧二丁目~旧五丁目)という商店街はここから始まります。
アーチは、普段なにげなく見ていると全く気が付かないのですが、よく見ると昔の旅人風のオブジェが付けられていることが分かります。

このあたりは、商店街といっても、銀行や事務所が大半である旧一丁目の続きという雰囲気もあってオフィースの間に商店があるという感じです。

それでも刃物の菊秀(1923年創業)、和菓子の“みの善”などの老舗を見出すことができます。



<旧呉服町二丁目の商店>


旧呉服町二丁目を現在の町名で言うと・・・呉服町一丁目3、4、5番地(町名変更は1945年)


アクセント
「呉服町」の伝統的地元アクセントは、「低高高低低」です。(「チョウ」が東京の有楽町と同じシラフ))
呉服町は、静岡市の代表的繁華街ということもあり、放送などで取り上げられることも多いのですが、
最近は地元放送局のアナウンサーも静岡育ちでない人がほとんどのためか、
ゴフクチョウを「低高高高高」と「チョウ」を大福帳のようなアクセントで読むことが多いようです。
そのせいか、最近は若い世代を中心に「低高高高高」というアクセントで話す「大福帳病」が蔓延(?)しており、
伝統的地名アクセントの破壊が進行しているようです。

方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、
JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、
ここでは(特に碁盤の目地区)、より実際の方位に近い
「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって呉服町通りは東西、七間町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。

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