駿 府 は 96 か 町

駿府はちぃっと覇気がないけぇが,御所(ごせ)っぽくていいじゃん【ごせっぽい≒平穏でせいせいしている様】

竹千代君と家康公の視線の先には・・・・

2020年08月01日 12時00分00秒 | 駿府のバラード

静岡駅北口広場の 真東に視線を向ける竹千代君と今川義元公像(葵区・黒金町)

おなじみの静岡駅北口広場にある竹千代君(たけちよぎみ:家康公幼名)
海道一の弓取りと言われた今川義元公の像です

 

静岡駅前国道1号沿いの 首をやや左手(東方向)に傾け視線を東に向ける家康公像

その像の後方50mほど先の国道1号沿いには
晩年の大御所としての徳川家康公像があります。

その竹千代君と大御所家康公の像の視線を一直線に延ばすと
その先にはなんと久能山東照宮があるということで
ちょっとした巷の話題になっているとのことです。

像の設置の際に、単に西日が顔に当らない位置として向きを定めたための偶然なのかもしれませんが
駿府七不思議のような感覚であらためて見てみると興味深いです。

静岡駅から ほぼ真東の約7km先に久能山(くのうん)がある


海道一の弓取り・今川義元公の像が設置されました

2020年05月20日 09時09分09秒 | 駿府のバラード
▽ 竹千代君を見守るように(?)隣に設置された今川義元公の像 (葵区・黒金町)






▽ 小和田哲男氏(一般には大河ドラマの時代考証でおなじみ)による碑文

ここ駿府の礎は今川時代にあり、のちの徳川時代、そして明治時代以降、現代へと続く
歴史の連続性の中で培われてきた。
松平竹千代に英才教育を与え、徳川家康という天下人を生み出した今川義元公は、
京文化に精通し、優れた政治的・軍事的手腕をもつ類まれなる名将であった。

▽ 臨済寺(りんざいじ)住職による題字



▽ 向かい側にある静岡市美術館の外壁には葵の御紋のほか
 今川家の赤鳥紋も掲示された.  (葵区・紺屋町)


5月19日は今川義元公の命日で
例年ですと今川家の菩提寺である臨済寺(葵区・大岩町)が公開されるのですが
今回の公開は残念ながら中止となってしまったようです.(公開は年2回だけです)

一方,静岡駅前北口広場では設置工事が進められていた
今川義元公の銅像が竹千代君たけちよぎみ:家康公の幼名)像の隣に設置され
この日(2020年5月19日)から公開されました.

(各地にある像は,たいてい高い台座のうえに設置されるのが通例ですが
 見る人の視線と同じ位置に設置されるのは比較的珍しいような気がします.
 威厳を示すためとか,いたずらを警戒してのことでしょうが・・・
そういえば昔,西武百貨店静岡店前に少女の像があったのですが
やはり人の背の高さでしかも繁華街であったためか夜間にいたずらされることが
多く,業を煮やして店内に移設されてしまったのを思い出しました。)


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海道一の弓取り・今川義元公の像が設置されます

2020年01月11日 11時11分11秒 | 駿府のバラード
▽ 静岡駅前地下広場


かつて「海道一の弓取り」とよばれた今川義元公も
徳川家康公の陰にかくれてしまって
静岡市民でさえ今川義元公のことを
知らない人が少なくないようです.

数年前から報道されていた
生誕500年を記念した今川義元公像の設置

いよいよ2020年5月19日に
静岡駅前の竹千代君(たけちよぎみ;家康の幼名)像のそばに
設置されるようで
静岡駅前の地下広場にそれをPRする大きな掲示板が
とりつけられていました.

義元公像の設置で
少しは 駿府の町の礎を築いた義元公の復権が
なされるとよいのですが・・・


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東海道の 道標(みちしるべ)

2019年03月02日 14時08分42秒 | 駿府のバラード
▽ この交差点を右へ折れ さらに2丁先で左へ折れる

 ▽ 歩道に設置された案内




旧東海道歩きが静かなブームとなって久しいのですが
東海道といえば,たいてい道なりに続いていて
旅人が迷うことは少ないのかもしれません.

ところが,碁盤割となっている駿府城下を抜ける東海道は
 何度も直角に曲がるため かなり分かりにづらいです.

(一般的に道路標識は 車両のためのものなので
  歩行者を想定したものは ほとんどない)

とくに,七間町通りから人宿町二丁目を経由して
 新通り
(しんとおり)抜ける箇所
かなりわかりづらいです.

以前は角にスギヤマという家庭用品の店があり
店主の好意による手書きの表示がありましたが
(毎日何度も何度も道順をたずねられて
 わずらわしかったこともあるのかもしれませんが)
この店がなくなってから
何の表示もなくなってしまったので
市できちんとした表示をすべきだと思っていました.

最近,ようやく歩道に東海道の表示がされましたが
 どういうわけか道路の両脇にある歩道の片側
(安倍川方向に向かって右側)にしか表示がなく
左側を歩いて来た人は気がつかないでしょう.

歩道がない道では,歩行者は右側を歩くのが原則でしょうが
両側に歩道がある場合は
そういう原則はなりたたないと思われ
 これでは せっかくの表示が片手落ちでしょう.



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広辞苑と静岡

2018年04月19日 16時00分00秒 | 駿府のバラード
▽ 重山文庫(京都市・北区・小山中溝町・19番地)


京都市営地下鉄 鞍馬口駅から西へ徒歩5分ほどのところに
重山
(ちょうざん)文庫があります。

建物は鴨川西畔にあった木戸孝允の邸宅の一部を移築したもので
この建物自体も価値があるものです。

ここは広辞苑の編さんで有名な
国語学者の新村 出
(いずる)博士(1876~1967年)の旧宅で
広辞苑に関する資料が整理・保存されています。
重山文庫の「重山」というのは新村出博士の雅号であり
「出」という字は山が重なっていることからの命名です。

月曜と金曜(祝日に当る場合を除く)のみ一般公開されていて
新村出氏の孫で岩波書店の編集者だった
「広辞苑はなぜ生まれたか 新村出の生きた軌跡」の著者の新村恭さんの案内で
広辞苑の資料について丁寧な説明を受けることができます。

 新村出博士は徳川宗家・旧幕臣の関口家
(旗本・古くは今川家臣)の生まれで
父親の関口隆吉(たかよし:勝海舟とも親交があり静岡県令のちに初代静岡県知事)
 博士が12歳のとき不慮の事故で亡くなられたため
 徳川慶喜公の側室「信
(のぶ)」の養父である新村猛雄の養子となり
 新村姓になりました。


西草深町の慶喜公の屋敷の隣附近に住まいがあって
 静岡県尋常中学
(現:県立静岡高校)を卒業するまで静岡にいたそうです。

辞書としての広辞苑は誰でも知っているでしょうが
初代の編さん者が静岡ゆかりの人だということは
存外知られていないのかもしれません。

オランダとの交易も駿府城から・・・

2013年12月23日 23時23分23秒 | 駿府のバラード
▽ 駿府城公園 (葵区・ 駿府城公園・ 1番)


駿府城公園の中央にあるカリヨンの隣接地で
何やら工事が行われていました。

なんの工事なのかと思い近づくと
このような立札が・・・・・





オランダ大使館から
駿府城・坤櫓の来春の完工を祝してチューリップの球根が贈られため
その球根を植えるための花壇の工事でした。


なにゆえオランダ大使館から・・・・


さらに説明書きを読むと
なんと、長崎出島におけるオランダとの交易を認める朱印状が
ここ駿府城でオランダ国に贈られたということです。

 当時の家康公が将軍職を退いたとは言え
実権を持ったまま 駿府で大御所として君臨していたことを考えれば
当然なことながら
こういう事実を示されると
 あらためて当時の駿府の重要性を認識させられます。


「夕顔小路」をご存じでしょうか

2013年12月04日 18時00分00秒 | 駿府のバラード
▽ 明治時代の西草深町あたりの地図
    「夕顔小路」の記載はないが「竹屋小路」の名が確認できる。
  また、周辺地域では「富士見小路(現富士見町)」や「瓦屋小路」の名も見られる。

静岡の町は「○○小路」と言った名称はあまり見られませんが
もともと武家地だった西草深町あたりでは
七間町方面の町人地のようなきちんとした区画ではなかったためか
地図上で確認できる「竹屋小路」以外に「せんだん小路」など
 いくつかの名前がついた小路があったようです。


▽ 慶長年間の地図に林道春の名が確認できる。

そんな小路のなかに「夕顔小路」という雅な名前の小路があったということです。

 雅な名ゆえに大仏次郎
(おさらぎ じろう)の小説のタイトルにも使われたという
この小路名は 儒学者の林道春(林羅山)の別号「夕顔巷(せきがんこう) 」にちなむもので
その屋敷跡がこの地にあったからだということです。
(NHK静岡放送局があった裏手附近のようです)

西草深町は戦後の区画整理で街区の形状が変わってしまったため
その面影は全くなくなってしまい
その結果、その雅な名も忘れ去られてしまったのは
 少々残念な気もします。

▽ 現在の西草深町付近

市庁舎前に駿府用水の説明板が・・・・

2012年08月27日 08時27分27秒 | 駿府のバラード

 駿府用水の前回の記事はこちらをごらんください。

 ▽ 静岡市役所本館前 (葵区・追手町(おうてまち)・5番1号)



市街地では大半が暗渠となっている駿府用水ですが
追手町5番の市庁舎本館前では開渠となってその姿を確認できます。
 




その用水の前に
このような駿府用水の説明板が設置されました。

なかなか要領を得た内容がコンパクトに
説明されていて興味深いです。

また、戦前は町のあちこちに用水が流れていたと言われていますが
その位置も確認できます。





左下には安倍川の新旧の流れが図示されています。

安倍川の流れが家康公によって変えられ
(別説あり)
藁科川に合流されたことは市民にはよく知られていますが
どのような流れになっていたかは存外知られていないのかもしれませんね。


駿府城下の東海道

2012年08月25日 08時25分25秒 | 駿府のバラード
▽ 緑の線が東海道、城下を何度も直角に曲がって通り抜けている。



駿府城下を抜ける東海道は一本道ではなく
碁盤の目状の城下を何度も直角に曲がって通り抜けています。

そのため非常に分かりづらいうえ
城下地区に案内表示なども一切ないため
最近、静かなブームである旧東海道歩きの人たちが
間違って通り抜けてしまうことも少なくないようです。






 ここは、地図の右上にある伝馬町通り
(てんまちょうどおり)です。





▽ 伝馬町附近
(東海道は江川町通りと直角に交わっていたが、昭和の初めに御幸通りが建設された際
江川町交差点と交わるようにやや斜めにつけかえられた。)



この伝馬町に
「ここは東海道 府中宿」という標識が最近付けられました。

もっとも、この標識は東海道であることよりも
 むしろ「
府中宿」であることを主張しているのかもしれません。
それでも、東海道であることが明確に分かります。

このような標識が
呉服町通りや七間町通りにも
ぜひほしいものです。

また、直角に曲がる角にはぜひとも
 案内標識を設けてもらいたいものです。



▽ 七間町から人宿町商店街通りへ曲がる角は非常に分かりにくい。
   善意の私設の手書きのこの標識もこの商店が廃業してしまってツタで覆われてしまった。




府 中
 もちろん「府中」とは「駿河府中」、すなわち駿府のことです。
 現在は都下や広島県の府中を思い浮かべる人が多いかもしれませんが
  江戸期では、単に府中といったら当然に「駿府」のことでした。

 
 
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駿府城公園に名称が変更されました II

2012年04月05日 09時09分09秒 | 駿府のバラード

駿府公園から駿府城公園に名称変更され
このような立派な石碑が設置されました。

 石は安倍川
(あべかわ)上流の大谷崩(おおやくずれ)から採取された玄武岩で
 文字は久能山
(くのうざん)東照宮の落合偉洲宮司だそうです。






案内図の表題も上から貼り付けの形で訂正されています。
 「Sunpu Kouen Goannai」も英語の表記に直されました。

でも分かりづらい東御門のチケット売り場が
相変わらず表記されていません。
(全体を見直すことなく単なる「やっつけ仕事」になってしまっているのは少々残念です。)


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駿府城公園に名称変更されました

2012年04月03日 16時16分16秒 | 駿府のバラード
▽ 所在地は「葵区・ 駿府城公園・1番」

徳川宗家ゆかりの駿府城址の中堀(二ノ丸堀)内は
戦後、都市公園となり
市民に開放されていますが
その名称が4月1日から
「駿府公園」から「駿府城公園」に変更されました。

遅きに失したという印象ですが
静岡市民の城に対する関心が今ひとつだったので
これを機会に歴史上重要な城址であることが
市民に再認識されることを願っています。

4月1日、さっそく住居表示の「街区符号板」が
 付け替えられていました。



▽ 駅前地下広場の地図(右端は訂正もれか?)



静岡駅前地下広場の表示までは
手が回らなかったのか
数か月前に更新されていた地図は
一時的に旧称が貼りつけられたいたものが剥がされて
「駿府城公園」になっていたものの
サインは変更されていませんでした。

変更すべき表示はあちこちにあるので
一度に直すのは困難だとは思われますが
ここは一番目立つところにあるので
 早急
(さっきゅう)な対応がのぞまれるところです。

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駿府公園から駿府城公園へ

2012年02月08日 12時02分08秒 | 駿府のバラード




静岡駅前地下広場では
ちょうど案内地図等の更新の時期のようで
先日、サイン類を変更する現場に出会いました。

よく見ると地図の駿府公園の部分は「駿府城公園」となっているようで
 その上から「駿府公園」の文字が貼付されていました。


▽ 駿府城址(駿府公園は「公園の名称」であるとともに「町名」でもある。)

駿府城址の二ノ丸の内側(中堀以内)
戦前は陸軍歩兵第34連隊の兵営地として使われていました。
(中堀のさらに内側にあった内堀は34連隊誘致のため埋め立てられてしまった。)
 


戦後、都市公園として市民に開放され
 1951(S26)年に市民からの公募により「駿府公園」と名付けられました。

当時は駿府公園という名称も違和感なく受け入れられたのでしょうが
個人的には、他都市では「◯◯城公園」とか「城址公園」とよばれているのに
なにゆえ静岡市では単に「駿府公園」なのか疑問に思っていました。

静岡市や周辺地域の住民にとっては
城跡であることは自明のことかも知れませんが
県外から来静する人には
この名称では必ずしも城跡であるとは思ってもらえないでしょう。

長年、そう思いつづけてきたのですが
昨年変わった新市長に名称変更の意向があることが分かって
ひそかに名称変更を期待しておりました。

報道されている範囲で判断すると
 どうやら新年度(2012年4月)から「駿府城公園」に変更されるようです。

これを機に駿府城址に対する
関心が高まることを期待したいところです。

そのほか、駿府城下を直角になんども曲がって分かりづらい
 旧東海道の表示などの整備も実施してもらいたいものです。

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京の弥次さん喜多さん・駿府の弥次さん喜多さん

2012年01月04日 01時04分04秒 | 駿府のバラード
▽ 京都三条大橋西詰め  (京都市・中京区(なかぎょうく)・中島町)


京の三条大橋西詰めにある
弥次さん喜多さんの像です。
さすがに京都らしい上品な顔立ちです。

ここにあるのは江戸からの東海道の終点
 (上方からみれば起点)
 だからでしょう。

 

▽ 駿府城・中堀(なかぼり) 東御門前


一方、こちらは
駿府の弥次さん喜多さんの像です。

 駿府
(静岡市・葵区)にあるのは
 もちろん作者の十返舎一九
(じっぺんしゃいっく)
 駿府・町奉行の同心の息子で
旧両替町一丁目(現両替町一丁目の最も本通寄りのブロック)の生まれであるからです。

京都のものに比べると
やや庶民的な顔立ちです。

それはともかく
この像は駿府城址・中堀遊歩道沿いにあるのですが
弥次さん喜多さんは権力側の人ではなく庶民の代表ですので
むしろ城下の旧東海道沿いの七間町あたりにあった方がふさわしいと思うのですが・・・

宝台橋 (ほうたいばし) ものがたり

2011年10月27日 23時59分59秒 | 駿府のバラード

▽ 昭和通りの起点付近にある「宝台院」バス停



旧宝台橋交差点近くにあるバス停「宝台橋」が何の前ぶれもなく
2011年10月11日の時刻改正時に「宝台院」に変更されていました。

宝台橋は、地上を走っていた東海道線をまたぐ橋として1936(S11)年3月17日に開通しました。

静岡の町なかと駅南地区が
地上を走っていた東海道線によって分断されていた時代には
南北を結ぶ幹線道路はこの宝台橋と八幡踏切ぐらいしかありませんでした。
(他に静岡郵便局裏手と泉町を結ぶ中央地下道というのがありましたが・・・)
この橋も東海道線が高架となった1979年に使命を終えて姿を消しました。

宝台橋という名称は、もちろん近くにある
 徳川宗家ゆかりの寺、宝台院 にちなんだものです。
(宝台院は正式名は「浄土宗 金米山 寶臺院(こんぺいざん ほうだいいん)」ですが
 静岡弁に時折みられる濁音の清音化のためか「ほうたいいん」という人が多いようです。
 例「~するので」→「~するんて」、「りんざいじ(臨済寺)」→「りんさいじ」
  したがって、宝台橋も「ほうだいばし」でなく「ほうたいばし」という人が多かったようです。)


この宝台橋、大勢の人が招集された戦時中は
この橋の上から出征兵士が乗った列車を橋に群がって見送ったということです。

また、在来線の急行や特急が華やかしころには
この橋の上からいろいろな列車を眺めて楽しんだ方も多いかもしれません。

この宝台橋がなくなってから既に30年以上の歳月が経っているので
バス停名として残っていた方が奇跡的だったのかも知れません。

それでも、バス停名もなくなり
かつてここに宝台橋という橋があったことさえ
 忘れ去られてしまうと思うとちょいとさびしいです。




宝台橋の変遷
 (ブルー=橋部分)


 1)当初、北側は国道1号から斜めに昇り
  南側は旧大里村役場前(大浜街道)方面にまっすぐ伸びていた。



 2)1960年代に入り新幹線建設が本格化すると
   南に延びる部分が新幹線の高架橋に抵触するためループ状に改められた。




 3)1970年代の後半になると東海道線静岡駅付近の高架化工事が
    新幹線に張り付ける形で始まるが工事が進んだ段階で、
    このループ状の部分が高架橋に抵触するため逆コの字型にされた。
  (宝台橋西側から安倍川までの区間の部分高架は60年代に完了していた)




 4)東海道線の高架化完了(1979年10月9日)に伴い宝台橋は撤去。
   都市計画道路宝台院下島線(昭和通りを南側へ延長する道路)が開通。





※ 戦後,まもなくの
国一側の宝台橋の写真がこちらの七間町のサイトに掲載されています。
 下の写真には松坂屋、昇り口にあった(写真では右手)石屋と現在は静岡駅南口にある東照宮300年祭記念塔が確認できます。

 

駿府公園にお茶のゆかりを見る

2011年05月05日 05時05分05秒 | 駿府のバラード
新茶の季節ということで
身近な駿府公園
(2012年4月、駿府城公園に名称変更)
お茶のゆかりを訪ねてみましょう。




現在栽培されているお茶のほとんどは
“やぶきた”という品種なのですが
このやぶきた茶の産みの親が
杉山彦三郎氏
(1857~1941)
その功績を顕彰する胸像碑です。

碑にも説明があるように
氏は現在の駿河区中吉田の生まれの民間育種家で
竹やぶ
(現:駿河区中吉田41番)を開墾して品種改良に取り組み
北側にあったのが“やぶきた”、南側にあったのが“やぶみなみ”と
命名されたというわけです。


戦後の1955(S30)年に
やぶきたが静岡県の奨励品種に指定されると
急速に普及し現在に至ったということです。

 
▽ 駿河区谷田159番地(現:中吉田41番)から移された駿河区谷田24番にあるやぶきた原樹

氏の出生地を有渡郡有度村とする資料が多いようですが
有度村の成立は1889年なので出生当時は「有渡郡中吉田村」だと思われます。
(現在の国吉田とするものもありますが 国吉田村は1889年豊田村となっていますのでちょいと疑問ですが、調べようもありません。
あるいは、1991年に中吉田地区、92年に国吉田地区の住居表示が実施されていますので町界が変わったということかもしれません。)
◇1889年有渡郡有度村成立(現在の駿河区と清水区にまたがる地域)
  郡名は「有」、村名は「有
◇1896年安倍郡有度村(有渡郡を廃止して安倍郡に併合)
 ◇1955年有度村全域を清水市に合併

 ◇1958年清水市の旧有度村のうち中吉田、平沢、中之郷の一部(現弥生町)、谷田の一部を静岡市に編入





こちらはマッケンジー婦人を顕彰するオブジェ(?)です。

明治末期から昭和始めにかけての時期は
アメリカ向けのお茶の輸出が大変盛んで
(戦争の影響で中止される1941年7月まで続いたということです)
そのお茶の輸出のお陰で
静岡市の製茶問屋は大いに繁栄したということです。

1918(T7)年、アメリカの貿易商社アーウィン・ハリソン・クロスフィールド商会
 
(1924年、J.C.ホイットニー商会を吸収し、アーウィン・ハリソン・ホイットニー商会となる) のマッケンジー氏は日本における支配人としてに婦人とともに来静し (当初は西草深町の英和女学院そばの洋館(現存せず)に住んだということです)
お茶の輸出に多大な貢献をしたということです。

1951(S26)年、マッケンジー氏が亡くなったあとも
マッケンジー婦人は静岡に残り
私財を投入して乳児院を経営するなど
静岡市の福祉事業に尽力され
1959(S34)年、旧静岡市の名誉市民第1号に選定されています。

このオブジェには何の説明もないのですが
婦人が存命だったころは広く知られた存在だったとは言え
知る人も徐々に少なくなっている現在は
お茶が結ぶ由縁を含めて
ぜひ婦人の顕彰文の設置が必要だと思うのですが・・・・


駿河区高松2852番地にある旧マッケンジー邸
静岡市に寄贈されて現在も公開されています。

 参考:静岡市HP、静岡県HP