▽ 葵区・西草深町・15番
西草深町の静岡環状線(県道354号)沿いのポケットパークに慶喜公屋敷跡の碑があります。
もちろん、ここが屋敷跡というより大きな屋敷の敷地の一部がこの土地だというにすぎません。
もちろん、ここが屋敷跡というより大きな屋敷の敷地の一部がこの土地だというにすぎません。
▽ 浅間神社向い側にある西草深公園(葵区・西草深町・27番)に設置の徳川慶喜公屋敷についての説明板にある地図
▽ 同、説明板に掲載の写真 (写真の山の位置からすると長谷通り沿いだと思われる)
慶喜公屋敷跡というと、屋敷跡が結婚式場・浮月楼として保存されている
静岡駅近くの紺屋町11番地にあるものが有名で
西草深町の方は屋敷跡が跡形もなくなくなってしまっているためか
紺屋町のそれより知られていないのかもしれません。
慶喜公は、1889(M22)年に
東海道線が静岡まで開通することによる騒音(当然のことながら当時は電車ではなく蒸気機関車)を嫌い
1888(M21)年に紺屋町から西草深町へ転居し
東京へ戻る1897(M30)年まで市井の人として西草深町で過ごしたと言われています。
西草深町は、戦後の土地区画整理と都市計画街路 静岡環状線の貫通で
当時とは全く区画が変ってしまったのですが
屋敷跡の位置は、現在の住居表示による街区符号で言うと
概ね14番、15番、29・30番の東半分、31~34番に該当するようです。
なお、慶喜公が東京へ戻った後の屋敷は
「葵ホテル」として活用され、さらに日露戦争の捕虜収容所として活用されたものの
1905(M38)年、失火により焼失してしまったそうです。
静岡駅近くの紺屋町11番地にあるものが有名で
西草深町の方は屋敷跡が跡形もなくなくなってしまっているためか
紺屋町のそれより知られていないのかもしれません。
慶喜公は、1889(M22)年に
東海道線が静岡まで開通することによる騒音(当然のことながら当時は電車ではなく蒸気機関車)を嫌い
1888(M21)年に紺屋町から西草深町へ転居し
東京へ戻る1897(M30)年まで市井の人として西草深町で過ごしたと言われています。
西草深町は、戦後の土地区画整理と都市計画街路 静岡環状線の貫通で
当時とは全く区画が変ってしまったのですが
屋敷跡の位置は、現在の住居表示による街区符号で言うと
概ね14番、15番、29・30番の東半分、31~34番に該当するようです。
なお、慶喜公が東京へ戻った後の屋敷は
「葵ホテル」として活用され、さらに日露戦争の捕虜収容所として活用されたものの
1905(M38)年、失火により焼失してしまったそうです。