静岡駅から見て道路の左側(江川町交差点から先は右側)が2mほど後退・拡幅する予定になっているようで
当該部分は建築が制限されていて、みな2階建て(最近は3階建てまで緩和)になっている。
▽静岡市の都市計画道路第1号の碑
JR静岡駅から追手町(おうてまち)の県庁・市役所方面へ伸びる御幸通り(みゆきどおり)は、
大昔からあると思っていらっしゃる方も多いかもしれません。
実は、この通り(静岡駅から江川町交差点を経て、しずおか信用追手町支店前まで)は
駿府の歴史から言えばついこの間の1930年に
幅員13間半(約25m)の都市計画道路として新設されたものです。
また、御幸町(みゆきちょう)という町名の誕生は、もっと新しく
駿府城下の七間町(しちけんちょう)や人宿町(ひとやどちょう)、両替町(りょうがえちょう)といった
400年前からの町名に比べればまったくの新参者で
1944年(登記簿の書き換えは1945年で、当時は住民票の役割をも果たしていた戸籍簿の書き換えは更に数年後のよう)のことでした。
御幸町は、江川町・新谷町(しんがいちょう)・下八幡町の大部分と紺屋町・伝馬町等の一部の御幸通り沿いを中心にできた町です。
(当然ながら駿府96カ町の町名ではありません。)
御幸町ができたきっかけは、御幸通りの開通に伴うものというより
1940年の静岡大火後の区画整理に伴なうものでした。
当時、行政の効率化のために小さな町をなくして集約化を図ることが強く意識されたようです。
その結果、江川町、新谷町、下八幡町などが消滅して御幸町が誕生したものと思われます。
3番地(旧新谷町あたり)11番地(旧下八幡町あたり)などが御幸通りからはずれているにもかかわらず御幸町に編入されたのは
そのへんの事情によるものなのでしょう。
つづく
↑御幸町地図(橙色の線の内側が現在の御幸町の町域)
▽赤数字は親地番(一見、住居表示の街区符号のようであるが、区画整理後の地番を1筆ごとに1番地、2番地、3番地・・・という従前の地番割は採用されず、街区に親地番を降り、そのなかの1筆ごとに枝番を振る「回廊式地番割」が採用されたためで、住居表示の街区符号とは違う。
なお、町の界が道路となっていないことからも分かるように御幸町は現在のところ住居表示は実施されていない。もし、実施されれば伝馬町、栄町、紺屋町などに吸収されてなくなってしまうことだろう。)
また、御幸町1番地・2番地(旧江川町の一部)は、1966年に追手町が住居表示された際、追手町に編入された。
▽緑色の線は御幸通りが開設された際、廃止された駿府城下の道路
江川町通りと直角に交わっていた旧東海道は、江川町交差点と5差路で交わるように付け替えられた。
▽青色の線は旧東海道