▽ 駿府・町奉行所跡に建つ1934年建設の市庁舎本館。
スペイン風ドーム(あおい塔)のあるこの建物は、96年に登録有形文化財に指定されている。
▽ 江戸は808町、駿府は96カ町と言われています。
(実際には、江戸は江戸時代末期には808町の何倍もの町があったようですが)
現在の旧静岡市の中心市街地には、江戸期の町名がかなり残っているように思われる方も多いかもしれません。
▽ なるほど、各地で実施されている住居表示制度による町名改悪の惨禍からはまぬがれてはいますが、
1940年の静岡大火後の街路の拡幅・新設に伴う町名整理(実施は1945年)でかなりの町名や、
城下の町名の付け方の原則が失われてしまっています。
(当時の上級官庁の指導により、
今日の住居表示制度の考え方に近い1街区ごとに親地番を割り振る※外廊式地番割が採用されたことに伴い、
大幅に町界変更が必要となり多くの町名が失われたとされる。)
それらの町名への追悼もかね、96カ町の現在の表情を再確認してみたいと思っています。
▽ なお、駿府城下における町名の「○丁目」は、町名の下位区分という性格のものではなく、
札之辻町(ふだのつじちょう)などの丁目なしの「○○町」と、
呉服町一丁目~呉服町六丁目などの「○○町○丁目」は
町の大きさもほぼ同じの同等の町であり、それぞれから町年寄が選出されていました。
最近の住居表示制度などにおける「丁目」は、
もともとは農地等だったため広すぎる大字(おおあざ)を適当なブロックに区切り、
行政上の適正規模(?)実現のための方便の単位として使われるようになってしまっていますが、
駿府の丁目は文字どおり通り沿いに約1丁(約109m)ごとでした。
したがって、中心部の1丁四方に町割りされた碁盤の目地区では、
道路沿いの1街区ごとに「○○町○丁目」と名付けられていて、
現在の街区方式の住居表示制度よりよほど分かりやすいものでした。
<以下、ひとりごと>
近年、旧町名の碑が街角に設置されていますが、
駿府の特長である「丁目」を全く無視した碑であることは、はなはだ残念なことです。
例えば、青葉通交番向い側に下石町(しもごくちょう)の碑がありますが、単に「下石町」と言う表示です。
たしかに丁目ごとに設置では費用の点でむずかしいのかも知れませんが、
せめて「下石町一~三丁目」と言った表記にできないものなのでしょうか?
もっとも、下石町の碑の説明プレート(かなり金をかけたと思われる)に、
「常磐町・・・・に再編された」というべきところ「常盤町・・・・に再編された」と「磐」の字が誤記されていて、
町名の字さえまともに認識していない市役所の担当職員のやっつけ仕事(町名の碑なのに町名に注意を払わないなんて・・・)なのですから、
期待する方が無理なのでしょう。
(施行業者が間違ったのか知りませんが、その場合でも免責ということはないでしょう!)
※外廊式地番割=一般的には土地の1筆ごとに1番地、2番地、3番地・・・・と地番を割り振っていくのに対し、
一定の街区に親地番を1番地、2番地・・・・と割り振り、
個々の筆には1番地の1、1番地の2、1番地の3・・・と最初から枝番を割り振る。
※住居表示制度=住所を土地の番号(いわゆる番地)ではなく、建物に付けた「住居番号」で表す。
具体的には街区ごとに街区符号(○○番)を割り振り、
個々の建物には基準地点(市役所や代表駅など)に近い角から右回りに10mごとのフロンテージを設け、
何番目のフロンテージに玄関が属するかで住居番号(角から30mを超え40mまでに玄関があれば「4号」というように)が決められる。
したがって住所の表示方は、「○○町(又は○○△丁目)○○番○○号」となる。
なお、小路や集合住宅などでは住居番号に枝番が用いられることがある。
また、近年「住居表示」という言葉の伸展に伴い、
たとえ番地表示地区でも「住居表示は・・・」などと用いられることがあるが、正しくは「住所表示」と言うべき。
<お茶の花>
※参考図書
▽「江戸時代の駿府」若尾俊平/静岡谷島屋
▽「静岡市の百年」山内政三/ 静岡市百周年記念出版会
▽「静岡中心街誌」 安本博編/静岡中心街誌編集委員会
▽「安東十三ケ町郷土誌」/ 安東十三ケ町郷土誌編纂委員会
▽「街かどのこみち」静岡市立児童会館編/静岡市教育委員会
スペイン風ドーム(あおい塔)のあるこの建物は、96年に登録有形文化財に指定されている。
▽ 江戸は808町、駿府は96カ町と言われています。
(実際には、江戸は江戸時代末期には808町の何倍もの町があったようですが)
現在の旧静岡市の中心市街地には、江戸期の町名がかなり残っているように思われる方も多いかもしれません。
▽ なるほど、各地で実施されている住居表示制度による町名改悪の惨禍からはまぬがれてはいますが、
1940年の静岡大火後の街路の拡幅・新設に伴う町名整理(実施は1945年)でかなりの町名や、
城下の町名の付け方の原則が失われてしまっています。
(当時の上級官庁の指導により、
今日の住居表示制度の考え方に近い1街区ごとに親地番を割り振る※外廊式地番割が採用されたことに伴い、
大幅に町界変更が必要となり多くの町名が失われたとされる。)
それらの町名への追悼もかね、96カ町の現在の表情を再確認してみたいと思っています。
▽ なお、駿府城下における町名の「○丁目」は、町名の下位区分という性格のものではなく、
札之辻町(ふだのつじちょう)などの丁目なしの「○○町」と、
呉服町一丁目~呉服町六丁目などの「○○町○丁目」は
町の大きさもほぼ同じの同等の町であり、それぞれから町年寄が選出されていました。
最近の住居表示制度などにおける「丁目」は、
もともとは農地等だったため広すぎる大字(おおあざ)を適当なブロックに区切り、
行政上の適正規模(?)実現のための方便の単位として使われるようになってしまっていますが、
駿府の丁目は文字どおり通り沿いに約1丁(約109m)ごとでした。
したがって、中心部の1丁四方に町割りされた碁盤の目地区では、
道路沿いの1街区ごとに「○○町○丁目」と名付けられていて、
現在の街区方式の住居表示制度よりよほど分かりやすいものでした。
<以下、ひとりごと>
近年、旧町名の碑が街角に設置されていますが、
駿府の特長である「丁目」を全く無視した碑であることは、はなはだ残念なことです。
例えば、青葉通交番向い側に下石町(しもごくちょう)の碑がありますが、単に「下石町」と言う表示です。
たしかに丁目ごとに設置では費用の点でむずかしいのかも知れませんが、
せめて「下石町一~三丁目」と言った表記にできないものなのでしょうか?
もっとも、下石町の碑の説明プレート(かなり金をかけたと思われる)に、
「常磐町・・・・に再編された」というべきところ「常盤町・・・・に再編された」と「磐」の字が誤記されていて、
町名の字さえまともに認識していない市役所の担当職員のやっつけ仕事(町名の碑なのに町名に注意を払わないなんて・・・)なのですから、
期待する方が無理なのでしょう。
(施行業者が間違ったのか知りませんが、その場合でも免責ということはないでしょう!)
※外廊式地番割=一般的には土地の1筆ごとに1番地、2番地、3番地・・・・と地番を割り振っていくのに対し、
一定の街区に親地番を1番地、2番地・・・・と割り振り、
個々の筆には1番地の1、1番地の2、1番地の3・・・と最初から枝番を割り振る。
※住居表示制度=住所を土地の番号(いわゆる番地)ではなく、建物に付けた「住居番号」で表す。
具体的には街区ごとに街区符号(○○番)を割り振り、
個々の建物には基準地点(市役所や代表駅など)に近い角から右回りに10mごとのフロンテージを設け、
何番目のフロンテージに玄関が属するかで住居番号(角から30mを超え40mまでに玄関があれば「4号」というように)が決められる。
したがって住所の表示方は、「○○町(又は○○△丁目)○○番○○号」となる。
なお、小路や集合住宅などでは住居番号に枝番が用いられることがある。
また、近年「住居表示」という言葉の伸展に伴い、
たとえ番地表示地区でも「住居表示は・・・」などと用いられることがあるが、正しくは「住所表示」と言うべき。
<お茶の花>
※参考図書
▽「江戸時代の駿府」若尾俊平/静岡谷島屋
▽「静岡市の百年」山内政三/ 静岡市百周年記念出版会
▽「静岡中心街誌」 安本博編/静岡中心街誌編集委員会
▽「安東十三ケ町郷土誌」/ 安東十三ケ町郷土誌編纂委員会
▽「街かどのこみち」静岡市立児童会館編/静岡市教育委員会