▽ 取り壊される前のオリオン座
▽ やや遅れ気味と思われるオリオン座跡地の整地工事
七間町の映画館のうちオリオン座(地階は有楽座)跡は
取り壊し工事が一番進んでいましたので
真っ先に更地になると思っていましたが
他の箇所が完全に更地になった現在も工事中で
工事現場には大きな水たまりができています。
この辺りは、400年前までは安倍川が流れていたのを
家康公が安倍川の流れを藁科川に合流させるように変えて
城下の町割りの土地を確保した箇所に当たりますから
いまでも地下には安倍川の伏流水が流れているようです。
したがってある程度土地を掘り起こせば
出水するのは当然のことなのかもしれません。
それでも、シニカルな見方かもしれませんが
この水たまりがオリオン座の涙に見えてきます。
隣の角地の立ち入り禁止の表示
よく見ると「静岡市上下水道局」の文字が・・・
いつのまにやら市へ所有権が移転していたのですね。
▽ やや遅れ気味と思われるオリオン座跡地の整地工事
七間町の映画館のうちオリオン座(地階は有楽座)跡は
取り壊し工事が一番進んでいましたので
真っ先に更地になると思っていましたが
他の箇所が完全に更地になった現在も工事中で
工事現場には大きな水たまりができています。
この辺りは、400年前までは安倍川が流れていたのを
家康公が安倍川の流れを藁科川に合流させるように変えて
城下の町割りの土地を確保した箇所に当たりますから
いまでも地下には安倍川の伏流水が流れているようです。
したがってある程度土地を掘り起こせば
出水するのは当然のことなのかもしれません。
それでも、シニカルな見方かもしれませんが
この水たまりがオリオン座の涙に見えてきます。
隣の角地の立ち入り禁止の表示
よく見ると「静岡市上下水道局」の文字が・・・
いつのまにやら市へ所有権が移転していたのですね。
善峯寺(よしみねでら)は昔から気にはなっていましたが
京都市内とは言っても西京区の山の中
京都へ行ったついでにと思っていると
なかなか訪ずれる機会がありません。
どうせ行くならサクラのこの時期にと
今回訪れてみました。
(例年、4月中旬ぐらいが見頃のようです)
向日町駅(むこうまちえき:京都駅から大阪方面へ各停で三つ目)からのバスは
向日市(むこうし)の市街地を抜けると
かなりの急坂を小半時ほど昇って行きます。
終点の「善峯寺」で下車すると
目の前に山門があると思いきや
意外にも久能山東照宮(くのうざん・とうしょうぐう)の石段を昇るよりも大変だと思われる
急傾斜の山道のような参道が待ち受けていました。
しかし、やっとたどりついた山門を抜け
境内地に入ると傾斜地に建つ“み寺”の建物を背景に広がるサクラの花が
圧倒的な求心力で心にせまってきます。
サクラの名所はあちこちにありますが
風格のある建物との対比でサクラを見ることができるのは
歴史を重ねた古寺ならではの醍醐味でしょう。
▽ ピカデリー跡・七間町14番地
▽ ミラノ座跡・七間町17番地
▽ ミラノ座隣のパチンコ店跡
こちらの記事から1か月たち
ピカデリー跡は整地が進んで更地化しています。
隣のミラノ座の跡も建物の取り壊しは完全に終り
整地が進んでいます。
思いがけない事件発覚で遅れていた
ミラノ座の隣のパチンコ店跡も
取り壊しにかかるようです。
▽ 出発前のようす。すでに各山車も七間町・別雷神社前に集結している。
(余談ながら左はキルフェボンを全国展開しているラッシュの本社前)
▽ 午前11時いよいよ出発。みこしも優雅に巡行される。
▽ 輿に乗った稚児。その後に山車が従う。
4月5日といえば古式稚児行列です。
江戸期には
浅間神社で舞楽を奉納する※建穂寺(たきょうじ)の稚児を
駿府町奉行所(すんぷ・まちぶぎょうしょ)の同心・与力に警護された当番踟(ねり=山車)が
途中の安倍川(あべかわ)東岸の安西五丁目で迎え
行列を組んで浅間神社へ向かったということです。
明治になり神仏分離により建穂寺からの稚児は廃止になり
それに代わり七間町(しちけんちょう)の別雷(わけいかずち)神社と紺屋町(こうやまち)の小梳(おぐし)神社から
隔年で出発する形式にあらためられ
それが今に伝わる行事となっています。
この伝統ある行事もほとんど報道されないためか
市民でさえ知らない人が多いのは残念なことです。
※建穂寺=安倍川の西岸から約2キロ西(現 葵区建穂二丁目附近)にあった寺で明治初期に廃寺
(余談ながら左はキルフェボンを全国展開しているラッシュの本社前)
▽ 午前11時いよいよ出発。みこしも優雅に巡行される。
▽ 輿に乗った稚児。その後に山車が従う。
4月5日といえば古式稚児行列です。
江戸期には
浅間神社で舞楽を奉納する※建穂寺(たきょうじ)の稚児を
駿府町奉行所(すんぷ・まちぶぎょうしょ)の同心・与力に警護された当番踟(ねり=山車)が
途中の安倍川(あべかわ)東岸の安西五丁目で迎え
行列を組んで浅間神社へ向かったということです。
明治になり神仏分離により建穂寺からの稚児は廃止になり
それに代わり七間町(しちけんちょう)の別雷(わけいかずち)神社と紺屋町(こうやまち)の小梳(おぐし)神社から
隔年で出発する形式にあらためられ
それが今に伝わる行事となっています。
この伝統ある行事もほとんど報道されないためか
市民でさえ知らない人が多いのは残念なことです。
※建穂寺=安倍川の西岸から約2キロ西(現 葵区建穂二丁目附近)にあった寺で明治初期に廃寺
駿府公園から駿府城公園に名称変更され
このような立派な石碑が設置されました。
石は安倍川(あべかわ)上流の大谷崩(おおやくずれ)から採取された玄武岩で
文字は久能山(くのうざん)東照宮の落合偉洲宮司だそうです。
案内図の表題も上から貼り付けの形で訂正されています。
「Sunpu Kouen Goannai」も英語の表記に直されました。
でも分かりづらい東御門のチケット売り場が
相変わらず表記されていません。
(全体を見直すことなく単なる「やっつけ仕事」になってしまっているのは少々残念です。)
このような立派な石碑が設置されました。
石は安倍川(あべかわ)上流の大谷崩(おおやくずれ)から採取された玄武岩で
文字は久能山(くのうざん)東照宮の落合偉洲宮司だそうです。
案内図の表題も上から貼り付けの形で訂正されています。
「Sunpu Kouen Goannai」も英語の表記に直されました。
でも分かりづらい東御門のチケット売り場が
相変わらず表記されていません。
(全体を見直すことなく単なる「やっつけ仕事」になってしまっているのは少々残念です。)
▽ 所在地は「葵区・ 駿府城公園・1番」
徳川宗家ゆかりの駿府城址の中堀(二ノ丸堀)内は
戦後、都市公園となり
市民に開放されていますが
その名称が4月1日から
「駿府公園」から「駿府城公園」に変更されました。
遅きに失したという印象ですが
静岡市民の城に対する関心が今ひとつだったので
これを機会に歴史上重要な城址であることが
市民に再認識されることを願っています。
4月1日、さっそく住居表示の「街区符号板」が
付け替えられていました。
戦後、都市公園となり
市民に開放されていますが
その名称が4月1日から
「駿府公園」から「駿府城公園」に変更されました。
遅きに失したという印象ですが
静岡市民の城に対する関心が今ひとつだったので
これを機会に歴史上重要な城址であることが
市民に再認識されることを願っています。
4月1日、さっそく住居表示の「街区符号板」が
付け替えられていました。
▽ 駅前地下広場の地図(右端は訂正もれか?)
静岡駅前地下広場の表示までは
手が回らなかったのか
数か月前に更新されていた地図は
一時的に旧称が貼りつけられたいたものが剥がされて
「駿府城公園」になっていたものの
サインは変更されていませんでした。
変更すべき表示はあちこちにあるので
一度に直すのは困難だとは思われますが
ここは一番目立つところにあるので
早急(さっきゅう)な対応がのぞまれるところです。
手が回らなかったのか
数か月前に更新されていた地図は
一時的に旧称が貼りつけられたいたものが剥がされて
「駿府城公園」になっていたものの
サインは変更されていませんでした。
変更すべき表示はあちこちにあるので
一度に直すのは困難だとは思われますが
ここは一番目立つところにあるので
早急(さっきゅう)な対応がのぞまれるところです。
▽ 葵区 紺屋町(こうやまち)にて青葉中商連による面踊り
▽ 葵区 馬場町(ばばんちょう)静岡浅間神社参道
▽ 駿府の山車はすべて江戸型(後部の勾欄の上部には人形を載せている)
▽ 最も大型で、最も古い(1886年)神武車、戦前は宮ケ崎町が所有していたという
▽ 最も新しい(1996年)咲耶車
廿日会祭(はつかえさい)のお踟(おねり:山車の巡行)は
駿府の町々に春を届けてくれるかのような
心うきたつものがあります。
おねりに「練」ではなく「踟」の字を当るのは
木遣りを歌いながら山車を牛に曳かせる
いかにも穏やかな気質の静岡らしさを
思わせるものがあります。
(5年ほど前から牛の調達が困難なためか
牛に曳かせるものが順次少なくなり
現在は皆無になってしまったのは残念です。)
昨年は震災の影響で中止されたため
2年ぶりの巡行です。
戦後始まった静岡まつりは、廿日会祭に連動して
(役所側は政教分離に配慮してか
「呼応して」といかにも役所的な責任逃れのような言い方をしている)
当初は全く同じ日程の4月1日~5日に実施されていました。
つまり市民感覚で言えば
廿日会祭≒静岡まつりだったのですが
近年、静岡まつりは休日重視となり
今年はついに静岡まつりの方は4月6~8日となり
完全分離となってしまいました。
まあ、官製の静岡まつりは
奇をてらうようなものばかり実施していますので
かえってすっきりなのかもしれません。
それにしても
山車の巡行を市をあげて支援している
川越まつりなどと比較して(川越市役所所有の山車もある)
伝統軽視の静岡市という印象は
ぬぐいさることはできないのですが・・・・・
(もちろん政教分離は大事ですが
支援する方法はあると思われます。)