駿 府 は 96 か 町

駿府はちぃっと覇気がないけぇが,御所(ごせ)っぽくていいじゃん【ごせっぽい≒平穏でせいせいしている様】

両替町六丁目(りょうがえちょう ろくちょうめ)

2008年07月30日 09時16分12秒 | 駿府96か町のいま
▽夜はにぎわう旧両替町六丁目も朝は閑散とした町なみである。





旧【両替町六丁目(りょうがえちょう ろくちょうめ)】は、
両替町通りの西から6ブロック目(つまり静岡駅に最も近いブロック)の町で、玄南通りと江川町通りの間の東西一丁の町でした。
(現在の両替町二丁目は、おおむね旧両替町四丁目~六丁目を合わせたもの)
現在、玄南通りや静岡駅にも近い旧六丁目はほとんど飲食店街となってしまっています。
四半世紀ぐらい前までの普通の商家が並んでいた下町的な風情は全くなくなってしまっています。
そういえば、昔ここには“十の字”という料理屋があり、親戚の法事などで利用したりしたものでした。

両替町六丁目を現在の町名でいうと
両替町二丁目5、6、7番地
(町名変更は1945年)



アクセント
両替町のアクセントは、「低高高低低低」です。
最近は地元TV局のアナウンサーも静岡育ちでない人がほとんどのためか、「低高高高高高」というアクセントで読むことが多く、伝統的地名アクセントの破壊を助長しているようです。

方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって両替町通りは東西、江川町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。




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両替町五丁目(りょうがえちょう ごちょうめ)

2008年07月30日 08時58分08秒 | 駿府96か町のいま
▽旧両替町五丁目の町なみ





旧【両替町五丁目(りょうがえちょう ごちょうめ)】は、
両替町通りの西から5ブロック目、下石町通り(現青葉通り)と玄南通りの間の東西一丁の町でした。
(現在の両替町二丁目は、おおむね旧両替町四丁目~六丁目を合わせたもの)

現在、一般に「両替町」というとこの旧五丁目、旧六丁目あたりを指して
“市内最大の飲食店街だ”と言う言い方がされているようです。
(実際、夜間は人通りが絶えることがなく明け方までにぎわっているようです。)


両替町五丁目を現在の町名でいうと
両替町二丁目3、4番地
(町名変更は1945年)



アクセント
両替町のアクセントは、「低高高低低低」です。
最近は地元TV局のアナウンサーも静岡育ちでない人がほとんどのためか、「低高高高高高」というアクセントで読むことが多く、伝統的地名アクセントの破壊を助長しているようです。

方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって両替町通りは東西、下石町通り(現青葉通り)は南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。




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両替町四丁目(りょうがえちょう よんちょうめ)

2008年07月26日 04時10分14秒 | 駿府96か町のいま
▽旧両替町四丁目のまちなみ



旧【両替町四丁目(りょうがえちょう よんちょうめ)】は、両替町通りの西から4ブロック目、
七間町通りと下石町通り(現青葉通り)の間の東西一丁の町でした。
(現在の両替町二丁目は、おおむね旧両替町四丁目~六丁目を合わせたもの)

旧静岡市の中心商店街は、地方都市としては賑わっているとよく言われるのですが、
日常の買回り品を扱う店は意外と少ないのです。

そんななかで、この一画には日常の買回り品である精肉店、青果店、鮮魚店があり、
戦前の静岡市を舞台にした児童文学の「寺町三丁目十一番地」の世界の片鱗を見るような気がします。
(「寺町三丁目十一番地」は、静岡市出身の渡辺茂男氏著、福音館書店)

それにしても、三笑亭のウィンドウの、季節にちなんだ飾り(7月は七夕にちなんだもの)が
なかなか見事です。(ウィンドウ中央の排水管らしき管がちと残念)





両替町四丁目を現在の町名でいうと
両替町二丁目1、2番地
(町名変更は1945年)



アクセント
両替町のアクセントは、「低高高低低低」です。
最近は地元TV局のアナウンサーも静岡育ちでない人がほとんどのためか、「低高高高高高」というアクセントで読むことが多く、伝統的地名アクセントの破壊を助長しているようです。

方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって両替町通りは東西、七間町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。
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両替町三丁目(りょうがえちょう さんちょうめ)

2008年07月24日 16時25分43秒 | 駿府96か町のいま
▽旧両替町三丁目のまちなみ



旧【両替町三丁目(りょうがえちょう さんちょうめ)】は両替町通りの西から3ブロック目、
人宿町通りと七間町通りの間の東西一丁のいわゆる両側町でした。
(現在の両替町一丁目は、おおむね旧両替町一丁目~三丁目を合わせたもの)

ここは、七間町通りに近いため、飲食店ビルやマンションなど、ビルが増えています。
そんななかで木造の“あなごや”が、かえって存在感を示しています。


(町名変更は1945年)



アクセント
両替町のアクセントは、「低高高低低低」です。
最近は地元TV局のアナウンサーも静岡育ちでない人がほとんどのためか、「低高高高高高」というアクセントで読むことが多く、伝統的地名アクセントの破壊を助長しているようです。

方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって両替町通りは東西、七間町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません
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両替町二丁目(りょうがえちょう にちょうめ)

2008年07月23日 15時28分26秒 | 駿府96か町のいま
▽旧両替町二丁目の街なみ
 (両替町通りは電線が地中化されているのですっきりした街なみとなっている。)




▽銀座跡の碑


旧【両替町二丁目(りょうがえちょう にちょうめ)】は、
両替町通りの西から2ブロック目、
上石町通りと人宿町通りの間の東西一丁の町でした。
(現在の両替町一丁目は、おおむね旧両替町一丁目~三丁目を合わせたもの)

ここは、駿府銀座があった場所で、
商店街などに付けられている銀座などではなく本来の銀座があったところです。

江戸の銀座は駿府の銀座を移したもので、江戸期の町名は「新両替町」でした。


(町名変更は1945年)



アクセント
両替町のアクセントは、「低高高低低低」です。
最近は地元TV局のアナウンサーも静岡育ちでない人がほとんどのためか、
「低高高高高高」というアクセントで読まれることが多く、
伝統的地名アクセントの破壊を助長しているようです。

方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、
JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、
ここでは(特に碁盤の目地区)、より実際の方位に近い
「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって呉服町通りは東西、七間町通りは南北の通りということになります。

その他
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両替町一丁目(りょうがえちょう いっちょうめ)

2008年07月23日 06時00分00秒 | 駿府96か町のいま

▽伝、十返舎一九の生誕地




旧【両替町一丁目(りょうがえちょう いっちょうめ)】は、両替町通りの西端、本通りと上石町通りの間の東西一丁の町でした。
(現在の「両替町一丁目」は、おおむね旧両替町一丁目、二丁目、三丁目を合わせたもの)

ここには、静岡大火(1940.1.15)、静岡大空襲(1945.6.20未明)からも奇跡的に難を逃れた
“伊伝”の渡辺家の持仏堂「不去来庵」があります。

また、駿府の町奉行の同心の子である十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の生誕の地であると
言われています。

なお、両替町の名は旧二丁目に銀座が置かれ、金や銀の両替商が軒を並べていたことに由来します。

この旧一丁目の北側ブロックは、近年再開発計画が持ち上がっています。
近い将来大きく変貌してしまうかもしれません。

余談ながら、地元では「りょうがエちょう」の「エ」は、「イ」に近い「エ」で発音されることが多いようです。


▽伊伝さんの持仏堂




旧「両替町一丁目」は、おおむね、現「両替町一丁目」のうち1番地・2番地
(町名変更は1945年)



アクセント
両替町のアクセントは、「低高高低低低」です。
最近は地元TV局のアナウンサーも静岡育ちでない人がほとんどのためか、
「低高高高高高」というアクセントで読まれることが多く、
伝統的地名アクセントの破壊を助長しているようです。

方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、
JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、
ここでは(特に碁盤の目地区)、より実際の方位に近い
「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって呉服町通りは東西、七間町通りは南北の通りということになります。

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駿府は96カ町(プロローグ)

2008年07月22日 07時43分23秒 | プロローグ
駿府・町奉行所跡に建つ1934年建設の市庁舎本館。
 スペイン風ドーム(あおい塔)のあるこの建物は、96年に登録有形文化財に指定されている。


江戸は808町、駿府は96カ町と言われています。
(実際には、江戸は江戸時代末期には808町の何倍もの町があったようですが)
現在の旧静岡市の中心市街地には、江戸期の町名がかなり残っているように思われる方も多いかもしれません。

なるほど、各地で実施されている住居表示制度による町名改悪の惨禍からはまぬがれてはいますが、
1940年の静岡大火後の街路の拡幅・新設に伴う町名整理(実施は1945年)でかなりの町名や、
城下の町名の付け方の原則が失われてしまっています。
(当時の上級官庁の指導により、
今日の住居表示制度の考え方に近い1街区ごとに親地番を割り振る※外廊式地番割が採用されたことに伴い、
大幅に町界変更が必要となり多くの町名が失われたとされる。)
それらの町名への追悼もかね、96カ町の現在の表情を再確認してみたいと思っています。

なお、駿府城下における町名の「○丁目」は、町名の下位区分という性格のものではなく、
札之辻町(ふだのつじちょう)などの丁目なしの「○○町」と、
呉服町一丁目~呉服町六丁目などの「○○町○丁目」は
町の大きさもほぼ同じの同等の町であり、それぞれから町年寄が選出されていました。
最近の住居表示制度などにおける「丁目」は、
もともとは農地等だったため広すぎる大字(おおあざ)を適当なブロックに区切り、
行政上の適正規模(?)実現のための方便の単位として使われるようになってしまっていますが、
駿府の丁目は文字どおり通り沿いに約1丁(約109m)ごとでした。
したがって、中心部の1丁四方に町割りされた碁盤の目地区では、
道路沿いの1街区ごとに「○○町○丁目」と名付けられていて、
現在の街区方式の住居表示制度よりよほど分かりやすいものでした。

<以下、ひとりごと>
近年、旧町名の碑が街角に設置されていますが、
駿府の特長である「丁目」を全く無視した碑であることは、はなはだ残念なことです。
例えば、青葉通交番向い側に下石町(しもごくちょう)の碑がありますが、単に「下石町」と言う表示です。
たしかに丁目ごとに設置では費用の点でむずかしいのかも知れませんが、
せめて「下石町一~三丁目」と言った表記にできないものなのでしょうか?
もっとも、下石町の碑の説明プレート(かなり金をかけたと思われる)に、
「常磐町・・・・に再編された」というべきところ「常盤町・・・・に再編された」と「磐」の字が誤記されていて、
町名の字さえまともに認識していない市役所の担当職員のやっつけ仕事(町名の碑なのに町名に注意を払わないなんて・・・)なのですから、
期待する方が無理なのでしょう。
(施行業者が間違ったのか知りませんが、その場合でも免責ということはないでしょう!)


外廊式地番割=一般的には土地の1筆ごとに1番地、2番地、3番地・・・・と地番を割り振っていくのに対し、
一定の街区に親地番を1番地、2番地・・・・と割り振り、
個々の筆には1番地の1、1番地の2、1番地の3・・・と最初から枝番を割り振る。

住居表示制度=住所を土地の番号(いわゆる番地)ではなく、建物に付けた「住居番号」で表す。
具体的には街区ごとに街区符号(○○番)を割り振り、
個々の建物には基準地点(市役所や代表駅など)に近い角から右回りに10mごとのフロンテージを設け、
何番目のフロンテージに玄関が属するかで住居番号(角から30mを超え40mまでに玄関があれば「4号」というように)が決められる。
したがって住所の表示方は、「○○町(又は○○△丁目)○○番○○号」となる。
なお、小路や集合住宅などでは住居番号に枝番が用いられることがある。
また、近年「住居表示」という言葉の伸展に伴い、
たとえ番地表示地区でも「住居表示は・・・」などと用いられることがあるが、正しくは「住所表示」と言うべき。

<お茶の花>
参考図書
▽「江戸時代の駿府」若尾俊平/静岡谷島屋
▽「静岡市の百年」山内政三/ 静岡市百周年記念出版会
▽「静岡中心街誌」 安本博編/静岡中心街誌編集委員会
▽「安東十三ケ町郷土誌」/ 安東十三ケ町郷土誌編纂委員会
▽「街かどのこみち」静岡市立児童会館編/静岡市教育委員会
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96カ町の町々(索引)

2008年07月22日 07時00分00秒 | 96か町一覧(あいうえお順)
※ 駿府の町名は基本的に「◯◯町◯丁目」が町の単位です。
 (「◯丁目」は小字や番地のような町名の下位区分ではなく「町名の一部」と捉えるべきです。)



あべ 安倍町(未)

   安倍川町(二丁町)(未)

あん 安西町一丁目(未)

   安西町二丁目(未)

   安西町三丁目(未)

   安西町四丁目(未)

   安西町五丁目(牛屋町)(未)

いも 鋳物師町(未)

いん 院内町(未)

えが 江川町

えじ 江尻町

おお 大鋸町(未)

おん 御台所町(未)

かじ 鍛冶町

かた 片羽町(未)

かみ 上魚町

   上桶屋町(未) 

   上草深町(未) 

   上石町一丁目(未)

   上石町二丁目(未)

   上大工町(未)

   上横田町(未)

くる 車町(未)

けか 毛皮町(未)

けよ 花陽院門前町(未)
   
こう 紺屋町

ごき 御器屋町(1)

ごき  御器屋町(2)

ごふ 呉服町一丁目

ごふ 呉服町二丁目

ごふ 呉服町三丁目

ごふ 呉服町四丁目

ごふ 呉服町五丁目

ごふ 呉服町六丁目

ざい 材木町(未)

さる 猿屋町(未)

しち 七間町一丁目(未)

   七間町二丁目(未)

   七間町三丁目(未) 

しもう 下魚町

しもう 下魚町(続)

しもお 下桶屋町

しもく 下草深町(未)

しもご 下石町一丁目

しもご 下石町二丁目

しもご 下石町三丁目

しもよ 下横田町(未)

じょ 常慶町

しん 新谷町

   新通一丁目(未)

   新通二丁目(新通大工町)(未)

   新通三丁目(未)

   新通四丁目(未)

   新通五丁目(未)

   新通六丁目(未)

   新通七丁目(未)

   新通川越町(未)

ちゃ 茶町一丁目(未)

   茶町二丁目(未)

てら 寺町一丁目

てら 寺町二丁目

てら 寺町三丁目

てら 寺町四丁目

とう 藤右衛門町(未)

とき 研屋町(未)

とだ 土太夫町(未)

にし 西寺町(未)

ばば 馬場町(未)

ひと 人宿町一丁目(未)

   人宿町二丁目(未)

   人宿町三丁目(未)

ひら 平屋町

ふた 札之辻町(未)

ほん 本通一丁目(未) 

   本通二丁目(未)
 
   本通三丁目(未)
 
   本通四丁目(未)

   本通五丁目(未) 

   本通六丁目(未)

   本通七丁目(未) 

   本通八丁目(未) 

   本通九丁目(未)

   本通川越町(未) 

   本通堤添町(未)

みや 宮ヶ崎町(未)

やは 八幡町(未)

ゆず 柚木町(未)

よこ 横内町(未)

   横内田町(未)

よつ 四足町


りょ 両替町一丁目

りょ 両替町二丁

りょ 両替町三丁目

りょ 両替町四丁目

りょ 両替町五丁目

りょ 両替町六丁目
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くまたかばし

2008年07月21日 17時54分56秒 | 路傍のいしぶみ (碑)
▽ 交差点にぽつんとたたずむ





江川町交差点北側の安藤建設静岡支店ビル(葵区追手町2番12号)前に
なにやら昔の墓石のようなものがあります。
道行く人はだれも気にもとめず、脇を通り抜けていきます。

石をよく見るとどうやら「くまたかばし」と刻まれているようです。

実はここにはその昔川が流れていて、
その川に架けられていた橋が“くまたかばし”というわけです。

(なまって“くがたか橋”とも言われるようです。)

“くまたか”は、角鷹、熊鷹、鵰 などと書きますが、ようするに鷹狩りに使用する鷹のことです。

安藤建設ビルと新静岡センターの間の交差点は土地がやや高くなっていますが、
その昔、川が流れていた名残
(川は暗渠となって流れている?)なのではと想像されます。

橋の名の由来は、クマタカを飼っていた鷹匠
(たかじょう)
このあたりに住んでいたことに由来するようです。

(橋自体は今川時代からあったようです。)

今では川はおろか橋のあったことも想像できず、
この墓石のような碑
(いしぶみ)だけがその名残をとどめています。


サイト「静岡見て歩き(竹千代の人質時代)」に昔の川の様子がでています。


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