<葵区 黒金町1番地の9>
◆現場は静岡中央郵便局と市の音楽館・AOIの合築ビルの前です。
正面玄関前のスペースにぐるっと張り巡らされた無粋なクサリは何とかかなりませんかね。
たしかにクサリで囲んでおかないと、多くの自転車で占拠されてしまうっていうことは理解できますが・・・・
でも、美観的にどうかと思いますし、コンサートホール前の雰囲気を著しく阻害していて、非常に見苦しい光景です。
(年賀はがきの旗もあまり美しいとも思われませんが、まあここでは問わないことにします。(笑))
静岡駅前という立地条件から自転車の駐車スペース化するということは当然に予想できたはずですから、自転車を止めにくいスペースを工夫すべきではなかったかと思うのですが・・・・
こういう醜い事例をたくさん集めて都市景観を深刻に考えてみたいです。(笑)
◆日本で通り名(街路名)があまり定着していないのは、
ヨーロッパの都市のように「通り名(街路名)=住所名」ではないことが災いしていると思われます。
そればかりか霞が関のお役人は、
江戸期からのほとんどの城下町では
街路に沿って町名が付けられていた(いわゆる両側町)のに
行政効率優先の「住居表示制度」というのを考え出し
わざわざ分かりにくい街区方式の町名に変更を強制しました。
(1962年の「住居表示に関する法律」の施行時には、
○○年までに実施しろといった努力目標が盛り込まれていたので、
60年代、全国の多くの都市で町名変更が行われた。
全く従わなかったのは京都市だけだと思われる。)
もちろん、急激に農地等が宅地化していったような地区では、
その従前の「大字」のままでは非常に分かりづらくなっていたので、
住居表示制度は有効であったことを認めるものですが・・・・
日本の住居表示制度の最大の欠点は、
住民を管理するという観点からしか制度が考えられていないことです。
たとえば、ヨーロッパの都市では
「○○通り○番地」と聞けば現地がどこなのかおおよその見当がつくのに対し、
日本のそれは「○丁目○番○号」と正確な所在地を聞いたとしても
現地がどこなのか地図なしではさっぱり分かりません。
そんな反省からか
国土交通省では「通り名」を付ける試みを始めているようです。
このことは、ひとつの前進で評価すべきだと思われます。
ただ、住居表示制度の実施で、
住居表示地区の住民は住所を表す「住居表示番号(ハウス番号)」と、
土地の登記や固定資産税の課税などに使われる「土地の番号(いわゆる番地)」と
二つの番号を覚えなくてはならなくなっています。
さらに通りの名前(街路名)となると3種類を使いわけなくてはならないので、
実際に通り名(街路名)が定着するのかどうかむずかしい面もあると思われます。
国土交通省の「通り名」に関するHP
※9月26日、文章を一部補綴しました。
ヨーロッパの都市のように「通り名(街路名)=住所名」ではないことが災いしていると思われます。
そればかりか霞が関のお役人は、
江戸期からのほとんどの城下町では
街路に沿って町名が付けられていた(いわゆる両側町)のに
行政効率優先の「住居表示制度」というのを考え出し
わざわざ分かりにくい街区方式の町名に変更を強制しました。
(1962年の「住居表示に関する法律」の施行時には、
○○年までに実施しろといった努力目標が盛り込まれていたので、
60年代、全国の多くの都市で町名変更が行われた。
全く従わなかったのは京都市だけだと思われる。)
もちろん、急激に農地等が宅地化していったような地区では、
その従前の「大字」のままでは非常に分かりづらくなっていたので、
住居表示制度は有効であったことを認めるものですが・・・・
日本の住居表示制度の最大の欠点は、
住民を管理するという観点からしか制度が考えられていないことです。
たとえば、ヨーロッパの都市では
「○○通り○番地」と聞けば現地がどこなのかおおよその見当がつくのに対し、
日本のそれは「○丁目○番○号」と正確な所在地を聞いたとしても
現地がどこなのか地図なしではさっぱり分かりません。
そんな反省からか
国土交通省では「通り名」を付ける試みを始めているようです。
このことは、ひとつの前進で評価すべきだと思われます。
ただ、住居表示制度の実施で、
住居表示地区の住民は住所を表す「住居表示番号(ハウス番号)」と、
土地の登記や固定資産税の課税などに使われる「土地の番号(いわゆる番地)」と
二つの番号を覚えなくてはならなくなっています。
さらに通りの名前(街路名)となると3種類を使いわけなくてはならないので、
実際に通り名(街路名)が定着するのかどうかむずかしい面もあると思われます。
国土交通省の「通り名」に関するHP
※9月26日、文章を一部補綴しました。
<この地図には「新貝丁」と表記されている>
<○=現江川町交差点、 黄線=現御幸通りのおおむねの位置で右手が静岡駅>
<再開発ビル、下層部はペガサートの愛称が付けられている。>
<耐震偽装でビルを取り壊し、2階建で再出発したバイブ2007ビルにある駿府城の図>
◆大阪人なら「しん・たにまち」と読んでしまうかもしれませんが、
新谷町は「しんがいちょう」と読みます。
町名の由来は小梳(おぐし)神社の神官、新谷右近の屋敷があったからだと言われています。
(小梳神社は、旧青葉小学校あたりにあったものを、
駿府城築城に伴い新谷町へ移転、さらに江戸期に紺屋町へ移転したとか)
新谷町は、今はない町名であるばかりか、
どのあたりか認識するのも難しくなってしまっていると思います。
というのは、新谷町は江川町通りの北端からほぼ直角に東へ伸びる
旧東海道沿いの町(江川町通りと旧紺屋町通りの間約40間)だったのですが、
御幸通りの建設に伴う区画の変更で現地の街区の形状が
変わってしまっているからです。
(御幸通りは、駿府の町割りの方角を無視するかのように、
江川町交差点と駅を真っ直ぐ結ぶように斜めにつくられた。)
現在の街区で言うと、おおむね江川町交差点からの伝馬町通りということになります。
現地に建つ新谷町の旧町名の碑の説明板には、
これらの説明は一切なく大変不親切です。
また、路線式の江戸期の城下の町割り(ヨーロッパの都市の住所表示方に近い)を
現在の街区式に拘泥して表示しているのですが、
この表示は返って理解しづらいでしょう。
(道路に面していない土地がどこの町に属するかということは、
現在の固定資産税の課税や土地の登記等には必要なことではあっても、
江戸期の町人地ではあまり意味のないことだと思われます。)
◆旧新谷町のあたり
◆方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、
JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、
ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして
城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって呉服町通りは東西、江川町通りは南北の通りということになります。
◆その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、
内容の正確性を保障するものではありません。
▽「安東二丁目5番」 と 「西千代田町4番」の間を流れる十二双川
▽ よく見ると湧水が・・・・(安東二丁目3番付近)
駿府城の北側を流れている小川は、
みな海と反対方向の北に向かって流れていて、ちと不思議な感じがします。
みな海と反対方向の北に向かって流れていて、ちと不思議な感じがします。
(暗渠(あんきょ)になっている箇所が多く、
実際に見られる川は非常に少なくなってしまっていますが・・・)
これは、北に向かって土地が低くなっているからで、
最も低いところに麻機沼が形成されたのでしょう。
そんな川のひとつが十二双川で、
船を横に十二そう並べて、両岸から綱で船を引っ張り
駿府城築城に必要な石垣用の石や物資を運んだのが
最も低いところに麻機沼が形成されたのでしょう。
そんな川のひとつが十二双川で、
船を横に十二そう並べて、両岸から綱で船を引っ張り
駿府城築城に必要な石垣用の石や物資を運んだのが
の名称の由来だということです。
(安東一丁目6番には熊野神社があり、
熊野権現十二社(じゅうにそう)からの命名も考えられると思うのですが)
十二双川は現在はとても小さな川ですが、
大正から昭和始め(1913~1934年)にかけて行われた
大正から昭和始め(1913~1934年)にかけて行われた
※安倍郡安東村における大規模な耕地整理が行われる前までは、
かなりの川幅だったとのことです。
駿府城に近い市街地ではかなり暗渠にされてしまっていますが、
それでも安東二丁目3番から西千代田町34番あたりまでは
かなりの川幅だったとのことです。
駿府城に近い市街地ではかなり暗渠にされてしまっていますが、
それでも安東二丁目3番から西千代田町34番あたりまでは
流れをたどることができます。
西千代田町34番の先、
西千代田町34番の先、
県営十二双団地脇(「上足洗二丁目5番」 と 「北安東一丁目1番」の間)から
唐瀬街道まで(「上足洗三丁目13番」 と 「北安東五丁目10番」の間)の区間は、
道路の幅員を広げるために暗渠にされてしまって見ることはできません。
唐瀬街道を超えると(城北1番地の7あたり)暗渠から解放(?)され、
竜南小学校裏を通り、安東川と合流して巴川につながっています。
それにしても、十二双団地脇から先の600mほどの区間が
唐瀬街道まで(「上足洗三丁目13番」 と 「北安東五丁目10番」の間)の区間は、
道路の幅員を広げるために暗渠にされてしまって見ることはできません。
唐瀬街道を超えると(城北1番地の7あたり)暗渠から解放(?)され、
竜南小学校裏を通り、安東川と合流して巴川につながっています。
それにしても、十二双団地脇から先の600mほどの区間が
暗渠にされてしまっているのは 非常に残念なことです。
静岡市は道路整備の遅れを、とりあえず川があるところにフタをして
静岡市は道路整備の遅れを、とりあえず川があるところにフタをして
幅員を確保しようといった 小手先の手段で
川を犠牲にしてしまうことが非常に多いようです。
一方、静岡市の城北地区都市計画マスタープランには
「安東川・十二双川・巴川などの親水機能に配慮した水辺空間を形成し、
一方、静岡市の城北地区都市計画マスタープランには
「安東川・十二双川・巴川などの親水機能に配慮した水辺空間を形成し、
まちづくりに活用を図ります。」と
暗渠にしておきながらもっともらしいことを堂々と書いてしまったりするのは、
本当に厚顔無恥と言った感じで恥ずかしいことかぎりなしです。
それはともかく
暗渠にしておきながらもっともらしいことを堂々と書いてしまったりするのは、
本当に厚顔無恥と言った感じで恥ずかしいことかぎりなしです。
それはともかく
住宅が密集した地域の小さな川は ドブ川状態になってしまうのが通例ですが
この十二双川は不思議なくらいきれいです。
これは安倍川の伏流水が豊富で
これは安倍川の伏流水が豊富で
川のあちこちで湧水が噴出しているおかげだと思われます。
この貴重な川の親水機能を生かさずフタをしてしまうなんて、
本当にもったいないことです。
西千代田地区だけでもぜひとも残してほしいと、河原崎さんでなくとも願うものです。
この貴重な川の親水機能を生かさずフタをしてしまうなんて、
本当にもったいないことです。
西千代田地区だけでもぜひとも残してほしいと、河原崎さんでなくとも願うものです。
(個人で看板を出してしまうなんてすごいです。)
▽ 谷崎潤一郎風(?)の長い文節による説明文(以前はもっと小さな看板だった)
▽ 暗渠にされてしまった地区、皮肉にも横の県営団地の名は「十二双団地」
▽ 住宅密集地を流れる十二双川
※
・1889年 北安東村と大岩村を併せ、市町村制度による安東村発足
(現在の安東地区はすべて旧北安東村であったが、
(現在の安東地区はすべて旧北安東村であったが、
安東村成立時に南安東村(現在の瓦場町、東町、南町など)は消滅していたため
単に安東村とされたものと思われる。)
・1929年 安東村が静岡市に合併
・大岩二丁目1番に耕地整理の記念碑があり(バス停名:記念碑前)、
・1929年 安東村が静岡市に合併
・大岩二丁目1番に耕地整理の記念碑があり(バス停名:記念碑前)、
タクシー運転手にも「記念碑前」で通じるとか・・・
<途中からあいにくの雨でシートが・・・>
<葵区 七間町5番地の3付近>
◆9月13日(土)14日(日)の予定で、呉服町通りでは例の「おだっくいまつり」が開催されている。(ほかに“けやきどおり”や清水区のドリームプラザでも)
意図的に対抗しているのかどうかは分からないが、七間町ではこの期間に世界の民族音楽と食が集まる2日間と称して「WORLD MUSIC BAZAR」という別の催しが毎年開かれる。
今年で4年目だとか・・・・
催しとは無関係のことだが、13日から静岡東映は直営による映画館の経営から撤退して、静活に貸与し「ピカデリーゼロ」になった。(県内から東映の直営館はなくなるとか)
<こちらは“おだっくいまつり”>
<宝台院の本堂(葵区常磐町二丁目13番地の2)>
<お愛の方の墓>
<宝台橋はなくなってもバス停は「ほうたいばし」>
<門前の店:静岡風親子丼の元祖(?)中村屋は今川の時代からあるとか>
◆下魚町といったら「宝台院」でしょう。
かつて下魚町の通りのすぐ裏手から宝台院の境内地だったようです。
昔の地図を見ると(地図の縮尺が正確とは限らないが)1万坪はありそうです。
西からの旧東海道を安倍川を超えて駿府城方面に向かうとき、人宿町から七間町へ直角に曲がるのですが、
ここを曲らずにまっすぐ進むとそのまま宝台院参道(今は普通の道だが)となり宝台院正面に達します。
<新通一丁目→梅屋町→人宿町三丁目→藤右衛門町→常慶町→下魚町(宝台院)>
あたかも宝台院のために旧東海道の通る位置が選定されたかのようです。
格式を誇った宝台院も静岡大火(1940年)で焼失し
その後の区画整理により境内地の大方を失い(戦後は裏側を国道1号用地に削られ)
今ではほとんど本堂のみと言った感じです。
(大火で焼失前の本堂は国宝であった。)
なお、秀忠寄進の山門は
1932年に菊川市の応声教院という寺に移設されていたため
大火に合うこともなく今日でも見ることができるということです。
(寺院の財政状況で売却されてしまったのでしょうか?)
<宝台院あたりの図(参道には塔頭があったようだ)>
<写真は逆方向から(参道も今では普通の道)>
<寺院併設の幼稚園、少子化で来年春に閉園が決まっていて、現在は年長組だけとか>
<これといった特長をみつけにくい町並(安倍川方向を望む)>
<しずおか かっぱばしを謳う>
<漢方の石川屋>
<大正時代に七間町三丁目(当時)から下魚町へ移ってきたという大石精肉店>
◆旧【下魚町】は、玄南通り(タカラ同横から南へ伸びる道)の江尻町の南側、現・昭和通り
から南へ一丁(60間、約109m)の町(丁目は付かない)でした。
(真ん中を東西に横切る小路は静岡大火後の区画整理で設けられたもの)
下魚町と言っても現在のこの地域には、旧町名にふさわしい業種の店はないようです。
6代続くという漢方薬局(旧静岡市の市民景観大賞を受賞)が異彩を放っているようです。
たまご酒さんのブログにも
なお、上魚町(別称「上之店(かみんたな)」)は現在の金座町(日銀静岡支店があるところ)、「中之店(なかんたな)」は、現青葉通りの一番北部(下石町一丁目北側:町名には採用されず横丁扱い)です。
まったくの余談ですが、駿府の言葉では格助詞の「の」は、「ん」になることが多いようです。(共通語でも「ぼくのうち」を「ぼくんち」等の例がある。)
例:火屋の土手(ひやんどて)、札之辻(ふだんつじ)
さすがに東京の「山手線」を「やまんてせん」と言う駿府衆に出会ったことはありませんが・・・(笑)
◆下魚町を現在の町名で言うと・・・常磐町二丁目1・2・4・5番地の各一部(町名変更は1945年)
◆方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって呉服町通りは東西、七間町通りは南北の通りということになります。
◆その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。
<人工の樹木が・・・>
<古い料亭も健在。1880年創業の求友亭(葵区 常磐町一丁目6番地の1>
<昭和通りとの交差点・ビジネスホテルが建設中>
◆旧【江尻町】は、玄南通り(タカラ堂横から南へ伸びる道)の平屋町の南側、現・昭和通りまでの一丁(60間、約109m)の町(丁目は付かない)でした。
(真ん中を東西に横切る小路は静岡大火後の区画整理で設けられたもの)
江尻町という名称から清水と関係あるのかと思っていたのですが、どうやらこのあたりの南西の旧川辺村あたりは沼地になっていて、その沼地に流れ込む川が流れていたことから命名されたようです。(江尻(現清水区)出身者が多く住みついた町とする説もあるようです。)
◆旧江尻町を現在の町名で言うと・・・常磐町一丁目4・5・6・7番地付近(町名変更は1945年)
◆方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって呉服町通りは東西、七間町通りは南北の通りということになります。
◆その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。
<呉服町通りの旧五丁目の東端にあるタカラ堂横から南へ伸びる「玄南通り」、一番手前の一丁は、町名のないいわゆる横丁だが「玄南横丁」と呼ばれていた。さらに一丁ごとに「平屋町」「江尻町」「下魚町」と寺町通りまで続く。(安倍川方向を望む)>
◆旧【平屋町】は、玄南通りの両替町通り交差点から南側へ一丁(60間、約109m)の町(丁目は付かない)でした。
(町の真ん中を横切る東西の小路は静岡大火後の区画整理で設けられたもの)
現在、この付近は両替町二丁目の横丁的性格になっており、ほぼ両替町と一体化した町と言っていいと思われます。両替町二丁目のように夜の方が賑やかかもしれません。
◆旧「平屋町」を現在の町名で言うと・・・
常磐町一丁目1番地、2番地の各一部
両替町二丁目の一部
(町名変更は1945年)
◆方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって呉服町通りは東西、七間町通りは南北の通りということになります。
◆その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。