▽ 三門からの法堂(左手に京都タワーが見える)
▽ 国宝の三門(棟高22mで禅宗の寺院の三門としては最も大きい)
▽ (左)三門の太閤柱(角柱) ・ (右)聖一国師像(法堂内)
▽ 法堂の堂本印象(どうもと いんしょう)による天井画「蒼龍」
▽ 法堂の吉山明兆(きつさん みんちょう)による重要文化財の 涅槃図 (大きさ8間×4間)
(通常は描かれないネコが左下に描かれている)
▽ 国宝の三門(棟高22mで禅宗の寺院の三門としては最も大きい)
▽ (左)三門の太閤柱(角柱) ・ (右)聖一国師像(法堂内)
▽ 法堂の堂本印象(どうもと いんしょう)による天井画「蒼龍」
▽ 法堂の吉山明兆(きつさん みんちょう)による重要文化財の 涅槃図 (大きさ8間×4間)
(通常は描かれないネコが左下に描かれている)
静岡市民なら静岡茶は
栃沢(とちざわ:葵区・栃沢(旧大川村))出身の聖一国師(円爾:1202~1280)が
宋からお茶の種子を持ち帰り
足窪(あしくぼ:葵区 足久保奥組)に植えたのが始まりだということは
先刻御承知のことでしょう。
(静岡市制定の「お茶の日」が11月1日なのは国師の生誕の日に由来)
その聖一国師が開山したのが
京都五山(天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺・別格:南禅寺)のひとつである東福寺ですが
静岡市民には、存外東福寺のことは知られていないのかもしれません。
旧暦2月15日は釈迦の入滅の日ですが
月遅れとなる3月15日に
涅槃会(ねはんえ)が行われることが多いようです。
東福寺でも3月14~16日に涅槃会が行われるため
普段は非公開の法堂(はっとう:本堂に当る)の大涅槃図を無料で見ることができます。
また有料ながら国宝の三門の上層へ登ることができるのもこの時期だけです。
(法堂、三門とも不定期で公開されることがあるようですが
そのときは特別料金になるようです。)
法堂内では大勢の人が写真を撮っていたので
少々驚いたのですがどうやら写真の撮影は
特に規制されていないようです。
他の寺院でも大涅槃図の公開がされることがあるのですが
東福寺のように写真撮影も自由ということはなく
この寺の鷹揚さは特筆に値いするでしょう。
(この法堂自体は、1881年焼失し1934年に再建されたもので比較的新しい)
また、東福寺の三門より少々大きい知恩院の三門(不定期に公開)では
三門の上層から写真を撮ることも禁止されていますが
ここ東福寺では禁止されていませんでした。
さすがに三門内部
(極彩色の天井画、宝冠釈迦如来像・十六羅漢像)は撮影できません。
栃沢(とちざわ:葵区・栃沢(旧大川村))出身の聖一国師(円爾:1202~1280)が
宋からお茶の種子を持ち帰り
足窪(あしくぼ:葵区 足久保奥組)に植えたのが始まりだということは
先刻御承知のことでしょう。
(静岡市制定の「お茶の日」が11月1日なのは国師の生誕の日に由来)
その聖一国師が開山したのが
京都五山(天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺・別格:南禅寺)のひとつである東福寺ですが
静岡市民には、存外東福寺のことは知られていないのかもしれません。
旧暦2月15日は釈迦の入滅の日ですが
月遅れとなる3月15日に
涅槃会(ねはんえ)が行われることが多いようです。
東福寺でも3月14~16日に涅槃会が行われるため
普段は非公開の法堂(はっとう:本堂に当る)の大涅槃図を無料で見ることができます。
また有料ながら国宝の三門の上層へ登ることができるのもこの時期だけです。
(法堂、三門とも不定期で公開されることがあるようですが
そのときは特別料金になるようです。)
法堂内では大勢の人が写真を撮っていたので
少々驚いたのですがどうやら写真の撮影は
特に規制されていないようです。
他の寺院でも大涅槃図の公開がされることがあるのですが
東福寺のように写真撮影も自由ということはなく
この寺の鷹揚さは特筆に値いするでしょう。
(この法堂自体は、1881年焼失し1934年に再建されたもので比較的新しい)
また、東福寺の三門より少々大きい知恩院の三門(不定期に公開)では
三門の上層から写真を撮ることも禁止されていますが
ここ東福寺では禁止されていませんでした。
さすがに三門内部
(極彩色の天井画、宝冠釈迦如来像・十六羅漢像)は撮影できません。
▽ 法堂前のチャノキ(ほとんどの人が気づかないのはちと残念)
静岡人としてぜひ目に止めてほしいのは
法堂前に植栽されたチャノキです。
これらは静岡市の大川中学校などが
献茶木として植えたようです。
京都で静岡のチャノキに出会うとは
静岡市民として少々晴れがましい思いがします。(笑)
静岡人としてぜひ目に止めてほしいのは
法堂前に植栽されたチャノキです。
これらは静岡市の大川中学校などが
献茶木として植えたようです。
京都で静岡のチャノキに出会うとは
静岡市民として少々晴れがましい思いがします。(笑)
▽ 駿府城址外堀(葵区 追手町 9番)
▽ 駿府城址外堀(葵区 駿府町 1番)
▽ 駿府城址中堀・西門橋のサクラのアーチ(旧清水御門)(葵区 駿府城公園 1番)
▽ 駿府城址二ノ丸・巽櫓(葵区 駿府城公園 1番)
▽ お屋敷町のシダレザクラ(葵区 西草深町 10番)
個人のお屋敷のものですが、けっこう有名です。
▽ 常磐公園(葵区 常磐町三丁目 1番)
ソメイヨシノの間に白い花びらのオオシマザクラが(写真ではほとんど区別できませんが)
あっと言う間に本格的な春となって
あっと言う間もなくソメイヨシノが満開になってしまいました。
ソメイヨシノはすべてクローンで
1本ごとの個性を持ち合わせていないので
気象条件等が同じなら
すべて同時に咲き始めて見ごたえのある風景となるのが長所ですが
散るのもいっせいに散ってしまい
花を見る期間が短いのが短所でもありますね。
(だから桜前線ができるのですが・・・)
ヤマザクラのように個体差があれば
咲く時期が少しずつでもずれて
もう少し長い期間楽しめるのにと思うのは
ないものねだりかもしれませんね。
▽ 駿府城址外堀(葵区 駿府町 1番)
▽ 駿府城址中堀・西門橋のサクラのアーチ(旧清水御門)(葵区 駿府城公園 1番)
▽ 駿府城址二ノ丸・巽櫓(葵区 駿府城公園 1番)
▽ お屋敷町のシダレザクラ(葵区 西草深町 10番)
個人のお屋敷のものですが、けっこう有名です。
▽ 常磐公園(葵区 常磐町三丁目 1番)
ソメイヨシノの間に白い花びらのオオシマザクラが(写真ではほとんど区別できませんが)
あっと言う間に本格的な春となって
あっと言う間もなくソメイヨシノが満開になってしまいました。
ソメイヨシノはすべてクローンで
1本ごとの個性を持ち合わせていないので
気象条件等が同じなら
すべて同時に咲き始めて見ごたえのある風景となるのが長所ですが
散るのもいっせいに散ってしまい
花を見る期間が短いのが短所でもありますね。
(だから桜前線ができるのですが・・・)
ヤマザクラのように個体差があれば
咲く時期が少しずつでもずれて
もう少し長い期間楽しめるのにと思うのは
ないものねだりかもしれませんね。
▽ 「安倍郡大里村役場跡」 と刻まれているが肉眼でも見づらい。(駿河区・馬渕一丁目・3番街区先)
1889年(M22年)の市町村制度発足に伴い
それ以前の多くの村(藩制度に基づく村)が
整理、統合されて市町村制度における村が発足しました。
現静岡駅から見て南西方面の村々も統合されて
「有渡郡 大里村(うどぐん おおざとむら)」が発足しました。
(1896年、有渡郡は、全域が安倍郡へ編入され「安倍郡 大里村」に)
大里村となった旧体制時代からの村は次の17か村です。
弥勒町(みろくちょう=いわば村相当の町)
1889年(M22年)の市町村制度発足に伴い
それ以前の多くの村(藩制度に基づく村)が
整理、統合されて市町村制度における村が発足しました。
現静岡駅から見て南西方面の村々も統合されて
「有渡郡 大里村(うどぐん おおざとむら)」が発足しました。
(1896年、有渡郡は、全域が安倍郡へ編入され「安倍郡 大里村」に)
大里村となった旧体制時代からの村は次の17か村です。
弥勒町(みろくちょう=いわば村相当の町)
川辺村(現在の川辺町一、二丁目・吉野町・桜木町・清閑町・新川一丁目など)
稲川村
中田村
安倍川村(現在の南安倍町・駒形通六丁目の一部、清閑町の一部など)
中原村
石田村
高松村
西島村
西脇村
下島村
中島村
見瀬村
中村
馬淵村
中野新田(新田には村が付かない)
南安東村の一部(おおむね南安東村西側の現静岡駅周辺地域、東側は豊田村となった)
市町村制度の村たる「大里村」発足に伴い、それまでの藩制度の村は「大字(おおあざ)」となり
「大里村 ◯◯ ××番地」のように、住所(所在地)の村の下位区分を表す単位として使われるようになりました。
(県外では「大字◯◯」のように「大字」を付けて使われるところも多かったようですが
県内では、「大字」の更に下位区分の「小字(こあざ)」は登記以外の住所・所在地を表す際には使われなかったためか「大字」の表記は省略するのが一般的だったようです。)
大里村は、1929年(S4年)3月1日に静岡市に合併
(南安東のうち、現 泉町などの静岡駅周辺地区は、それ以前の1915年11月に静岡市に編入)して
40年の歴史の幕を閉じ、「大里」の名称は消滅してしまいました。
( 大里村内の大字は、「大里村中原」を「静岡市中原」のようにそのまま静岡市の町名として採用され、
近年の住居表示制度の施行で変更された地域以外は今でもほぼ当時の範囲のまま使われています。)
「大里」の名称は、現在、小・中学校の校名として残っているものの
公式なものとしてはなくなってしまっていますので
この碑は、数少ない「大里」の名を偲ぶものとなっています。
また、旧静岡市内には他の旧村役場の位置を示すものは見当たらないので
そういう意味でもめずらしい碑なのかもしれません。
▽ 大里村以前は、馬淵村の事務取扱所(村役場という概念はなかった)でもあったため、馬淵村についての掲示もある。
▽ あざれあ(静岡県男女共同参画センター)からJR線を越えて徒歩数分の馬渕緑地内にある。(
南安東村の一部(おおむね南安東村西側の現静岡駅周辺地域、東側は豊田村となった)
市町村制度の村たる「大里村」発足に伴い、それまでの藩制度の村は「大字(おおあざ)」となり
「大里村 ◯◯ ××番地」のように、住所(所在地)の村の下位区分を表す単位として使われるようになりました。
(県外では「大字◯◯」のように「大字」を付けて使われるところも多かったようですが
県内では、「大字」の更に下位区分の「小字(こあざ)」は登記以外の住所・所在地を表す際には使われなかったためか「大字」の表記は省略するのが一般的だったようです。)
大里村は、1929年(S4年)3月1日に静岡市に合併
(南安東のうち、現 泉町などの静岡駅周辺地区は、それ以前の1915年11月に静岡市に編入)して
40年の歴史の幕を閉じ、「大里」の名称は消滅してしまいました。
( 大里村内の大字は、「大里村中原」を「静岡市中原」のようにそのまま静岡市の町名として採用され、
近年の住居表示制度の施行で変更された地域以外は今でもほぼ当時の範囲のまま使われています。)
「大里」の名称は、現在、小・中学校の校名として残っているものの
公式なものとしてはなくなってしまっていますので
この碑は、数少ない「大里」の名を偲ぶものとなっています。
また、旧静岡市内には他の旧村役場の位置を示すものは見当たらないので
そういう意味でもめずらしい碑なのかもしれません。
▽ 大里村以前は、馬淵村の事務取扱所(村役場という概念はなかった)でもあったため、馬淵村についての掲示もある。
▽ あざれあ(静岡県男女共同参画センター)からJR線を越えて徒歩数分の馬渕緑地内にある。(