夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

哲学概念としての「私」の確立

2010年07月20日 | 哲学一般

 

哲学概念としての「私」の確立

哲学の研究の対象が、思考であり世界観であり言語であるとしても、それはすべて、「自我」の産物、つまり、「私」による精神的労働の産物である。我が国において、哲学もまた西洋伝来の学問科学の移入と継承のうえに、学問分野として成立、確立したのであるが、その過程において、西洋の古典的哲学作品の翻訳を通じて、その内実を摂取し、消化してゆくしかなかった。そこには当然のことながら日本人にはまだ無縁な抽象的な観念も少なくなかったから、その観念や概念を日本語として移入してゆくためには、漢語の抽象的な観念の伝統から借用して、新しく造語して行くしかなかった。

そもそも哲学という語彙自体が、よく知られているように、古代ギリシャ語に語源を持つ「PHILOSOPHY」の訳語である。また、科学、国家、憲法、人権、真理、宗教、歴史など、近代・現代の科学や法律、工学などで分野で用いられているほとんどの観念や概念が、西洋の科学、学術の成果の我が国への移植の過程でもたらされたものである。

だから、我が国において、こうした学術で用いられる抽象的で普遍的な重要な概念が、私たちの日常的な生活の場面から長い時間と洗練を経て蒸留され形成されてきたものではなく、どうしても哲学的な思考というものも、西洋の伝統において以上に、その多くが一般大衆の日常生活で使われている生活用語に直接に根を持たない、むしろそれらとは切り離されたところで成立したものとなっている。

しかし、明治維新以来、科学・学問の、西洋から圧倒的な流入から一世紀半も経過しようとしている現状において、伝統的に大衆的になじみの薄かった西洋由来の観念や概念についても、従来の伝統的な日本人の生活と思考の中に、今一度捉え直し、検証し直して行く必要がある。それは、もちろん哲学的思考を概念規定も曖昧な日常的思考や用語の中に再び解消してしまおうということではない。

たとえば、先日の論考で取り上げた、「自我」という哲学的概念についてもそうである。ドイツ語の「Ich」や英語の「I」をなにも「自我」と訳す必要はなく、むしろ「私」と訳したほうがよい。なぜなら、カントやヘーゲルたちの哲学は、この「私=Ich」そのものを徹底的に研究し、その本質を認識してゆく過程で成立したものと考えられるからである。

哲学が主たる研究の対象としている、思考や言語、意識・自意識、精神といった問題は、要するに、古代ギリシャのアテネ神殿に掲げられていたといわれる「汝自身を知れ」という神託を、ソクラテス以来の西洋人たちが数千年にわたって営々と実行し、築き上げ深めてきた「私=汝」そのものを知ることの成果に他ならないからである。

 

 

 

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