玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

68)日系3世JETで来日

2006年09月26日 | ねったぼのつぶやき

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 GET Teacherの多くはJFTプログラムといって日本の学校で英語を教える目的で来日し、もう少し滞在したいという人が多かった。中には海外から応募してきた先生方もいる。リーブシィはその1人だった。JFTは英語に接する機会の少ない地方ほど割り当てが多かったようで、徳之島、宮崎、群馬、金沢から集まっていた。リーダーのKumarもそうやって3年間宮崎で働いたのちBoat乗船5回目だと言っていた。

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 スペイン語教師のN氏(カナダ、ペルー、イタリア国籍)から聞いた話はこうである。祖父が沖縄からペルーへ移民してきた。祖父は若かったのだろう沖縄の女性と見合い写真で結婚を決めたらしい。イザその女性がペルーへ来て所帯を持ったが不満もあったようだ。娘が生まれ長じてその娘はイタリア系の男性と結婚した。つまりN氏は日系とイタリア系の祖父母を持つ事になった。

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 日系の祖父母は働くだけ働いた。躾も厳しかった。一方イタリア系の祖父母はヨーロッパスタイルで事あるごとに集い賑わっており、自分達もイタリアの祖父母になついた。2世である両親は商売をし一時は繁盛もした。勿論働き通しで夜は9時頃まで働いており、子供の養育はアフリカ系のメイドが主にした。そんな家庭環境で学業に励み、学業、スポーツ共にいい成績だった。(スペイン語の無料講座)

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 その後ペルーの経済が破綻し母方の親戚が在住するカナアダへ移住した。父親はフランス語をしゃべれず仕事を得られないため主夫をするしかなかった。妹も大いに落ち込むこととなった。母親にはバイタリティがあって働いた。スポーツの得意な少年は程なく言語も獲得し周りに馴染み大学を無事卒業した。(語学学習グループでのミニ運動会 スペイン語研修希望者は少なく総勢9名)

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 そんな訳で彼はスペイン語、フランス語、イタリア語、英語が話せ、3年間日本でJFTをやったというから日本語も可なりできたと思うが、アフリカの「英語でサファリ・ツアー」では私達の担当であったのに日本語での会話はせずじまいだった。Peace_boat196 風貌は日本人で沖縄顔。日本語読みの○○○は1世の祖父母の命名になるといっていた。将来はイタリアに住みたいと言っていた。ペルーには親戚も多数あるのだろ。会場から合流した親戚と抜け出す姿を見かけた。(同運動会で総数150~60名。最後はゼスチュアー 英語で書かれた短文を代表者がゼスチャーし正確に答える競争 ×チィームの代表はごらんの通り水没!)

コメント
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