玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*前後ありといえども

2008年04月08日 | 捨て猫の独り言

 4月と5月の2ヶ月の期間限定で新しい暮らしが始まった。生まれたての0歳と、5月に誕生日を迎える1歳の2人の女の子と、その母親が我が家に寄宿している。2人の幼児は土日祝日を除いて保育園に通う。毎晩私の肩の上で寝入ることが習慣になった。夜泣きがあるとこたえる。暗闇の中を引き戸を引いて私の寝床まで突進してくるから付き合わざるを得ない。

 その孫が物を落としたり、こぼしたり、こわしたりした時 「あ~あ」 と言うことを覚えた。過ぎ去って還らないという想いこそが人生を最初から最後まで貫いている基本的な情調であることを私達は知っている。その 「ああ」 と孫の 「あ~あ」 に類似があるようでないようでなにやらおかしい。

 文庫本ソクラテス三部作の中には2度にわたり 「前後ありといえども前後せつ断せり」 という道元の言葉が登場する。何のことだか理解できなくて困った。その前後につぎのような文章がある。そこから推理するしかない。 「全存在は電光石火で僕なのだ」 とか 「私という現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です~これは賢治ですな」 というものだ。

 「生の前後と死の前後」 のことを道元は 「前後ありといえども前後せつ断せり」 と表現したに違いないというのが私のひとまずの結論だ。例えば14歳の子とその親との関係は14年前にはまるで関係はなかったのである。この当たり前のことの不思議に今さらながら気付く。「無」 とはあるといえばある、ないといえばない。

コメント
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