玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*哲学者と詩人

2009年09月14日 | 捨て猫の独り言

 フランスの独創的な画家ゴーギャンについてウィキペディア(フリー百科事典)で調べました。彼はごく普通の勤め人として5人の子供に恵まれ趣味で絵を描いていた時代がありました。後の1897年、貧困と絶望の中で遺書がわりに 「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」 を仕上げました。しかし自殺は未遂に終わります。最後の作品の題名には、だれもが興味を覚えざるを得ないのではないでしょうか。

 池田晶子に、つぎのような発言があります。「たとえば私は子供を産もうと思ったことがない。産んで産んでまた産んでと続いてゆく人類の生の連鎖の無自覚さをどこかで厭わしく思っているのだろう。産む産まないは自ら意志したつもりでも、自ら存在したことは自ら意志したわけではない。自ら意志して存在したわけでもない生命に価値などない」 私を考え、私を突き抜け、普遍に至ることを求め続けた池田晶子の覚悟でしょうか。

 谷川俊太郎に、つぎのような発言があります。「どうあがいたって自分の死を体験できないわれわれ人間にとって死とは死に至る生き方ということに他ならない。自然のままで調和を保って生きられるほど人間は無垢ではないんだ。自分で自分の命を断つというのっぴきならぬ行為も群棲動物としての人間のひとつの生きる知恵だと思いたい。無意味な延命措置を医師の関与を求めて停止する消極的安楽死に対して、医師の関与を求めず自らの生命の停止を自分で処置する行為を積極的安楽死と呼ぶ人もいる」 そして謎々遊びに誘います。 「作った人は使わない。持ってく人はとっとかない。買った人には用がない。買った人はご存知ない」 答えは 「棺桶」 でした。

 哲学者のきりくち・・・「数学者がいなければ数学は存在しないか、数学者なくしても数学は存在しているか」  詩人のきりくち・・・「この世に生れ出たその瞬間から、人間は言葉の海にほうり出されるんだと、ぼくは言った。人間は言葉に所有されているのだと考えた方が、事態に忠実な現実的な考えなのだ。人間は常住言葉によって所有されているからこそ、その事物を見てただちに何ごとかを感じることができるのだ」 以上は最近の読書によって触発された断片の羅列です。このところ短歌も囲碁も競馬からも遠い日々です。人はひとときも同じことを考え続けることはできないことを痛感します。

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