私がときおり参加させてもらう津田塾大学の今年度の公開講座の最終回が1月10日にあった。この日の講師は産婦人科医の池川明氏でテーマは「胎内記憶」だった。今年度の大テーマは「常識を考える」で、各分野から講師が招かれて年間ではその数が27名にもなった。企画と運営はすべて学生が行っている。その中のひとつに11月に行われた相模原の開業医師である小林國力氏の講演があった。40億年前に発生した「原始生命」が進化し分化して数百万種の地球上の生物になったというのには驚いた。
たとえば死者は正者の記憶の中にしか生きられないということにはうなずけるが、講演で聞かされた地球上のあらゆる生物の始原が原始生命ということは、どうしても私の腑に落ちない。このことは私の想像を超える。高齢者医療に携わる小林氏は「生」「老」「病」「死」の関係を考えようと言う。またWHOの「健康」の定義に改正案が出て検討が始まっているそうだ。肉体的(physical)、精神的(mental)、社会的福祉(social well-being)がダイナミックな状態であることという定義に「spiritual」も加えようという提案だという。この「spiritual」を日本語では何とすべきか悩ましい。
「いのち」とは何かを問い直す手がかりとなる視点として小林氏は、連続性と分断性、共通性と個別性、多様性と単一性、全体と個などを挙げる。ひとは死ぬために生きるという永遠のパラドックスを踏まえて生きているのだろうか。個体としては死ぬ人間が、繰返される生命をそれにもかかわらず肯定して生きていくのではなかろうか。そうであればこそ何でもない日常の情景であっても、限りなく深い意味を感じることができるのだろう。
ふだんは囲碁の教科書ぐらいしか読まない私が、図書館で偶然借りてきた本は歌人・永田和宏の「歌に私は泣くだらう」だった。亡くなった妻であり歌人である河野裕子との十年の闘病生活の記録である。河野が一時精神的に相当に不安定な時期があり、その攻撃性から家の中が地獄のような様相を呈した時期がかなり長く続いた。永田は島尾敏雄の小説「死の棘」を思ったという。「わたししかあなたを包めぬかなしさがわたしを守りてくれぬ四十年かけて(河野)」「歌は遺り歌に私は泣くだらういつか来る日のいつかを怖る(永田)」河野が亡くなる前日の歌「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」河野が亡くなってからの歌「このひとを殺してわれも死ぬべしと幾たび思ひ幾たびを泣きし」当時の永田の実感であった。